小学生の時の出来事
それはまだ結希が8歳の下校途中の事だった。
街の大通りを通って、自宅を目指していた結希の耳に男たちの声が聞こえてきた。
「ごめんなさい。許して下さい。もう勘弁してください」
「ざけんじゃねぇ。これっぽっちで、俺を納得させられるとでも、思ってんのか?」
何だろう?
そう思った結希は声のする方向に向かって、歩き始めた。
「痛い!痛い!。やめてください」
どすっと言う何かがぶつかるような鈍い音も何度となく、男の声に交じって聞こえてきている。
声のする方向に進んでいた結希はやがて、大通りの店と店の隙間の小さく暗い路地裏にたどり着いた。
大通りから路地裏を結希が恐る恐る覗きこむ。
結希はそこで一人の男の人が胸ぐらを掴まれた状態で、お腹の辺りにひざ蹴りを食らわされているのを見た。
小さな小学生の結希でも、それが悪い人が人を襲っている場面だとすぐに分かったが、どうすればいいのか結論を出せず、呆然とその光景を見ていた。
そんな結希に最初に気付いたのは蹴られていた方の男の人だった。
「助けを呼んで来てくれ」
その言葉に、蹴っていた方の男がぎょっとしたような顔を結希に向ける。
しかし、そこに立っているのが小さな小学生にすぎないと分かった男は結希を鬼のような表情で睨み付けて、怒鳴った。
「てめぇ。何見ていやがる。とっとと消え失せろ。誰にも言うんじゃねぇぞ。
分かったな!」
しかし、真っ新な心の小学生だった結希は怯えて震えながらも、真っ正直な言葉を男に言った。
「だめだよ。そんな事しちゃ。それは悪い事だよ」
結希のその言葉は男を怒らせた。
「何だと。このくそガキが。死にてぇのか、こらっ!」
恐ろしい形相、大きな声。男の大人の恫喝に結希はひるんだ。
震えている結希の足は止めようとしても止まらないほど、激しく震えている。
その恐怖からか、結希が大声で男に叫んだ。
「悪い事はしちゃだめなの」
その言葉はついにその男の人を本当に怒らせた。
さっきまで、胸ぐらをつかんでいた男の人を振り飛ばすと、結希の方に向かってやって来た。
「ぶっ殺されてぇのか!」
そう言いながら、男が結希に殴り掛かる。
「殴られる!」
結希がそう思い、目を閉じながら、その男の手を防ごうとした次の瞬間、男の絶叫が聞こえた。
「ぎゃー!」
目を開けた結希が見たものは、さっきまで蹴られていた男の人が、結希を殴ろうとした男の腕にかみついているところだった。
かみつかれた男の人の腕は半分が砕けたとでも言うのか、惨い事に潰れて無くなり、その傷からは大量の血が吹き出している。
生暖かい血が雨のように結希にも降り注ぎ、髪、顔、服の全てがねっとりとした真っ赤な色に染められていった。
「きゃー」
悲鳴を上げて、しゃがみこむ結希。その悲鳴が人を呼び寄せ、辺りには大勢の人垣が出来上がって行った。
結局、その男は治療が間に合わず、出血多量で死亡した。
結希に腕を握りつぶされたと嘘だけを残して。
真実を求めて、警察は捜査を進めたが、襲われていた男が逃げて見つからなかったため、全ては闇の中となった。
そして、犯人が見つからないまま、結希が男の腕を握りつぶしたと言う噂だけが、広まって行った。
身に覚えが無いこの男の人の腕を握りつぶしたと言う噂から、一生逃れられないのではないかと思い暗い表情になっている結希を励まそうと由依が、にこりと微笑みを結希に向ける。
由依の気持ちに応えようと、無理して結希も笑みを作ってみせた。
そんな時、結希に近寄ってきた白石と目があった。
「早川さん。元気だしなよ。
僕はさ。あんな話、信じていないけど、たとえ万が一そうだったとしても、僕は早川さんが大好きなんだ」
突然の白石の言葉に、結希は自分の耳を疑った。
結希がイメージする告白とはこんな大勢の前でするものではなかっただけに、白石の言葉の真意が分からない。
「おお!」
真意が分からないため、何の反応も示せないまま立ち尽くしているだけの結希にかまわず、教室は一気に盛り上がった。