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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

そこにある水面

作者: 笹門 優
掲載日:2026/08/01

 公式企画『夏ホラー2026』兼 武 頼庵(藤谷 K介)様の『みずに纏わる物語』企画参加作品になります。



 彼がいるのは1DLKで駅まで徒歩10分、築8年のアパートだった。


 若干郊外に近くはあるがなんとその家賃30,000円。 敷金礼金なしである。

 関東圏でこの金額は破格と言えよう。 というか田舎でも今時この金額は中々ない。 金額だけなら有り得ない訳ではないが。

 それでも一応彼は下見に来てはいたが、内心は既に決めてしまっている。 入居する気満々であった。


「それと大海(おおみ)さま」


 『有働(うどう)不動産 石動(いするぎ)』とネームプレートを付けた男は若干だが申し訳なさそうに大海と呼んだ顧客へ声を掛けた。

 大海と呼ばれた筋肉ぱっつんぱっつんな大男は部屋を見渡すのを止め、石動へ顔を向ける。


「こちらの部屋はご存じの様に大変お安くなっておりますが、所謂『事故物件』でございます。

 それでも良いとの事でしたが、本当によろしいのでしょうか?」


 大海はその言葉を聞いて「わかっている」と言わんばかりに大きく頷いた。


 石動の言うのはこの部屋の異常な「定住率の低さ」だった。


 この部屋で判っている死者は出ていない。 広く言われる「事故物件」ではない。

 ただ、原因不明の行方不明者が多発している部屋であり、またそうでない人が早々に引っ越してしまう、そんな部屋なのだ。 そう言う意味で不動産屋としては情報を提示しなくてはならない「事故物件」ではある。

 その為、何度も警察が出入りし、調べ、確認した、そんな(いわ)く付きの部屋。


「行方不明っていっても、その前に家賃の滞納とかしてるんですよね? 普通に考えたら夜逃げじゃないですか?」


 結局失踪という位置付けで終わった調査。

 その後の調査でも行方は知れていない。


「ですが、普通に働いていらっしゃっても急に無断欠勤を続けて、気づいたらいなくなってる時もあるそうですよ」


「それだって働くのがイヤになっただけっぽいですけど。

 何にせよ、『ない袖は振れぬ』と言いますからね。 こんないい物件を見逃す訳にはいきませんよ」


 そう。 繰り返すが敷金礼金なしの家賃30,000円である。

 貧乏インストラクターである大海、衣食住の中で衣と住は安く済ませたいが、それでも職場(ジム)との動線はしっかり確保しておきたいのだ。


「……わかりました。 それでは事務所へ戻って手続きを進めましょう」



       ___○___



「ふう……」


 大海は運び終えた荷物を見渡し大きく息を吐いた。

 何せ彼の荷物は重量物が多い。

 各種ダンベル、バーベルといったモノがその主だが、それ以外にも各種ウェイト類にプッシュアッパーバーや腹筋ローラー、懸垂マシン、アームバーにエキスパンダー、トレーニングチューブにハンドグリップ、シットアップベンチなど多種多様。 人によっては運び入れるだけでもトレーニングである。

 とはいってもここは一階だ。

 彼にしてみれば、階段で運んだ訳でもないのだからそう大した意味はないのが実情だが。


 まだ段ボールのままの荷物は多くはあるが、後は必要に応じて出していっても構わないだろう。

 大海はそう結論づけ、鍵と財布を手にさっさと部屋を出て行った。

 腹が減っては戦は出来ぬのだ。


 ――ぴちゃん


 何処からか水音がしたが、それに気づく者は誰もいなかった。



       ___○___



 大海の日常は割と忙しい。

 プロ――フリーランスとして独立したてである彼は固定客という者が殆ど居ない。

 ジムとの契約期間はまだ残っているが、その間に新たな固定客を見つけられれば万歳。 そうでなくとも努力が認められればジム側で契約期間を延長してくれるかも知れない。

 つまりフリーランスとしての仕事と契約社員としての仕事を熟しながら、自身のパフォーマンスの維持・向上をしていかなければならないのだ。

 固定客を得る為にHPを作り、XやYouTubeで広報し、チラシを作りジム等に貼らせて貰い、そのジムできっちりとインストラクターをしながらも、余った時間には自身の肉体を引き締め、鍛え上げる。

