7月某日 ベッドの上にて
第二話 7月某日 自室の寝床にて
「なんでこんなに変な人間になっちゃったんだろうなぁ……。」
休日の朝、目が覚めたままのスタイルでつぶやくのはこんな一言である。
思えば生まれてから私は人間関係において失敗続きだったような気がする。運が無いと言ってしまえば如何にも私に責任が無いように思われるかもしれないがそれでも人間がいるからこそ起こる天災のような理不尽に何度も巻き込まれるとここには人智が及ばない力を感じさせるという感想を抱くのにも納得していただきたい。
私は起きる気力を無くし、天井を見つめながら自分の発言の問いかけについて考えを巡らせることにする。気分がよろしくない時にすることではないのだが、むしろ気分が良くない時にこそよくしてしまう謎の矛盾で今日も揺れる。
「昔から変な子供だったような……。なるべくしてこうなったか……。なるべくしてといっても全くこのような形を予想はできなかったんだけど。」
幼少期。たくさんの子供達と遊ぶよりも毎回決められた子とよく遊ぶ子だった。ひとり遊びはあまりしなかったけどひとり遊びをする時は大体虚空を眺めてぼーっとしていたような記憶がある。この頃からが誰かの視線を意識しながら人生を歩み始めた最初の社会だったのだろう。
少女時代。舞台は学校教育に移る。誰かの目線を意識しながら生きるということは、必然的に大人にとって都合の良い人間像を作り上げるということだった。勿論たまに道を外すこともあったが、ほぼ全ての行為についての善悪の判断基準を持っていたしそれを指針に生活を送っていた。その基準を作ったのが大人というのが実に面白い。こうした規則・規律・規範というものを守ることに一切の抵抗がなく、むしろそれに降伏することこそがしっかりと生き抜く為の処世術として信じ込んでいた。やりたいことをやりたいようにする。それには義務や責任が伴うということも理解していたし納得もしていたのだ。
だが、それは同じ歳の人間にとってどう映っただろうか。大人の言うことに反発し子供だけの世界を作り上げることに執心する同世代にとって、私のように大人の世界に従属する行動を同じ世界の人間とみなすだろうか。無論、子供にとってそれは難しすぎた。どの世界でも共通することかもしれないが、同じ世界にいないものは排除される。私はその格好の的と自らなってしまったのだ。ここでしっかりと立ち回り、同世代にも大人にも上手く対応できるような頭を持っていれば、私は今ここでこのようにうだうだと悩んでいなかったかもしれない。それはそれで別の悩みを持つことになろうが今の私のようにはなっていなかったことだろう。子供の世界に住みながらして、大人の理論に従って生きる。この歪みが生み出した結果は惨憺たるものだった。不器用さを存分に発揮した結果と言える。
いじめの経験を活かすことの出来る人間が存在するという。いやはや、尊敬ものである。これほどにまで恐ろしく尊厳を傷付け、数の論理を適用してたった一人を相手取って本気の戦争を仕掛ける其の様は大人ですらなかなか止めることが難しいのではなかろうか。少なくとも私には止めることができなかった。正直に言って同世代を舐めていた。それは力が及ばないという意味ではなく、純粋にそこまで悪意を伝播させ個の力を集団の力に増幅させ、実際の行動に結びつけるまでのプロセスを平気で踏むほどの良心の無さが現実に存在しないであろうという甘い予想としてだ。また、残念なことに私はその頃ひどく負けず嫌いであった。また、時を同じくして大人への信用を失っていたため、必然的に誰かに頼ろうという思考すら回らなかったのだ。大人の世界に従属しながら子供として生きているこの苦しさは一切誰にも理解されることなく、尚且つ心情やら精神年齢やらは子供である為、その捻れがそのまま性格に反映されたのだろうと思う。死ぬほど辛かったが死にたいと思うことは無かった。負けるのだけは嫌だったから。しかしそこで負けていた方が今これほど死にたくなることはなかったかもしれない。だからといって当時の自分を否定はしない。そのとき全力で考えた結果の行動なのだから過去の自分の選択を尊重したいと思う。
