祈る
初詣にやってきた僕は十円を投げ込んでからふと気付いた。叶えて欲しい願いというやつが僕にはないようだ。
なにせ僕は将来の夢を公務員になりたい、その理由を訊かれて必要最低限のお金を確保できてリストラされないからとか書いてしまう典型的なゆとり世代だ。隣で目を閉じて熱心に祈っている兄を羨ましく思う。まあ推測できる兄の願いを考えるとそれはひどく不謹慎なことなのだけど。このまま帰ろうかとも思ったが十円の無駄だし、何を祈ろうか。
新しいウォークマンが欲しい。
家族や自分の無病息災。
将来の就職だとかの安泰。
どれも神様に祈るほどのことでもない気がした。だいたい普段無神論者を気取っているくせに正月にたった一度祈ったくらいで願いを叶えて貰おうなんて図々しいにもほどがある。あれ? 神社で祭ってあるのは神様じゃなくて仏様だったか? まあ似たようなものだろう。
何も思いつかないままとりあえず二度柏手を打った。目を閉じると背後の人の声が大きく聞こえる。時々こういう雑多な話し声がすべて自分の悪口に聞こえる瞬間がある。いまがまさにそうだった。自分が世界で一番くだらない人間だと思う瞬間だ。そんなとき僕はいつもケンイチを思い出す。なぜならケンイチが僕よりもくだらない人間だからだ。
ケンイチへのいじめがやみますように。
何気なく僕はそう願った。目を開けると光が帰ってくる。隣にいたはずの兄の背中が少し遠くにあった。そういえばこれからデートなんだと言っていた。僕には恋人がいないから少し羨ましい。ちなみに兄が彼女と一緒に初詣に来なかった理由は彼女さんが神様や仏様の類が大嫌いだからだ。神社や教会なんて見るだけでも嫌なんだそうだ。数度しか会ったことがないが優しいのに気難しいというよくわからない印象を与える人だ。兄はあの人のどこを好きになったんだろう? 僕の目に兄の背中が去年よりも少し小さく映るのは、僕の背が伸びたからだろうか。追いついてこない僕を兄が振り返る。僕は少し歩幅を大きくする。兄は「来てるならいいや」とでも言いたげに前を向いて歩く。
ところで彼女がきてくれないからといって弟を初詣に誘うのはどうなのだろう。初詣に誘ってくれるような友達は僕にはいないし、自分から誘うことも面倒だと感じてしまう。だけど兄に誘われるというのはなんだか物悲しい気がした。冬休みに入って一度も外出していない僕を見かねたのだろうか。大きなお世話だと思う。
兄は僕の持っていない物をたくさん持っていた。整った容姿、質のいい友達、快活な表情、彼女、アルバイト。学生ニートでオタクに片足を突っ込みかけている僕とは大違いだ。あけましておめでとうのメールだって僕の元には一件も届いていない。学校で話す人数は少なくはないはずなのに、誰も僕のことを友達だとは思っていないのだろう。僕は自嘲気味に少し笑った。
不意に携帯電話が震える。どうせ何かの業者の宣伝メールだろうと思う。それでも誰かから何かの誘いじゃないかと期待している自分が嫌になる。メールボックスを開くとケンイチからだった。「いままでほんとうにありがとう さようなら」僕はまたかと思いながら携帯電話を閉じる。
ケンイチは基本的に人騒がせなやつだ。二ヶ月に一度は深く手首を切って病院に運ばれる。たまにこうして僕に自殺の予告メールを送ってくる。僕がケンイチへのいじめがやむように祈ったのはこのメールを見るのが嫌だからだ。元旦からこんなメールを送ってくるケンイチの空気の読めなさが僕はかなり嫌いだ。
先を歩く兄は十字路を右に曲がった。彼女の家のある方だ。僕の家はこのまま正面に歩いていけばいい。僕はふと足を止めてケンイチの家がある左を見た。せっかく外に出たのだ。様子を見に行くくらいしてやろうか。歩き出す。そこにあるのは自分よりも下だと感じる人間を見たとき特有の卑下た優越感だと僕は気付いている。きっと僕は一歩間違えばケンイチをいじめていた連中の中にいただろう。いいや、一歩間違えたからこそここにいるのか。どちらが正しいのかはわからないが、どちらが楽しいかと訊かれれば僕はあちら側だと思う。
やはりというべきだろうか、ケンイチの家の前には一台の救急車が止まっていた。しかしタンカに乗せられたケンイチはいつもと違って血を流していなかった。ああ、死んだのか。心臓の奥のほうが氷の縄で締め付けられる。僕は十秒ほど立ち尽くして、ポケットの中で震える携帯電話の振動で我に返った。差出人は兄からだ。「お前もこっちこない? ユミが久々にお前と話したいんだって」暇なので行ってみることにする。足を動かす。地面の感触は確かにそこにある。
インターホンを押すと彼女さんの母親が出てきたので僕は挨拶もそこそこに中に入れてもらった。あと数週間もすれば娘が自宅療養の限界に突入すると言われているだけあって、新年なのにおばさんの表情はやや無理をしているように見えた。
ノックをして、返答を待ってから彼女さんの部屋を開けた。そんな状況だというのに当の本人は不自然なほど明るい表情で僕を迎えてくれる。僕はなんだかすごく神様が嫌いな気分になった。
ケンイチが何をしたというのだろう?
ユミさんが何をしたというのだろう?
ケンイチは健やかに一と書いて「健一」だ。ユミさんは悠久に美しいと書いて「悠美」だ。いい人ばかり死んでいくのは死んでいくことを自覚しないといい人にはなれないからだろうか。
ああ、簡単なことに気付いた。僕はケンイチのことが結構好きだったのだ。空気が読めなくても暗くてもくだらなくても。
僕は冬休みが終わればクラスメイト全員を殺しに行こうかなと思った。
だけれど思うことは簡単でも実際に行動に移すことはとても難しいのだった。
余談だが兄が僕は誘った理由は「誰かが一緒にいないと人前で号泣しそうだったから」だそうだ。