#1
結局、なにも始まらないお話を書いてしまうのです。
金曜日は特別だ。
腕時計は午後7時を示している。
なんで今週に限って金曜日にバイトの交代頼まれなきゃいけないんだ、とため息をついた。
俺はくしゃりと髪の毛に指を入れて、カンカンと靴底を鳴らしながら階段を上っていく。いつも通り、とあるアパートの2階にある一室の前までやってきた。そして躊躇なくノブを回し、盛大にドアを開ける。
「ただいまー、疲れたー!」
「ただいま、じゃない!ここが君らの自宅だったことは一度もない!」
呆れた顔でキッチンに立っているナホ。
そう、ここは俺の家ではない。家主はナホで、ナホの一人暮らしのアパートだ。
2DKという間取りではあるけれど、決して広いわけではない。玄関を入るとすぐダイニングキッチンのようになったスペースが7帖、その奥に6帖の部屋が2つ。それからトイレと風呂と洗濯機置き場。
ダイニングにはこの季節はこたつが置かれ、今日もそこには先客がいた。
ナホにはばれないように、ちっと小さく舌打ちをする。
ちょっとは気ぃ利かせてくれ。(バイトを交代してやったから遅くなった俺も悪いけど。)
「セイジ、バイトおつかれー」
「サユリ、お前いい加減、ナホと一緒に帰ってきて、ずっとここに入り浸るのやめろよ」
「そのセリフ、そっくりそのまま返す」
初めてナホに会ったとき、俺たちは10歳で、ナホは20歳になったところだった。
今から10年も前のことだ。
ナホが苦笑したままハンガーを手渡してくれるから、俺は素直に受け取ってジャケットを脱いで掛ける。いつの間にか玄関の脇にハンガー掛けが設置されたのは、たぶん―――いや、確実に―――俺たちが頻繁にやってくるからだろう。
いそいそとこたつに滑り込めば、こたつの中でサユリに蹴られた。
いてー!うるさい!暴力ハンタイ!へたれ!
ぎゃあぎゃあと言い合う俺たちを横目に、ナホはキッチンで作業を続行している。
「今日は手抜き鍋しかないからねー。しかも土鍋ですらない」
土鍋だと量が足りない、とナホは呆れた顔をしている。ネコっぽい顔のナホにぴったりな、ネコの手の形をしたミトンをはめて、ナホが大きな鍋を持ってきた。
「今日のシメは、雑炊一択です」
高らかに宣言をしながらナホが鍋のふたを取ると、ぐつぐつと美味しそうに揺れている豆腐とお肉、てんこ盛りのもやしが顔を出した。
「カレンとリョウタも後から来るらしいから、残しておいてね」
「えー、まだ増えるのー」
「じゃあ、お前帰れよ!」
俺は―――俺たちは、20歳になった。
あの時のナホと同じ年だ。それでも俺たちは、ナホの前だとあの頃と何も変わっていない。
***
茹だるような暑さの7月の終わり。
ボロっちいプレハブみたいな見た目の学童保育に、ナホは突然やってきた。
「今日からバイトに入ってくれる、ナホちゃんです。」
「篠田奈帆です。今日からよろしくお願いします。」
午後4時。俺がいた学童保育では、ちょうどおやつの時間だった。
主指導員のタカの横に立って、ナホはぺこりとお辞儀した。何人かが、名前なにって?と聞き返し、もう一人のアルバイトのユキが「ナホちゃんだよ、ちゃんと聞いてて」と注意していた。
当時はまだ小学4年生だった俺にはイマイチわからなかったけれど、どうやらアルバイト募集をかけていて、履歴書たるものを送ってもらって面接をして、7月の父母会で最終決定の後、この日からのアルバイト開始になったらしい。と、タカが説明していた。
つまり、突然やってきた、じゃないということだということだけはわかった。
新しい“お姉さん”の登場に、低学年がわっと盛り上がる。おやつの片づけまでしたところで、ナホの足元にわらわらと小さい子たちが集まった。
肩より少しだけ長い、クセのある茶髪。アーモンド形の目は少しだけ釣りあがっていて、薄い唇はいつも弧を描いている。身長は平均より少し高め。
