第1話:清算(エンドロール)
九条怜の視界は、常に数字で構成されていた。
五月、世間はゴールデンウィークの浮足立った空気に包まれている。しかし、大手監査法人のオフィスにその気配はない。ここにあるのは、三月決算企業の監査報告書という「締め切り」に追われる者たちの、泥沼のような焦燥感だけだ。
深夜一時。フロアには、開け放たれたカップ麺の残骸と、カフェイン剤の空き瓶が散乱している。あちこちから「クライアントから資料が来ない」「残高確認書の数字が一致しない」といった、悲鳴に近い苛立ちの声が響く。
九条はふと、疲れを癒すためではなく、ただ視点を変えるために窓の外に目をやった。
大都会のビル群。夜空を彩るその灯りですら、彼にとっては情緒の対象ではない。
「あのビルの築年数なら、定額法での減価償却はあと十年か。修繕積立金の積み増しが必要な時期だな……」
彼にとって世界は、維持費と収益、そして減価償却費が複雑に絡み合った巨大な計算式に過ぎなかった。
「九条さん、お疲れ様です」
部下の佐藤が、顔色の悪い、だが興奮した面持ちで近寄ってきた。手には一枚の内部告発資料と、数冊の総勘定元帳が握られている。
「例の〇〇製作所の粉飾、裏が取れました。役員たちが海外のペーパーカンパニーを経由し、接待費を『経営コンサル料』の名目で流出させています。総額で三億。営業利益をわずかに黒字に見せるための、姑息な手口です」
九条は表情一つ変えず、差し出された数字の羅列を走査した。
「……やはりな。販管費の推移が不自然だった。佐藤、すぐに証拠を固めろ。関連する全ての振込明細と、実体のないコンサル契約書の原本を確保するんだ」
「はい! しかし……これ、公表すればあそこの社長は終わりですね」
九条は冷徹な声で言い放つ。
「数字は嘘をつかないが、人間は数字を使って平気で嘘をつく。俺たちの仕事はその『ノイズ』を取り除き、あるべき姿に戻すことだ。情を挟む余地はない」
「鉄仮面の九条」。それが彼の二つ名だった。九条にとって人生とは、資産(Assets)と負債(Liabilities)が厳密に釣り合うべき、一枚の巨大な貸借対照表(B/S)だった。そこに「感情」という不確定要素が入る隙間など、一ミリもなかった。
数日後、大型案件の告発を終え、ようやく手に入れた「休息」という名の帰宅路。
雨が降っていた。アスファルトを叩く雨音さえも、九条の頭の中では一定のリズムを刻むメトロノームのように処理される。
連日の不眠。三時間睡眠が二週間続けば、いかに精密な機械である九条の脳とて、演算エラーを引き起こす。
横断歩道の真ん中で、九条の足がふと止まった。
「……そういえば、今月の僕の『個人収支』はどうだったか」
ふと、自分の人生を計算してみたくなった。高い年収、それに見合わないほど空虚な私生活。家族も友人も、この数字の海の中に置いてきた。
その時、雨幕を切り裂いて強烈な光が九条を焼いた。
大型トラックのクラクション。制動距離を無視した暴力的な質量。
衝撃は鼓動よりも速く、九条の全身を貫いた。
宙を舞う体。スローモーションになる視界。
冷たい雨が顔に当たる感覚さえ消えていく中、九条は最期の思考を巡らせた。
(……ああ、僕の人生の損益計算書(P/L)は、これで締まったのか)
当期純利益、マイナス。
積み上げたキャリアも、暴いた不正も、死という巨大な特別損失の前では無意味だった。
(……結局、僕の人生は何の価値も生み出さなかった(ノンバリュー)な……)
数字に埋め尽くされた人生を、心底くだらなく思いながら、九条怜の意識は深い闇へと沈んでいった。
次に目を開けた時、そこにあったのは眩いばかりの青空だった。
排気ガスの匂いはない。代わりに鼻を突くのは、生命力に満ちた「獣と草の匂い」、そして土の香り。
「……やっと気が付いた!」
視界に飛び込んできたのは、一人の少女だった。
汚れの目立つ麻のような服を着ているが、その瞳は驚くほど純粋で、澄んでいる。
九条……いや、彼は自分の違和感に気づき、手を見た。
白く細かった指は、節くれ立ち、泥と日焼けに汚れている。着ている服も、オーダーメイドのスーツではなく、粗末なチュニックだ。
「ここは……?」
喉が渇いている。発した声も、自分のものより少し若く、掠れていた。
「何言ってるの?ここはナミール村よ。あなた、森の入り口で倒れてたのよ。魔物に襲われなくて良かったわね。……記憶はある? レオン」
レオン。それが彼の新しい名である。
大変稚拙な文章でしたが、第一話を読んでくださりありがとうございます。
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