第二話 <降ろされた世界>
ピートという、小さなウサギのぬいぐるみに羽が生えたような生物に連れられ、姫棗は丘を下った。
下り始めて分かった事だが、この丘の麓には、ギリシャにあるパルテノン神殿のような真っ白な建物が建っていた。
ただ、ギリシャのそれとは違い、壁も天井も柱も崩れておらず、ちゃんと人の住めそうな建物である。
そこには人が住んでいるようで、白くて威厳のある立派な建物の周囲には、小さな畑や干された洗濯物、割りかけの薪木など、生活している確かな痕跡があった。
途中、ピートと言う生物は色々話してくれた。
「とりあえず、ここが何処か聞きたいわ、ピートさん」
姫棗がたずねた。
「ピートと呼んでくれ。ここはヒーナが居た世界とは、何て言うか、次元が違うんだ。そう、ヒーナからすればここは異世界なんだね」
「妖精とか、妖怪の国とか?」
「そう!オイラは妖精だけど、そんな感じじゃなくて、何て言うか、天国みたいなもんなんだね」
「天国?!私、ベッドから落ちて死んじゃったの?」
「いや、そうじゃなくて、何て言うか、…魂だけでここに呼び出されたっていうか…降りてきたって言うか…」
「呼び出された?!誰に、何のために?」
「ヒーナの世界で言う神様にさ。フラン様っていうんだ。この国の女王様さね。とっても綺麗な女神様なんだね」
ピートは何故か得意気であった。
「どうして神様が…私に何の用なの?」
「質問がばっかりだねぇ、まぁ、しょうがないけどさ。大丈夫、心配しないでね。ちゃんと元の世界に帰る方法はあるからさ」
早口で喋りながら、小さなウサギは姫棗の頭の上に止まった。
その重さはほとんど感じない。
「私、家に帰らないと両親が心配しますから…」
夢である事は間違いないのだが、おおいに現実感があってヒーナは戸惑った。
「分かった分かった。最初から説明するから、ちゃんと聞いてね…」
そういうとピートはヒーナの頭からまた飛び立って語り始めた。
昔、この世界には沢山の神々が住んでいた。神々は沢山いたが、この土地を巡って争いお互いに神々の持つ強大な力で殺し合って、最終的に八人になってしまう。
八人は争うことはやめなかったが、互いに協定を結び破ったものは全ての土地を奪われるという制約を交わした。
その協定とは、
一つ、神は神や他の生物を殺してはいけない
一つ、すでに現存する妖精や人は自然に増え、変わる分にはいいが、既存の生物も土地も地形も含め、新たに何かを作り出す、もしくは改造してはいけない
一つ、神は国の首都と定めたその土地を出てはいけない
の三ヶ条を軸にした協定で、他に細かな取り決めもある。
ところが、一人の神はこの協定に断固反対した。
他の七人の神は相談し、協定に違反せずに反対するこの神を殺す方法を考えた。
この世界には神に形を模した人や、妖精、幻獣、悪魔など、いろいろな生き物がいるが、どれも神の製作物で神の力を超えられないし、神を殺すことなどとうていできない。
それならば、神の手を離れた別の何かに神を殺させよう。
そうして出た結論が、異世界から神の使いとして戦士の巫女を召還する方法だった。
姫棗などが住んでいる世界の住人をこの世界に召還すると、魂だけが召還される。
そのとき、魂が覚えていた肉体の形が殻になって魂の周りを覆い、身体を形成する。
それは本物の肉体ではない為に、様々な可能性を秘めた存在になる。
七人の神が召還した巫女は見事に協定に反対する神を殺した。
そこで、七人はとりあえず土地を七等分してルールに則って領土を奪い合った。
「私は神様を殺す為に呼ばれたの?!」
ヒーナは急に立ち止まって、半ば叫ぶようにたずねた。
「まぁ、簡単に言ったら、そういうことだね」
ヒーナの顔の前で、何食わぬ顔でピートが言った。
ヒーナが歩かないので羽をせわしなく動かして空中に留まっている。
「そんなの無理よ!私、普通の女の子だし?!」
「まぁまぁ、そう言うなよ。ヒーナはこの世界ではとても強大な力を持った戦士なんだからね」
ウサギのような生物は、なだめる様にそう言った。
「そうだ!あのね、他の神を倒したり、一国の領土を制圧した暁には、フラン様が何か一つ願い事を叶えてくれるんだよね」
羽付きウサギはそう言いながら姫棗の顔に近付いて来た。
赤い目がギロリと光る。
「好きな男の子と恋人になりたくない?何かのコンテストで優勝したりとかは?お金持ちにだって、有名人にだって、英雄にだってなれるよね!」
ヒーナはそんなウサギの声に耳を貸さなかった。
