言論の自由
私がこうして気楽に文章を発表できるのは偏に言論の自由のおかげということができるだろう。なぜなら、どんなに批判的なことを書こうともそれを直接の理由として罰せられることはないからだ。
なぜ、こんな基本的なことを書こうと思ったのか。それは「言論の自由」が蔑ろにされているからだ。
日本国憲法第21条。集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
この「言論の自由」は文章を書こうとして検閲または弾圧を受けた先駆者たちがいて、彼らの行動の上に成り立っている。
私は彼らに顔向けができない。それは彼らの屍の上にある「言論の自由」という保障の中で、彼らに比べてはるかに低俗で無責任な人々が「言論の自由」を振りかざしているからだ。
幸徳秋水著「死刑の前」では死刑によって死に処されることよりも、死刑ということにより自らが悪人・罪人であるとされることがおそろしいと述べている。
私たちは前述の条項により「表現した」という事実によって悪・罪とされることはない。
だからこそ、ただ「否定」を声高に繰り返すことをしてもそれ自体により処断されはしない。
さて、ここで考えてほしい。
処断された先駆者たちは命がけの覚悟で自らの言葉を論説を発した。
現在、安保決議に反対する人々など「反対」というプラカードを掲げて、ただ「反対」だと宣言するだけの人々にその覚悟があるだろうか。
自由には「責任」がある。それは自分の行動に対しての責任である。
「発言」することは結構である。ただし。賛成するならばなぜ「賛成」なのかを明確にする必要があるだろう。反対するならばなぜ「反対」なのかを明確にする必要があるだろう。
そして、「賛成」ならば「反対」の意見を聞き再び真剣に考えること。「反対」ならば「賛成」の意見を聞き再び真剣に考えること。それが重要なのではないだろうか。意見を曲げることは決して恥ずべきことではないはずだ。相手の言葉を理解しようとすること。自らが間違っていると思ったならば意見を変えること。君子豹変す。もう一度書くことにする。意見が変わることはなんら恥ずべきことではないはずだ。
真に恥ずべきは、自らの意見を変えるという選択肢を一切捨て、ただ「賛成」や「反対」だと口にすることではないだろうか。
「言論の自由」を得ている私たちは、はたして自分とは異なる意見を聞く覚悟と、自らの意見を変える気概を持っているだろうか。
ただやみくもに「賛成のための賛成」や「反対のための反対」を繰り返してはいないだろうか。
そしてそれは言論などではなく、言葉の暴力以外の何物でもないのではないだろうか。
私は「言論」というものは大いに盛り上がるべきだと考えている。一方で「言葉の暴力」はその暴力についての責任を追及されるべきものだと考えている。
言論はそれ自体が罪・罰とされるべきではない。
言葉の暴力はそれ自体が罪・罰とされるべきではないだろうか。