少女というには些か大人になった頃、様々な人間がいることを知る。それまで悪意に満ちた存在こそが人間の本質と信じて疑わなかったものに変化が訪れる。そこからいよいよ人間が分からなくなる。自分にとって何が人間の本質なのかが不明になり、ある意味で人間不信を深めることに繋げることになる。だが表面上の人間関係が心地よかったことは否定しきれない。その点では少女時代よりも生きやすい世界に生きていたのかもしれない。私は考える。私を取り巻く人間のどの側面が真実なのかと。だがこれは今日に至るまで結論を出すことは出来ない。実際、両面を見てしまうとどちらが真実なのかが分からなくなる。その結果人間を心底信じることが出来なくなり、必然的に距離は開いていく。最初のコンタクトが悪意の側面だった為、余計にそうなったのかもしれない。
もっと遡って思えば、ずっと親のことが好きになれなかった。私の為を思っての発言であっても私は傷ついた。真に私のことを思えばもう少し言い方があったのではなかろうか。何も本人自身がが自己の存在を否定してしまうくらいに追い詰めるような言い方をしなくても良かったのではなかろうか。これまで幾度となく自らが持つ尊厳を失わされてきた。だがそんな事に慣れるはずがない。何度繰り返そうとも慣れるはずが
「うぐッ……!!」
突如強烈な吐き気を覚え、トイレに駆け込む。が、吐くことは出来ない。私は嘔吐恐怖症なのだ。
仕方なく隅でうずくまり、しばらくえずきに耐えてから部屋に戻り、口内をすっきりさせるためにミントタブレットを取り出す。吐きそうになった時、今のように無意識に身体が震え出すのだ。ミントタブレットを口に放り込んでしばらく荒い呼吸を繰り返すと、徐々に落ち着いてきた。過去のことを思い出す度にこれだ。嫌になる。たぶんこれらが影響しているのだろう。人間関係においても何かある度に震えが止まらなくなったり冷や汗をかいて気分が悪くなることがあるが、これも私の責任の範囲と言えるのだろうか。
さて、落ち着いたところで再度回想に戻るとしよう。その後経営学の領域での勉強にてある種の自信を取り戻し、この領域に関しては命をかけてもいいと誓えるほど没頭したものの、人間関係、及び現実の社会というものとの接点に関しては未だに克服できずにいる。幼少期からの度重なる現実のおかげで猫を被ることだけは一流の業を身につけたと自負しているが、外面が良い分ボロが出たときにどう思われるかということで頭がいっぱいになり、健全な人付き合いが出来なくなっていた。そういう意味において、私が心底信頼をおくことができるのは自分と似たような境遇や人間関係を経てきた人間であり、外面の良さからかなりの時間をかけて素の自分を開示できるようになった人間であり、それ以外は人類一般を信用していない為、今日も私は猫を被るのである。あくまでも綺麗な自分を見せようとする。ボロが出たなら出たまでだ。最初から信用していない人間から失望されようとも何とも思わない。はずなのだが、そこを気にする程度に社会に迎合しているので、私は相当ゆがんでいるのかもしれない。時折開示したくても出来ないストレスから、何もかもを投げ出してしまいたいという衝動に駆られるが、毎回好きなことや趣味に押し止められてきた。何とか生きる目的や意味を見出してきた。そうでもしなければかなりの若年齢であの世へと旅立っていたかもしれない。無論長く生きることの意味も見いだせないのではあるが、好きになれなかったとはいえ親への借りの大きさは計り知れない。借りた分は返す。貸借一致の原則である。その点を守りきってこそいつでも腹を決められるというものだろう。そうした意味合いで私はまだ生き延びなければならない。たとえ死にたくなるほど辛い日常が待ち受けていようともだ。
「今日も何とか一日生き延びよう。」
ほぼ日課となった独り言を呟いて、私は身体を休めるために再度ベッドへと潜り込んだ。
第二話 End