核エネルギーに代表される無知
「人類が核エネルギーが発見しなかったとして、それでいま、こまることが何かある?わたしはひとつも思いつかないけど」「・・・・・・私も、思いつきません」
これはある娯楽小説からの抜粋だ。
煮えたぎる怒りを覚えた。だが、こらえる。
高度で入り組んだ科学の世界、恩師の言葉を借りるのならば
普通の研究者は一つの小さな分野の研究だけで限界だ。
数十年・百年に一人の天才だけが「俯瞰的に見る」ことができる。
基礎的なことも何も知らない人が幾多の優秀な科学者たちが
ときに失敗し、ときに挫折しながら積み上げてきたものを
理解などできるはずがない。そう、堪える。
核エネルギーは決まったエネルギー準位をとる。
つまり、エネルギーが決まっているためそとから捕捉できる。
PETなどがいい例だが、放射標識といったものもそうだ。
生きている細胞の挙動を可視化するのに適している。
問題は、規制により非常に使いにくく手間がかかることだ。
だから、できる限り放射性物質は使わないようにする。
それでもそれを使わなくてはならない研究は山ほどあるのだ。
そうやって得られた成果は、我々の生活に溶け込んでいる。
未知の病は未知ではなくなり、
既存の治療法より、より安全な治療法も分かった
年代特定の技術も進歩し、
文化財の保護についても様々な観点から見ることができるようになった
遺伝子診断も遥かに容易で高精度なものへ変化していった
一秒という定義もより厳密なものへと変わった
たしかに今の人が困ることはないのかもしれない。
未知の病がはびこり、毒一歩手前の薬を飲む。
人々の死ぬ人数が増えること、様々な技術発展がないこと
今、生きている人がそれらを困ると考えることはできないだろう。
それまであって当たり前の技術がないということ
それに困るのは技術が失われてからなのだから。
こういったことの一端だけ知ることは難しくない。
放射線の利用について調べればいい
あるいは放射性物質の利用について調べればいい
あとは根気よく地道に勉強していくことだ。
少ない予算のなか、学者たちが研究し
その成果を少しずつ積み上げてきた苦労を愚弄してほしくない。
無知とは特に、とんでもない暴論になるのだと知ってほしい。
核エネルギーの発見がなかったからといって何も変わらない。
そういえるのは、放射性物質が発見される以前からの生活をしているだけだ。
そして、最新の病気の治療・予防をしていない人だけだ。
昔の芸術の鑑賞をしていないことも追加されるだろう。
核エネルギー発見の恩恵にあずかっていない人はどれくらいいるだろう。
それまでのエネルギーと一線を画した核エネルギー
それはそれまでの常識を打ち破るもので一つの転換点でもある
だから、多くの研究指針にも影響を与えたのだ
この無知が利するのは、
無知を利用して金儲けしようとする輩
無知を利用して権力を手に入れようとする輩
身の回りのものについて私たちは実は何も知らない
無知の知「私は自分が何も知らないことを知っているというだけだ」
無知であること自体は仕方がない。
だが、無知であることを自覚して知ろうとする努力を怠ってはいないか。
さもなくば無知とは「有害な毒物以上の害毒」以外の何物でもない。