「なんさい?」「大学生?」「おうちどこ?」「背なんセンチ?」「体重は?」「カレシいるの?」
ナホは勢いに気おされて苦笑しながら、一つずつ丁寧に答えていた。
ナホは週に3回、学童保育でバイトしていた。
華奢な体のどこにそんな体力があるのか、ナホはいつも外遊びに付き合ってくれた。たまに俺たちと一緒に、おやつのおかわりもした。(太らないから、そのおかわり分がどこに行っているのか疑問だ。)
ナホは、ちゃんと話を聞いてくれた。ナホは褒め上手だった。ナホは、宿題を見てやるのもうまかった。音読の宿題をすると、必ずシールをくれるから、皆こぞってナホに音読を聞いてもらおうとした。
とにかく、ナホは俺たちをでろっでろに甘やかした。
部屋の中にナホがいると、ナホの膝には低学年が三人納まっていた。外で遊んでいて怪我をすると、ナホが一番に駆けつけてくれた。ナホは一生懸命、子供たちの“なんで?”に答えをくれた。
でも、ナホが怒るとすこぶる怖かった。
アルバイトと主指導員を合わせて6人いる学童のオトナたちの中で、ナホはタカの次に怖かった。
タカは大きな声で叱ってくるのに対して、ナホは始めに「こら!」と大声を出した後に近くまで寄ってくる。それで、今のはやっていいこと?どこがいけないの?そういう時はどうするの?と静かな声で質問してくる。
それでもナホは、俺たちに甘かった。
俺は4年生で高学年だったし、男だったから、いくら低学年がうらやましくてもナホの膝に座ることはなかったし、ナホに飛びついていくこともなかった。(ただ、同じ4年生女子のサユリがナホの膝に座っているときは、4年生でも座らせてくれるんだと本当に驚いた。)
たまにナホと話しているとき、ナホが頭をぽんぽんと撫でてくれるのが嬉しかった。
今思えば、学童保育の子供たちは、俺も含めて、大人の愛情に飢えていたんだとわかる。
平日は学校に行って、学童保育へ行って、親は夜遅くにしか帰ってこない。かろうじて日曜日は親と過ごせても、学校であったことはその日のうちにいっぱい聞いてほしい。
そういうことだ。
なぜかナホは、俺たち4年生と特に仲が良かった。
俺、サユリ、カレン、ダイキ、リョウタ、リリコ、カオリ、シュウヘイ、マナ。
人数が多かったのもあるかもしれない。あとおしゃべり好きな女子が多かったのも。それから俺たちが一番腕白で、一番叱られたからかもしれない。
そうして、ナホは俺たちが小学校を卒業する年に、大学を卒業してバイトを辞めた。
***
じゃあ、なんで俺たちがこうして10年間もナホと一緒にいるか。
社会人になったナホの住むアパートが、俺たちの中学校のすぐ近くにあったからだ。
中学一年生も半年ほど過ぎた頃、バスケ部の練習で遅くなった俺とリョウタが帰り道を急いでいると、なんと向こうからナホが歩いてきたのだ。
「あら、本当に会った。」
ナホは楽しそうに笑いながら、俺とリョウタにひらひらと手を振った。
初めて見るナホのスカート姿に、少しどぎまぎした俺はずさんに手を振りかえして、「おーナホだ!スカートとか女みてぇ!」なんてアホな顔で笑うリョウタを引っ張った。
またね、と言うナホの朗らかな声が、俺の背中を追いかけてきた。
そもそも、ナホは女だ。馬鹿。
後から聞いて知ったのは、ナホは大学を卒業して、そのまま自分の大学の事務として働き始めたということだった。
君らが大学生になるまで、大学で待っていることにしたの。
ナホは冗談っぽくそう言って、俺の頭をぽんぽんと撫でてくれた。
次の日、リョウタがサユリに話し、そこからカレンやリリコたち女子組に広がっていったのは当然の事だろう。
いつの間にかナホのメールアドレスを手に入れたサユリに、金曜日の放課後ナホの家遊びに行くけど?と誘われたのが事の発端だ。
金曜日は、ノー残業デー、らしい。