 浮いた家賃で購入するのはプロテインや壊れたトレーニング器具類だ。

 趣味がトレーニングでなかったらとっくに音を上げていたかもしれない。


 そんな彼の体格は身長180㎝、体重89㎏の、超引き締まったマッチョボディだ。

 子どもの頃から長身で体格の良かった彼は、とある健康ランドで角界に誘われた事があるくらい恵まれた体格をしていた。

 当時「まわしがイヤだ」とその道を拒否していなければ、力士になっていたかも知れない男である。


 彼は一通りの仕事を終えた後、いつもの日課(トレーニング)を終えると、牛乳へプロテインを投入しグビグビ一気に飲み干した。

 よく「美味しくない」と忌避されるプロテインだが慣れてしまえばどうという事はない。 それに最近はそこそこ美味しいフレーバーも多く、彼の様な者達の中では良く話題になる。

 ちなみに大海の好みはバナナ。

 狭い界隈で余り好まれていないのはそれ以外のフルーツ系だったりする。 勿論個々の好みはあるだろうが……。


 ――ぴちゃん


 コップを洗い桶に入れ背を向けた彼の耳に、ふと水音が聞こえた。

 閉じたと思ったカランだが緩かっただろうか? 振り返る彼の目に落ちる水は見えない。 今、落ちた様な波紋もない。


 ――気のせい、か?


 疲れた彼はそのまま床に就く。


 ――ぴちゃん


 再び聞こえたその音に、彼は気づく事がなかった。



       ―――○―――



 ドアを開けるとそこには熱気の壁が立っていた。

 むわっとしか表現出来ない、閉じ込められ灼けた空気。

 部屋の片隅まで満遍なく広がる、熱と湿度の蒸留物だ。


「あっちいぃ…………。

 ……?」


 今は夏。

 暑いのは間違いない。

 大海はその日、空気が酷く湿気っている様に感じた。

 勿論夏の湿度は高い。

 ただ部屋の中が普段以上に異常な湿度を保っている様に思えるのだ。


 運動して帰ってきているのだから汗は掻いている。

 今まで留守であり、基本節約生活な彼はエアコンを動かしてはおらず、換気扇だけが回っている。

 それは理解出来るのだが、この湿度はなんだろうか?

 ちらりと見る温度は38℃で高い事は高いが昨日と同等だ。

 傍らに控える小さな文字盤――湿度は78%。

 高い――が、これも昨日とそう変わらない気がする。 よく覚えていないがそのくらいだったはずだ。


 体感だけ湿度を高く感じるなんて、熱中症の様なモノだろうか?

