日常と非日常
今、「熊本地震」が起こっている。
のちに名称は変更になるかもしれないが、2016.04.18現在はこの名称だ。
連鎖的に起きた直下型地震。
それは今までの震災とはまた異なるものといえるかもしれない。
けれど、地球というものが生まれて数十億年。
その歴史に比べて私たち人間の歴史は最長でも一万年といったところだろうか。
ましてや「観測」を初めてからの日数ははるかに短い。
ならば、私たちが知らないことが起こることに不思議はない。
今、できることをする。
それしか私たちにできることはない。
そしてそれ以上に価値のあることはない。
「できる」ことと「できないこと」があるのだ。
それを確かに区別することが大切なことだと思う。
よく「不可能を可能にした」などというが、
「可能」だった時点でそれは「不可能」ではなかったということだ。
反省すること、非難することは後からいくらでもできる。
だから、
今は「今、できることをする」ことが大事ではないだろうか。
私は通称3.11、東北大震災のとき、震度3,4程度の場所にいた。
私自身が被害をうけたことはなかったし、最終的にまったく無事だった。
大学でちょうど研究室の配属が決まり少しずつ動いているところだった。
本震のとき、私は一人で研究室の薬品などがおかれた場所にいた。
揺れる中でとっさに安全と思った場所で薬品たちが落ちないことを祈った。
そして揺れる間、行動のシミュレートを何度も繰り返すことしかできなかった。
研究室の先生は当時、出張中だったがどうにか連絡がとれた。
その後、数日間先生は電車が動かず大学に出てこられず。
私は怠惰な大学生としての時間を過ごした。
当日は大学から近い自分が居住する賃貸アパートに帰った。
自室は幸運にも被害らしい被害はなかった。
キャリーケースに食料などを詰め込みいつでも逃げられるようにした。
あとはテレビをつけて、その横のパソコンで音楽やゲームなどにいそしんだ。
そして眠り、次の日には大学へといった。
研究に使うための生物の飼育があったからだ。
先生からは無理する必要はない、自分の安全一番といわれていた。
ただ、自身に被害がなかったので研究室の現状報告と最低限の飼育をした。
あとは先生から指導された最低限の内容をこなし帰宅した。
アルバイトもしていなかったので時間はあった。
午前は非常時のための食料をもち、民家の崩れた塀を横目に大学へ行き、
午後はテレビをつけ情報を得ながら娯楽にいそしみ寝る。
その後、そんな生活が続いた。
新年度でなく本格的な研究室稼働はなかったからだ。
多少、誇張された記憶かもしれないが今も頭の片鱗に残っている。
「何かできたのではないか」と言われればそうかもしれない。
けれど、私は「非日常」の中で怠惰な「日常」を過ごした。
余震が続く中で自分がいつ「被災者」になるかもしれない。
断水・停電など被害がでるかもしれない。
それでも怠惰な「日常」を過ごした。
食事を食べ、パソコンをし、テレビを見て、寝る。
いつもと少し違うのは「いざ」の備えをいつも頭の片隅に入れていたことだけ。
結局、その「いざ」が来なかったのは幸いだった。
そんな非難に値するかもしれない日々を過ごした私だが、
あえて私自身は胸を張って言おう。
あの生活の中で私は「日常」を過ごしたのだと。
両親への定時連絡は追加されたものの「日常」を過ごした。
私の実家は被災地からさらに遠かったため帰省案もでた。
でも、私は「日常」を過ごした。
いつ何が起こるかわからないのは「日常」だから。
事故に巻き込まれる、急病に倒れる。
いろんな「非日常」がある。
それでも私たちは「日常」を過ごす。
「日常」を過ごすことで「非日常」に備えるのだ。
もちろん、「非日常」に置かれている人たちは違う。
だが、「日常」にいる人たちは「日常」を守るべきだと思うのだ。
テレビで流れる「刺激的」な映像に思うこともあるだろう。
心配することを悪いとは言わない。
だが、過敏になりすぎることもいけないと思う。
少なくとも、災害対策の「さ」の字も知らない素人と、
災害対策において前線で働いている人たちは違うのだ。
比べれば小さな災害だが台風の際に父が体験したことを聞いていた経験から、
自分の手の届かない「非日常」のことは専門家に信じて任せる。
それが私のスタンスである。
画面越しに「非日常」を見ても専門家たちが救助してくれることを信じる。
他人任せで無責任で
でも、それは悪いことなのだろうか。
「日常」にいる人間が「非日常」に立ち向かう人間にできることは、
特にその「非日常」を知らない人にできることは、
自分の「日常」を守ることではないだろうか。
もし手助けを求められたなら手を差し伸べるべきだと思う。
「非日常」に親族・友人・知人がいるのなら彼らを励ますことができると思う。
でも、そこまでではないだろうか。
利己的・自己中心的と言われるかもしれない。
でも、自分の「日常」を守ることもまた
「非日常」に対処するということではないだろうか。
私は今日もニュースを見ながら自分の「日常」を過ごす。
それは娯楽であったり休養であったりと怠惰な生活だ。
そのこと自体には自身のことながらなさけない。
しかし、今の私にはそれが「日常」だ。
中学高校時代の悪夢を見る、思い出すトラウマに吐き気をこらえながら。
すこしでもリハビリをしていつか研究室に社会に復帰するために。
浪人一年、大学三年と数か月。懸命にこらえたトラウマの爆発。
大学はかろうじて卒業させて頂けたが、その先は続かなかったのである。
今日も私は、手の届かない「非日常」を切り離し、私の「日常」を過ごす。