「もういい!とにかく、私帰る!」
そう言うが早いか、ヒーナはきびすを返して丘の頂上に向かってズンズン歩き出した。
その時、ヒーナの頭の後ろで、風を切る音が幾つも聞こえた。
かと思うと、地面に何かが突き刺さる音が幾つかした。
「ヒーナ、敵だ!」
ピートが叫ぶ。
ヒーナが振り返ると、小さな妖精は帽子ごと頭を抱えて地面に伏せていた。
その向こうの地面には赤い棒が突き刺さっている。
ヒーナの表情に恐怖が走った。
「外したぞ!」
何者かの声が聞こえた。
そしてシュランと金属の擦れる音も。
「ふもとの神殿まで逃げろヒーナ!」
ピートの声にヒーナの体はビクンと反応した。
――― これは夢よね!? ―――
夢ならば逃げなくても別段問題はないはずだ。
だが、この状況で、身体が反応しない方がおかしい。
「逃げるぞ!追え!」
その怒声に背中を弾き飛ばされるように、ヒーナはふもとに見える神殿に向かって走り出した。
叫んでいるのは若い女のような声であったが、後ろを振り返ったり脇を見てその怒声の主を確認する余裕はない。
飛び上がってヒーナの服に掴まった狂いウサギは、
「奴等は投槍を使う!この先の林まで行けば投槍は使えない!」
と、上下にゆれながら叫んだ。
言われた通り、駆け出す足元には草の生えていない獣道のような道があり、それが雑木林へヒーナを導いている。
ピートはまた叫ぶ。
「道なりに走るな!直線で行け!」
ヒーナは眉をしかめながらも懸命に坂を転がるように走った。
「林に行かすな、その前に仕留めろ!」
女の声が叫んだ。
と、ヒーナのすぐ左をゴゥと恐ろしい音が追い越したかと思うと、道が林に入るところに赤い球が落ちて火柱が上がった。
今そこへ飛び込もうとしていたヒーナは、土を踵で削り、それでも勢い余って転がりながら、火柱の手前でなんとか止まった。
ペタンと尻餅をついたような格好で、呆然と炎の柱を見上げる。
ピートはさらにその先へ投げ出され、火柱の火の粉が届くくらいの距離まで転がっていった。
「アチ、アチ!」
と叫びなら体の火の粉を払っている。
「今よ!」
再び女の叫び声。
ハッとして振り返る。
そこには、斜面の上で赤い棒を掲げた兵士が三人立っていた。
赤い棒の先はギラギラと陽の光を反射して光っている。
ヒーナは土だらけの下半身を地面に預けながら、どうしようもなく、その兵士たちを見上げていた。
兵士たちは三人とも黒髪で長身、筋肉もあり、よく使われて傷も多い銀色に光る胸当てをし、その胸当てから伸びる太い腕は、赤い槍をしっかり握っていた。
もう片方の手には剣を抜き身で持っている。
三人がほぼ一斉に腕を振り下ろし、その赤い槍をヒーナに向かって投げつけた。
ヒーナはどうすることもできずに座ったまま、ただ見ていた。
この男達が来なければ頂上へ戻るつもりだった。
お父さんやお母さんのいる元の世界へ帰るつもりだった。
私はここへ来て数分も経っていないし、ここで何もしていない。
まして何も悪い事はしていない。
なのに奴等は私を殺そうとする。
放たれた槍はギラギラと光りながら、まさに命を奪わんとこちらへ飛んできている。
なぜ私は殺されなければならないのだろう。
イヤだ、死にたくない!
でも、このままでは三本の朱槍に頭やら体やらを貫かれて死んでしまうだろう。
この槍を止める事ができれば、この槍をあの太い腕で投げられた力より大きな力で押し返せれば、死ななくて済む。
姫棗の両手は自然と前に突き出されていた。
もうすぐ槍が少女に届きその体を貫かんとする。
「イヤー!!」
叫び声と共に、両手から白い閃光が放たれた。
大雨が降った後の川の流れのような、真っ白な輝く濁流が両手の前に突如出現して高台の斜面を一直線に駆け上がる。
それは三本の槍と、その槍を投げた三人を飲み込んで、瞬く間に消えた。
閃光が消え去ってヒーナの眼前には、あの三人の屈強な兵士も、襲い来る三本の朱槍も消えていた。
「な、何だ今のは!」
女の声がした。
右手に曲がった片刃の剣を持ち、ヒーナに襲い掛かってくるところであったようだが、さっきの閃光を見て立ちつくしている。
「ヒーナ立て!」
羽ウサギの声。
ヒーナは先ほどの立ち止まっている女を怯えた表情で凝視しながら、ゆっくり立ち上がった。
足や腕に痛みが走る。
――― 夢…じゃないの?! ―――
痛みで少し表情が歪んだヒーナを女は驚いた顔で見つめている。
ヒーナに刃を向けるその女は、パーマをあてたようなウェーブがかかった黒い髪を後ろで束ね、黄色いマントを羽織っていた。