 額に手を置くがやはりよく判らない。


 エアコンを除湿モードで動かす。 すーっと冷たい風が流れ出した。

 心地良い風に晒され、大海は大きく息を吸った。


 ――ぴちゃん


「ん?」


 そんな時、ふと水音が聞こえた気がした。

 カランからシンクに落ちる様な音ではなく、水面へ雫が落ちた様な音。

 だが見渡しても水音のするようなモノはなさそうな気がする。

 キッチンではない。

 風呂でも洗面所でもない。


 ――なら多湿が過ぎて室外機から水が垂れているんだろう。


 そう結論づけて大海は普段の日課を熟し始めた。


 ――ぴちゃん


 ――ぴちゃん


 ――ちゃぷん


 もう大海はその音を気にする事はなかった。



        ̄ ̄ ̄○ ̄ ̄ ̄



 入居にて一月(ひとつき)経った。

 事故物件という触れ込みであるから、生存報告を兼ね家賃を直接支払ってきた彼は何時もの日課を熟し、計器には現れない不思議な湿度の中、何時も通り床へ付いた。

 高い湿度。 数字で見る事は出来なくとも、それと感じる湿気は酷く寝苦しい。 だが、肉体を酷使してきた彼はちょっとした冷感グッズの使用で十分眠りにつける。

 事務所との契約が更新できず、本格的な独り立ちを余儀なくされた彼は非常に疲れていた事もあり……。

 至極あっさりと眠りにつけてしまったのだ。


 ――ちゃぷん


 ――ちゃぷん


 気にせずともそんな水音を聞いていたせいだろうか。


 夢の中、彼はひとり海辺にいた。


 ――ざざぁん


 ――ざざぁん


 波の音。

 海の満ちゆく音。

 即ち潮騒。


 寄せては返す波は何処か無機質に砂を掻き削り、浜を浸食しているように見えた。


 大海はその光景をただ見つめている。


 湿度の高い風がその身を包む。

 陽射しの見えない青空が如何にも夢らしい。


 ――ざざぁん


 満ちる波が足に触れた。


「冷てっ!?」


 その『感触』に驚き飛び起きた大海は部屋を見て、言葉を失った。



 部屋は――周囲は水だった。


 夢ではない、だろう。 というか今飛び起きたばかりである。

 なのに日の陰る、未踏の地にある水場のような、そんな澱んだ沼が周囲に広がっていた。

 自身のいる一畳程の布団のみを残し、薄暗い沼地が。


「なんだこりゃっ!?」


 返事はない。

 周囲には誰もいない。 生き物の気配すら全く無い、暗澹(あんたん)とした光景。

 ワンルームに居たはずの自分。

 そこに居たという証拠は自身の乗る布団だけである。


 1mも離れていない場所にあるはずの壁が見えない。


 見上げても天井はなく果ては見えず、星も月もないただの夜闇が広がる。


 ――ちゃぷん


 ――ちゃぷん


 波打つようなその音は、最近聞いていたあの……?


 そして「それ」に思い至った大海の背筋に悪寒が走った。


 ――ここは定住率が低く、原因不明の行方不明者が多発している事故物件だ。


 奇妙な湿度と何処からか聞こえる水音。

 その時点で『不気味さ』を感じた者は早々に逃げ出し、そうでない者は『ここ』で行方不明に?


(冗談じゃない!)


 そう思い、彼は立ち上がろうとした。

 立ち上がろうと、足にちからを入れてしまった。


 ――ちゃぷん


 不思議と安定していた布団の端が、ゆっくりと水を吸い、沈む。

 バランスを保っていた様に見えたそれが端から水を吸い込んでいく。


 今更のように身体を硬直させても、もう手遅れだった。


「くそっ!」


 泥船のようなそれが沈む前にと、大海はその筋肉を瞬時にフル稼働させたが、そのちからは足場であった布団をただ沼へ沈み込ませ、彼自身の身体は1mも動かす事は出来なかったのだ。


「――あっ!?」


 ゆっくりゆっくり沈み込む大海。

 鍛え上げた肉体なんて、この状況では役に立たない。


 水の様に掻く事が出来ない。


 水の様に浮かばない。


 タールのように強い粘性を持ちながら、まるで浮かび上がらない身体に彼は絶望するしかない。


 強すぎる粘性は彼に藻掻(もが)く事すら許さないのだ。


 沈む、沈む。

 まるで水底から手足を引かれる様に。


(バカな……そんなバカな……)


 足が引かれる、手が引かれる。

 腰に、肩に泥が(まと)わり付く。

 胸元に、首に、まるで(すが)り付くように纏わり付く汚泥たち。

 まるで叫ぶな、と言わんばかりに口元を押さえる泥。


(バカな……バカな……バカな……)


 まるで(おもり)のように彼の身体を引く、泥。

 沈む一方の、そんな底なし沼の様な泥の空間に、彼は頭さえも沈められ、


 ――ちゃぷん


 ――ちゃぷん


 やがてそこに残ったのは水音だけの静寂。


 それ以外は何も残らなかった。



       ――――――



 ――トゥルルルル……トゥルルルル……トゥルルルル……


 充電器に差しっぱなしだったスマホが呼び出し音を鳴らしていた。

 部屋の主は出ない。

 出るはずもない。


 大海は沼の底に沈んだのだから。


「…………はい」


『急にお電話をして申し訳ありません。 有働不動産の石動です。

 大海様の携帯電話で間違いありませんか?』


「……はい」


『申し訳ありません、今月分のお家賃がまだお支払われていないようでしたので、お電話しました』


「すいませんが……もう少し待ってくれませんか……」


 まるでヒトの様に会話をする汚泥の様な『それ』は、そんなやり取りをした後、ずるっと崩れ、床に沈み込む様にして消えた。


 ――ぴちゃん


 ――ぴちゃん


 そんな水音だけを部屋に残して。


 ――ぴちゃん



  ――ぴちゃん


  ――ぴちゃん

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― 新着の感想 ―
 そんな! 〝筋肉は全てを解決する〟と信じていたのに…… (>_<) 「君子、危うきに近寄らず」じゃ無いですけど、事故物件には近寄らないほうが安全ですよね。まして、住むのは……(ブルブル)。  本作…
角界にもスカウトされたという事は、相当に屈強で立派な体躯だったのでしょうね。 まわしが嫌という理由で断っていたそうですが、スカウトしてきたのがプロレス界だったらまた違う反応を示していたのでしょうか。 …
事故物件ではない事故物件。 でもお安いのは魅力かも? バナナのプロテインいいですね〜。 (・∀・) 水音? エアコンからの水漏れかな? (´・ω・`) 澱んだ沼地⁉️ (´⊙ω⊙`)! 新手の…
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