7月某日 演習室にて
「おはようございます。今日は再来週の発表に向けて資料進捗の確認とメンバー全員の役割分担を決めようと思います。」
毎週水曜日の3時限のゼミの時間。私の唯一皆勤の講義である。4~5名の少人数単位でチームを作り、各々がテーマを決めて研究し、発表するだけで単位が得られる簡単な講義だ。私はこの講義の自由性に溺れるかのように没頭していたのだった。嗚呼、自由とは何と素晴らしい……。
「一応完成させてきたからチェックお願いします。」
「あ、優木さんありがとう。やっておきます。」
優木さんはこの班の良心。彼女がいるからこそ私がリーダーを出来るくらい調整能力に秀でている。最初会った時はリア充系統と判断し少し距離を置いていたけど話してみるとかなり良い子だった。気さくで根暗な私にも話しかけてくれ、たまに美味しいお菓子とかくれる子。これからも学校生活においてはよろしくしてほしいところだ。
「班長ーこれ私の分だよー。」
そう言ってレポート用紙を適当にいくつかまとめたものを渡してきた彼女はこの班の問題児こと橘癒魅。その名の示すとおり癒され魅せられる男女多数。だがこの人のご両親には申し訳ないけどこれで"みゆ"と呼ばせるネーミングセンスは理解が出来ない。そしてどうしてそうなったことかやたらと人心を掌握することに長けており、あらゆる人間関係に自分を突っ込ませることを得意とする。見てくれだけでない生粋の人たらしなのだ。私とは正反対でかなり苦手な部類に入る人間である。ただ成果物は……粗さはあるが面白いので縁を切るような真似は出来ない。
「また理論総無視のオリジナル経営論ですか?」
「いやいやーそんなことないじゃない?エルトン・メイヨーだって人間関係論をね」
「貴女のはなんか名前だけ借りてほとんど持論を展開することに終始してるような気がするんですけど。」
それが面白い、とは言わない。心理学的観点から経営学を攻める基礎になるかもしれないし純粋に社会科学の学徒として見習うべきところはあったとしてもだ。何故なら完全にこの人のオリジナルだからだ。
「あは、バレちゃった!さっすが私の普段のレポート、ちゃんと読み込んでるだけあるねぇ。でも……」
「はい?」
「堅すぎるのもどうかと思うよー?理論通りじゃないと納得いかないのは分かるけどー?」
そう言いながらずずいと顔を寄せてくる。私のパーソナルスペースになんてことを……!
「……!!」
思わず仰け反ってしまった。こういう時に赤面するの本当に何とかしたい。変な誤解を招きそうだから。その、色々と……。
「んふふー班長反応が可愛いねぇ…。押し倒しても良い?」
「やめなさい。」
こういう言葉を間に受ける人間がいるというのも問題だが、この際最も問題なのはこの人間の存在そのものだろう。
「つれないねぇいつでも。まぁそういう娘こそ一回堕ちたら一瞬なんだけどね☆あ、そうだ。そのレポートで業界面に関する資料をさ、5年分くらい遡れば良いのかな?」
「5年はしんどいですよ?再来週までに間に合いますか?」
さらっと内面を攻めてくるようなことを言われたがそれには反応せず後者の内容だけ確認する。どうせやるだろうけど。
「大丈夫!私一回気になったら諦めない質だから!」
大丈夫の根拠が曖昧……。舌を出しながらウインクとかあざとさもひとしお。しかし侮ってはいけない。このあざとさにこれまで幾人もの男女が倒れてきたのだ。あまり深く関わってはいけない。が、その割には学校ではよく絡んでくるんだよねこの人。
「まぁ頑張ってください。後々私の研究に役立ってくだされば何だっていいので。」
私は私でしれっと本音というか下心は伝えておく。これは言える人にしか言えないけど。あと今更だけど私は学校では社交的なのだ。まぁ私が学校ならではの猫を被っているのもあるけれど……。猫を被ることは得意だ。人の顔色を伺ってばかりいた私にとって、ある意味社交的に接することには一切苦が無い。ただその分人と深いところまで接するというか、実際に距離を縮めることを大の苦手としている。だって人に自分の弱点知られるの怖いもん。
「それにしても莉乃ちゃんリーダーに向いてるよねー私だったら絶対無理だもん。」
何を思ったか唐突に癒魅が言う。
「はい?」
人心掌握術に長けた人間が何を言うか。しかしふと顔を見てみるとかなり真剣だ。
「私じゃ絶対人を統率できないんだよ。向いてない。」
「そんなこと…。」
「莉乃ちゃんはもうちょい自分に自信を持つべきだよ?」
かと思えばいきなりいつもの不敵な笑みを浮かべる。この切り替えの速さは何なのだろうか。驚天動地。それもこの橘癒魅という人間の不可思議さの特徴と言えるだろう。
今この人は何を感じ、何を考え、何を思っているのだろう。不覚にも私は今この瞬間、他人に興味を持った。この摩訶不思議な、いや摩訶不思議だからこそだろうか。人間として知りたいと、私は思った。
「ん、検討、してみます。」
「頑張ってね!」
文字で起こしたら語尾にハートマークを付けかねない勢いで彼女は答える。本当に何者なのだろうか……。
「班長―。ちょっと図書館行ってきます。他の子も集めて打ち合わせやった方が良いでしょ?」
それまでずっと黙って専門書を読みふけっていた優木さんが声をかけてきて驚いた。
「ど、どうぞ。そうだね、発表順とかこれからだしお願いできますか?」
「はいはーい。行ってきまーす。」
本当に良い子だ……。
「ねー?あの娘みたいにさ、莉乃ちゃんも素直になったらもっと可愛くなると思うよー?」
「じゃかましいわ。」
即効で切る。こういう時はさっさと自分の世界に入るに限る。
「ん、それじゃあ私も図書館行ってこようかな。」
「行ってらっしゃい。」
優木さんのレポートに目を通しつつ生返事を返す。
「それじゃあまたね。癒魅ちゃんはどこからでも貴女を見てるよ?」
「ホラーみたいなこと言いなさんな。」
そう言って橘癒魅は立ち去り、私は再び自分の世界に篭った。しかし一時的とはいえ、自分の心境の微妙な変化に、自分自身が驚きを隠せず、それもあってか同じ部分を二度読んでしまった。
第三話 End