その胸当てはさっきの兵士と違って真新しい銀色をしている。
自分より年上だろうが、そんなに上ではない。
彼女もまだ若い。
黒い肌に茶色の瞳、鼻筋が通って彫が深い、中東から中近東の人のような顔立ちをしていた。
女の表情には最初驚きの色合いが濃かったが、ヒーナが立ち上がると、だんだんその顔が強張り、徐々に険しい顔つきになっていった。
そして、
「お前、よくも!」
叫ぶと同時に抜き身の剣を振りかぶってヒーナに襲い掛かった。
ヒーナは短い悲鳴を上げ、後ろに飛び退いてその一撃をかわし、それと同時に数歩下がる。
そのとき、ヒーナは横目で、足元に木の枝が落ちているのを確認した。
木の枝は竹刀よりは少し短いものの、丁度いい太さ、長さのようだ。
ヒーナは相手を見ながら、それをさっと拾い上げ正面に構えて背筋を伸ばし、剣道部の試合を思い出して相手に集中した。
相手はこちらの表情、目の色が変わったのを感じたのだろう、曲刀を構え直し、足をゆっくり動かしてヒーナの隙をうかがった。
女はヒーナの左前方まで、一歩一歩慎重な足取りでにじり寄り、唐突に曲刀を振り下ろした。
ヒーナはその剣の横から棒を当ててはじき返し、一歩踏み込んで女の胸元に突きを入れた。
女は慌てて後ろに飛び退く。
しかし女の曲刀はまだ頭上にはじかれたままだ。
ヒーナはさらに一歩踏み込んで女の胴を横からなぎ払った。
女はその一撃を、頭上の剣を倒してガードしながら、さらに身をよじってかわす。
「…す、凄いね、ヒーナ!」
ピートが驚愕していた。
その声にもヒーナは無反応でただ目の前の敵に集中した。
「ヒーナと言うのか?」
女がつぶやいた。
そうきいている間も、女は曲刀を構えてヒーナを正面に見据えていた。
一切殺気は消えていない。
そのとき、遠くで大勢の野太い声がした。
何かを呼ぶ声。
「援軍が助けに来たんだね!」
ピートはそういうと、その声に答えて「ここだ!」と叫び返した。
女は少し咽を鳴らして毒づくと、ゆっくりと後ろに下がった。
ヒーナに、その間を詰めて戦う意思がないことを確認すると、剣を下ろした。
「私はジル。ヒーナ、覚えておくぞ!」
言うが早いかきびすをかえして山の斜面を駆けて行った。
ヒーナはしばらく、木の枝を構えたまま、ジルが引き返す様を見守る以外できなかった。
ジルが去った後、すぐに味方らしい兵士達が何十人も山を登って来た。
挨拶をされても、ただ頭を軽く下げる程度で何も答えることはできず、ただ凍える冬空に裸で放り出されたように、両手で両肘を抱えてガタガタと震えていた。
ヒーナは、ピートとかいう妖精に導かれるまま、丘を降り、そのふもとにあったギリシャ神殿のような建物に入った。
ヒーナが神殿に着くと、真っ白な法衣をまとった沢山の女性たちが出迎えてくれ、その建物の中へと通された。
神殿の内部は真っ白で質素な作りでありながら、荘厳な空気が漂っていた。
真っ白な廊下に開いた四角い窓には、ガラスも窓枠もはまっておらず、朝だからなのだろうか、柔らかい陽の光が白い廊下に差し込んでより白く照らしていた。
「炎のジルを追い返したんだぞ!」
などとピートは興奮気味に、そして自慢げに周りに話していた。
しかし、ヒーナはそんな羽ウサギのような誇らしい気分にはまったくなれず、ただただ伏目がちに廊下を歩き、成り行きに身を任せた。
早く一人になりたかったし、休みたかった。
最初に案内されたのは浴室だった。
湯につかった時に、擦り剥いたひざこぞうがしみた。
そのピリピリとした痛みが、自分の身に起こった今までの事を現実だと証明していた。
とにかくヒーナは湯を浴びて体を洗い、ここの女たちと同じ真っ白な法衣に着替えた。
次に通されたのは小さな部屋であった。
木製のベッドとテーブル、椅子が備え付けられている。
テーブルの上には、黄色い液体で満たされた白い皿が置かれており、湯気を上げている。
ヒーナは何も喋らなかったが、椅子に座らされ、パンを一切れ渡された。
それをかじり、皿の暖かいスープをすすり終わると、ヒーナは早々にベットに寝転がった。
できれば夢であってほしい。
退屈だけど平和な日常、その場に早く帰りたい。
眠れば、そして目を覚ませば、また元の世界に戻れるのだろうか。
むこうが襲ってきたとはいえ、自分は三人の兵士を殺してしまったのではないのだろうか。
あの光はなんだったのか。
全て、夢であってほしい。
ヒーナは明日、生まれ育った家の、見慣れた自分の部屋で目を覚ます事を願って目を閉じた。