男の腕を握りつぶした少女
「私は普通ではない。私は普通ではない」
それが幼かった頃、早川結希のコンプレックスだった。
春の終わりが感じられる季節。大和境川高校のグランドの片隅にある木陰の涼しげなベンチに腰掛け、結希はさわさわと木の葉を揺らす風にその濃い茶色の艶ある長い髪をなびかせていた。
その大きく輝く黒い瞳は目の前のグランドを走るクラスメートたちの姿を追っている。
「ねえ。早川さん。こうしていると暇だよね」
結希にそう声をかけてきたのは、その日一緒に体育を見学していたごく平凡な男子生徒 白石だった。
結希がちらりと白石に目を向けて、答えた。
「私はいつもこうだから、別に何ともないんです」
彼女は唯一の肉親である祖父から、彼女は心臓が悪いため、心臓に負担がかかるような事をさせられないと学校に申し入れがされており、体育と言う授業はもう何年もしたことがなく、彼女が体育の授業を見学するのはいつもの事だった。
「そうなんだ。僕は暇で。
ねっ、早川さんって、休みの日は何をしているの?」
白石の突然の言葉に、結希はその真意を量れず、白石にたずねるしかなかった。
「どうして?」
「実は1年の時から、気になってたんだけど、2年になって同じクラスになったんで、喜んでいたんだ。でも、なかなか、早川さんと話しする機会がないじゃない。今日はゆっくり話したくて、体育見学にしたんだ」
はにかんだ表情で頭をかきながら、結希をしっかりと見つめて、そう言う白石の態度と言葉に、結希は戸惑っていた。
この子の言っている事はどう言う意味なの?
私に好意を持っていると言う事なの?
それとも私をからかっているの?
結希は結局、白石の真意が分からず、答えることなく、この話を終わらせる事にした。
「私は一人が好きだから」
結希はそう言って、白石の方から視線を外し、グラウンドのクラスメートたちに視線を戻した。
「そうなの?ここで話しかけると、お邪魔?」
白石のその言葉をほとんど無視しているかのように、結希は視線を白石に向けることもなく、こくりとだけ頷く。
「うっ!ショック」
白石がそう言いながら、大げさに胸が痛むような仕草をしていたが、結希は視線を白石に向けることもなく、正面のグラウンドを見つめたままである。
取りつく島も無い。
そんな感じの結希の態度に、白石は結希から少し離れた位置でクラスメートたちに目をやって、黙り込んでおとなしくなった。
校舎の廊下を楽しそうに私語をかわしながら、クラスメートたちが体育の授業を終え、教室を目指している。
そんな生徒たちの集団の中の一つに、結希もいた。その横を歩いているのは結希の唯一の友達と言っていい由依である。
「よっ。早川。今日も見学か」
そんな二人の背後から、男子生徒がからかい口調で、声をかけた
「仕方ないでしょ。結希ちゃんは身体が弱いんだから」
何も言わない結希に代わって、一緒に歩いていた由依が怒りを含んだ口調で、その男子を睨み付けながら言った。
「おお、怖っ!」
由依の口調に男子はそう言って、おどけて見せた。そこに別の男子生徒 遠藤が口をはさんできた。
「お前、早川をからかうなんて、恐れ知らずだな。
早川に腕を潰されるぞ!」
その言葉は小学生の頃から結希に浴びせられる言葉であって、最も結希が聞きたくない言葉だった。
胸に突き刺さった痛みに耐えきれず、結希の頬を涙が伝う。
「違う!あれは私がやったんじゃない!」
結希はその場にいたたまれず、絶叫気味にそう言って、走り出した。
「何を馬鹿な事を言ってるの!しつこいよ」
由依が遠藤にそう言い残して、結希を追って走り出す。
「結希。待って」
そう言って由依が結希を追いかけはじめたが、結希はその言葉が届いていないかのように、廊下を走っている。
結希は前を歩いているクラスメートたちの間を縫うようにして走り、トイレに駆け込むと、洗面台に両手を置き、鏡の前で激しく首を振りながら、嗚咽し始めた。
「違う。違う。あれは私がやったんじゃない」
トイレに駆けつけた由依が結希の肩をぎゅっと抱きしめながら、優しく、ゆっくりと結希に語りかける。
「結希、あんな馬鹿男子の言う事なんか、気にしちゃだめ。
みんな分かっているんだから。大丈夫。ねっ」
そう言って、由依は結希が完全に泣きやむまで、結希の肩を抱きしめていた。