buble suicide
異様までの息苦しさと、口と鼻と耳に液体が次から次へと入り込む感覚に目を覚ましてみると、上半身が水中に沈められていた。
よく見えないが、自分の幼馴染みが顔を覗き込みながら肩を押さえてくる。殺すつもりだろうか。特に驚きもせずに幼馴染みの凶行に呆れて溜め息をつきたくなった。
もっとも、貴重な酸素をそんな鬱憤を吐き出すために使ってられないのに出来はしない。目覚めたのは沈められてから大分経ってからのようなので、肺に残っている空気も僅かだ。
気管に水が侵入して咳き込めば、ゴブリと大きな泡が口から出た。
息が苦しい。さっきまで安眠を貪っていたというのに、また意識を失ってしまいそうになる。今度は永遠に起きなくて済むだろう。仕事の出勤時間も気にしないでずっと寝ていられる。
棺という冷たいベッドの中で――。
それは困る。まだ二十代でやる事もやりたい事もたくさんある。起きてからすぐに殺されるなんて冗談ではなかった。
俺は肩を押さえている色白な両腕を掴み、渾身の力を込めて引き剥がした。
揺らめく水の中で幼馴染みが大きく目を見開くのが見えた。まだこんな体力が残っていたのかと驚いているようだった。
内心で彼を嘲笑う。俺はまだ死なないよ。まだ、死ねない。
「か、は……っ」
再び手が伸ばされる前に俺は水から体を起き上がらせた。予想はしていたが、ここは自分の家の浴室で水を満杯にまで溜めた浴槽に体を突っ込まれていたようだ。水が溢れて排水口に流れていくのが勿体無かった。
「……ど、して死んでくれないの」
「どうして俺が死なないといけないの」
「だって一緒に死んでくれる人がいないと私死ねない……」
全身をずぶ濡れにした幼馴染みは顔面蒼白だったが、それは水の冷たさのせいではなく精神的なものからだろう。その場に座り込んで泣きじゃくる幼馴染みの頭を軽く叩き、俺は今回も殺されずに終わったと安堵した。
自分から命を絶つならともかく、幼馴染みに殺されて人生の終わりなど迎えるつもりはない。
この女が妙な方向に病み出したのは兄が蒸発してからだった。液体が蒸発という意味ではなく、失踪という意味での蒸発だ。
身内が兄しかいなかった幼馴染みの心情は計り知れない。カッターや包丁を握り締める姿をよく見かけるようになった。死ぬのではないだろうか。俺の心配を他所に幼馴染みの心はついに砕けた。
何故か俺へとナイフを振りかざすようになった。つい数分前は普通に接していたのに突然えぐえぐ泣き出して、台所から包丁を持ち出して来る。頬に出来た切り傷は抵抗した際に作ってしまった悪夢の産物だ。
あなたがこの世界にいたら私はいつまでも死ねないの。死にたいのに、あなたのせいで死ねない。
泣き叫んで主張する幼馴染みは何の罪悪感を覚えていないようだった。それどころか君が生きているせいだと責められる。何だそれは、と傷を消毒しながら文句の一つも言いたくなった。だから俺はお前に殺されるつもりはない。
「……今日の朝飯どうする?」
「え……」
「どうせ何も食ってないんだろ。作ってやるから待ってな」
酸欠を起こしているのか、頭がくらくらする。溺死させられそうになったのは流石に初めてだ。当分の間、この女が家にいる時に睡眠を摂るのは控えた方がいいだろう。食事も薬の混入を防ぐために自分が用意して、刃物を触らせないようにしなければ。
この馬鹿を警察に突き出してしまえば、こんな生命の危険も感じなくて済む。早い話が引っ越して幼馴染みと一生絶縁状態になるようにしたらいい。
それが最善の方法だ。なのに殺されかけても、二人きりの秘密のままにしておくのは彼女の側に居てやりたいからだ。
数多く存在する人間の中で、幼馴染みが道連れに選んだのは俺だった。たった一人の家族を失って壊れた人形のようになってしまっても、自分の存在が彼を生に縋らせる。仄暗い優越感が胸を満たす。
(安心しろ。お前が少しでも生きたいと思うようになってしまったら、俺がいなくても大丈夫だと思うようになってしまったら、その時は俺がお前を殺す。それでお前の体が腐った後で俺も死んでやる)
結局、幼馴染みがここまで可笑しくなった原因は最初に殺されそうになった時に警察や病院に連れて行かず、その歪んだ思想を正してやらなかった事だろう。
最期まで妹の身を案じていたのか、血を吐きながら何度も妹の名前を呼んでいた兄の命を奪ったナイフを構え、兄を殺した男を殺そうとする幼馴染みは酷く滑稽で、哀れだった。
だからこそ、その時がきたら、優しく、易しく、殺そうと思う。