第2話︰未知なる術式と辺境の帳簿
九条怜――いや、レオンが最初に抱いた感想は「この世界のQOL(生活の質)は著しく低い」というものだった。
だが、その思考と同時に、脳の奥底から見知らぬ感情と情報の断片が溢れ出してくる。
(……ああ、そうだ。僕はレオンだ。この村で生まれ育った、薬草農家の息子だ)
意識が九条怜のものへと切り替わっても、身体が覚えている「記憶のアーカイブ」が自動的に読み込まれていく。
目の前で肩を貸してくれている少女。彼女はエリーナ。このナミール村の村長バルトの娘であり、幼馴染だ。この村で唯一「治癒魔法」の適性を持った、村の希望。
そして自分の家――レオンの家族は、村の基幹産業である薬草の「乾燥加工」を請け負う小規模な工房を営んでいる。父は数年前の魔物被害で他界し、今は母と、まだ幼い妹の三人暮らしだ。
(乾燥加工か……。仕入れた生薬を加工して付加価値を付けて出荷する。製造業の基本じゃないか)
九条としての冷静な分析眼が、レオンの記憶を「事業データ」として整理していく。
エリーナに支えられながら歩く道すがら、鍛冶屋のガラムが魔力で鉄を叩き、エリーナが指先から「火の矢」を放って魔物を仕留める。その非常識な光景に驚愕しつつも、レオンの脳は無意識にそれを「燃料費ゼロの熱源供給」や「野生鳥獣による在庫損失のリスク」として計算し始めていた。
(……この村は、構造的に詰んでいる)
村の広場へたどり着いたレオンの目に、決定的な破綻の兆候が映った。
そこには、エリーナの父であるバルト村長、そして広場の隅でボロボロの羊皮紙を前に頭を抱えている青年・ハンスがいた。ハンスはレオンの数少ない友人で、村で一番計算が早いからという理由で書き役を押し付けられている。
そして、その中心に鎮座するのは、上質な絹の服をまとい、肥満体を揺らす男――『金色の獅子商会』の代理人、マルクだ。
「村長、話が違いますな。今月の乾燥薬草の納入数は、予定の六割に留まっている。これでは契約違反だ」
マルクが粘つくような声で言い、バルト村長が必死に食い下がる。
「待ってくれ、マルク殿。レオンの家の乾燥小屋が魔物に壊され、修繕に時間がかかったんだ。それに、先月の追加発注分への支払いがまだ……」
「おっと、支払いはすでに『滞納利息』と相殺(相殺!)済みですよ。ほら、ここに書いてある」
マルクが突き出したのは、殴り書きのような数字が躍る羊皮紙だった。
ハンスが震える手でそれを読み解こうとしているが、彼の表情は絶望に染まっている。
「え、ええと……利息が二割で、そこに事務手数料の三割を足して……。いや、前回より五割も増えている! ぜ、前回はどうやって計算したんだっけ……!?」
レオンはその様子を背後から観察し、愕然とした。
ハンスが使っているのは、鳥の羽ペンと、質の悪い羊皮紙。そして計算はすべて、頭の中と「そろばん」に似た不正確な木製の道具で行われている。
(……待て。四則演算の整合性をチェックするソフトもなければ、自動で合計(SUM)を出す関数もないのか? 合計(SUM)が、ない……?)
レオンの背中に冷たい汗が流れた。現代で彼が数秒で終わらせていた作業が、この世界では「命がけの難行」なのだ。
さらに、マルクがハンスに突きつけている「帳簿」を遠目に見た瞬間、プロとしての嗅覚が激しく警報を鳴らした。
(……あの計算式、不自然だ。利率を計算する際の『元本』に、実体のない手数料が上乗せされている。意図的な二重計上だ。あんなものは「帳簿」ではない。ただの『強奪の正当化』だ)
九条の記憶にある「粉飾決算」の手口。それが、より原始的で凶悪な形で目の前で行われている。
実家の工房が壊されたのも、おそらく偶然ではない。魔物被害という「不可抗力」を逆手に取った、計画的な収奪だ。
「レオン、行こう。関わっちゃダメ」
エリーナが袖を引くが、レオンの足は動かなかった。
Excelがない。関数がない。電卓すらない。
だが、彼には二十年のキャリアで鍛え上げた、狂いようのない「頭脳という名の検算回路」がある。
「エリーナ、一つ聞きたい」
レオンは静かに、だが鋼のように硬い声で言った。
「あそこの太った男が持っている紙に書いてある『利率』と『手数料』の定義。この世界の言葉で何と言う?」
「……え? 利息は『神への供物』、手数料は『商会の手間賃』って呼ばれてるけど……」
「なるほど、勘定科目の名称が違うだけか」
レオンは泥だらけの地面に、木の枝で一本の垂直線を引いた。
「左右を分ける。左が資産(持ち物)、右が負債(借り物)。宇宙の真理は、この世界でも変わらないはずだ」
レオンは確信した。
この村を救うために必要なのは、聖剣でも大魔法でもない。
マルクという男が振りかざす「デタラメな算術」を粉砕する、真実の数字だ。
「ハンス。その羽ペンを貸してくれ」
レオンは、震える友人の肩を叩いた。
「これより、その紙切れの『監査』を始める。一円――いや、銅貨一枚のミスも逃さない」




