第3話:泥上のバランスシート
「おい、正気かレオン!?」
ハンスが裏返った声を上げた。村人たちの視線が、一斉にレオンへと集まる。
記憶の中のレオンは、大人しくて目立たない青年だ。その彼が、商会の有力者に真っ向から異を唱えるなど、この村では天地がひっくり返るほどの衝撃だった。
「監査だと? 訳の分からん言葉を吐くな、小僧」
マルクが顔を真っ赤にして鼻で笑う。
「これは正規の契約書だ。字も読めないような田舎者が、この私の計算にケチをつけるつもりか?」
「字は読めないかもしれないが、数字なら読める」
レオンは冷徹な「鉄仮面」の表情を崩さず、ハンスの手から羽ペンをもぎ取った。
「エリーナ、悪いがそこにある地面を平らにならしてくれ。それから、過去三ヶ月の村の取引……つまり、どれだけ薬草を納めて、どれだけ小麦を買ったか、君の記憶にある限りで教えてほしい」
「え、ええ……。ええと、三ヶ月前は薬草を五十籠、代わりに小麦を……」
レオンは、エリーナの言葉を聞きながら、泥だらけの地面に枝で巨大な「T字」の線を引いた。
(……ああ、クソッ。使いにくい!)
心の中で、彼は前世の相棒に叫んでいた。
(Excelがあれば、VLOOKUP(検索)一発で済む話だ。オートSUM(合計)も、IF関数も、ピボットテーブルもない。データの修正一回で、泥を全部塗りつぶして書き直しだ。これがこの世界の『手動入力』の限界か……!)
だが、九条怜の頭脳は、不便な環境であればあるほど研ぎ澄まされた。
「まず、左側に村が納めた『薬草(資産)』を書く。右側に商会からの『借金(負債)』を書く」
レオンはハンスが持っていた羊皮紙の数字を、地面の表に次々と転記していく。
「マルク。お前の帳簿には『薬草の受領数』が先月より二割減っている。だが、エリーナの記憶、そして村の出荷記録では、むしろ一割増えている。この差分はどこへ消えた?」
「そ、それは……途中で魔物に襲われて廃棄した分だ!」
マルクが苦し紛れに怒鳴る。
「ほう。では、その『廃棄報告書』は見せてもらえるか? 監査の基本だ。エビデンス(証拠)のない損失計上は、ただの横領か粉飾だ」
「え、えび……何だそれは!」
レオンの攻撃は止まらない。
「次だ。この『神への供物(利息)』。年率に換算すると四〇〇%を超えている。王国の法にある上限金利を知っているか? 知らなくてもいい。問題は、お前が利息を計算する際、本来は引くべき『内入れ金』を無視して、元本を据え置いたまま複利をかけていることだ」
レオンは地面の数字を指差した。
「これは計算ミスではない。意図的な『計算の偽装』だ。ハンス、この二つの数字を足して、三で割ってみろ。お前が合わないと嘆いていた数字と一致するはずだ」
ハンスが震える手で指折り数え、やがて目を見開いた。
「……本当だ。ぴったり一致する……! マルクさん、あんた、わざと桁をずらして……!」
周囲の村人たちがざわつき始めた。
「おい、本当か?」「俺たちの借金、そんなにデタラメだったのか?」
「黙れ! こんな泥に書いた落書きが何になる!」
マルクが地団駄を踏み、レオンの「T字」を足で消そうとする。
しかし、レオンは一歩も引かず、その太った男を射貫くような視線で見据えた。
「消しても無駄だ。僕の頭の中に、全ての数字のログは残っている。そして――」
レオンはエリーナを振り返った。
「エリーナ、君の魔法で、この地面の図を『固定』できるか?」
「え? ……う、うん。土を硬める魔法なら……!」
エリーナが杖を振ると、レオンが描いた巨大な「泥の決算書」が、石のように硬く固定された。
もはや、マルクが足で踏んだ程度では消えない。不正の証拠が、広場のど真ん中に「記念碑」として刻まれたのだ。
「マルク。これより、過去二年に遡って君の商会の取引を再計算させてもらう。不当に徴収した利息、そして横領した薬草の代金……全て返還してもらう。拒むなら、この記録を持って代官所へ乗り込むが、どうする?」
「くっ……お、おのれ……!」
マルクは顔を真っ青にし、逃げるように馬車へと乗り込んでいった。
静まり返った広場で、最初に声を上げたのはハンスだった。
「すごい……レオン、お前、いつの間にそんな魔法を……!」
「魔法じゃない。ただの算術……いや、会計だ」
レオンは羽ペンをハンスに返しながら、そう吐き捨てた。
村人たちは、自分を英雄でも見るような目で眺めている。レオンは、そんな村人たちをよそに、静かに空を仰いだ。




