【追憶】約束のバトン ~若き日の聖母と、二人の少女~
私がまだ「お母さん」と呼ばれるようになる、ずっと前のこと。
看護学校に通う、十八歳の実習生だった頃の話。
消毒液と、微かな花の香りが混じる病棟の廊下。
初めての長期実習で、私が担当することになったのは、ある一人の女性だった。
黒澤さん。
彼女は末期の病を患っていたけれど、いつも穏やかで、窓から差し込む陽だまりのように優しい笑顔を絶やさない人だった。
そんな彼女の病室には、毎日決まった時間に、二人の小さな訪問者が現れた。
「ママ、お着替え持ってきたよ」
「ママ〜、今日ね、学校でね……」
小学五年生の詩織ちゃんと、四年生の瑠奈ちゃんだ。
二人とも、まだ背中のランドセルが大きく見えるほどの愛らしさだったけれど、その瞳には、子供が持つべき無邪気さとは違う、「悲壮な決意」のようなものが宿っていた。
特に、姉の詩織ちゃんは痛々しいほどだった。
妹の手を引き、慣れない手つきで母の背中をさすり、コップに水を注ぐ。
「私がしっかりしなきゃ」
その小さな背中は、そう叫んでいるようだった。
一方の瑠奈ちゃんは、甘えん坊で泣き虫。
けれど、お母さんの前では絶対に涙を見せないように、唇をギュッと噛んで笑顔を作っているのが、実習生の私にも分かってしまった。
(……なんて、健気な子たちなんだろう)
私は、医療行為なんて何もできない、ただの学生だった。
点滴一つ変えられない無力さが悔しかった。
だからせめて、彼女たちが笑っていられる時間を作ろうと必死だった。
絵本を読んだり、学校の宿題を見てあげたり、下手くそな手品を見せて笑わせたり。
二人は私を「遥お姉ちゃん」と呼んで、少しずつ懐いてくれた。
その時間が、私にとっても救いだったのだと思う。
けれど、別れの時は静かに、確実に近づいていた。
ある雨の夜のことだ。
姉妹が面会時間を終えて帰った後、私はナースステーションに戻る前に、ふと彼女の病室に立ち寄った。
彼女は眠らずに、窓の外の雨を見ていた。
「……あら、遥ちゃん。まだ残っていたの?」
「はい。黒澤さん、何か必要なものは……」
私が駆け寄ると、彼女は痩せ細った手を伸ばし、私の袖を掴んだ。
その力は驚くほど弱く、けれど熱を帯びていた。
「……ねえ、遥ちゃん。少しだけ、話せるかしら」
ベッドサイドの椅子に座ると、彼女は静かに語り始めた。
自分の死期を悟っていること。
残される家族への不安。
仕事人間で不器用な夫のこと。そして何より、幼い娘たちのこと。
「……あの子たちね、無理をしてるの。私の前では笑ってるけど……本当は、毎晩布団の中で泣いてると思う」
彼女の声が震える。
「……私がいなくなったら。あの子たち、笑い方を忘れちゃうかもしれない。詩織は責任感で押し潰されそうだし、瑠奈は寂しさで壊れてしまいそう……」
彼女の目から、一筋の涙が枕へと伝い落ちる。
私は何も言えず、ただ彼女の手を握りしめることしかできなかった。
看護師を目指す者として、患者に感情移入しすぎるのは未熟な証拠だと教わった。
でも、涙が止まらなかった。
「……ねえ、遥ちゃん」
彼女は、祈るような瞳で私を見つめた。
「……こんなこと、実習生のあなたにお願いするのはおかしいって、分かってる。迷惑だってことも」
「……そんなこと、ありません」
「……もしよかったら。……私が逝った後も、たまにでいいから、あの子たちの『お姉ちゃん』になってあげてくれない?」
それは、最期のわがまま。
そして、母としての切実な願いだった。
「一緒に遊んで、ご飯を食べて……ただ、そばで笑っていてほしいの。あの子たちが、『子供』でいられる場所を作ってあげてほしいの」
看護師としての業務ではない。
赤の他人への、重すぎる願いだ。
普通なら、曖昧に微笑んで流すのが正解なのかもしれない。
でも、私は。
橘 遥という人間は、そんなに器用にはできていなかった。
私は、彼女の手を両手で包み込み、強く、強く握り返した。
「……はい。約束します」
迷いはなかった。
この温かい手のひらを、その想いを、ここで途絶えさせるわけにはいかないと思った。
「私が、あの子たちを絶対に独りにさせません。……お父さんのことも含めて、私にできることは全部します」
「……ふふ。ありがとう、遥ちゃん……。あなたみたいな優しい人がいてくれて、本当によかった」
彼女は安堵したように微笑み、その数日後――静かに、眠るように息を引き取った。
***
葬儀の日も、雨だった。
重苦しい空気が漂う斎場の隅で、小さくなっている二つの背中を見つけた。
親戚たちの視線に晒され、気丈に振る舞う詩織ちゃんと、俯いて震えている瑠奈ちゃん。
隣には、憔悴しきって抜け殻のようになったお父さんが立っていた。
私は制服のまま、傘もささずに駆け寄った。
そして、なりふり構わず二人を抱きしめた。
「……っ、遥、おねえちゃん……?」
驚いたような詩織ちゃんの声。
私は濡れた髪も気にせず、二人の頭を胸に抱え込んだ。
「……泣いていいよ。今日はいっぱい泣こう」
私の言葉が合図だったかのように、張り詰めていた糸が切れた。
「うわぁぁぁぁん! ママぁ! ママぁ……ッ!」
瑠奈ちゃんが声を上げて泣き出す。
詩織ちゃんも、私の服をギュッと掴み、押し殺した嗚咽を漏らし始めた。
私はただ、二人の背中をさすり続けた。
***
それから、私は約束通り、週末のたびに彼女たちの家へ通うようになった。
「お姉ちゃん」として、宿題を見たり、一緒にお菓子を作ったり。
二人の笑顔は少しずつ戻ってきたけれど――家の中には、まだ埋められない大きな穴が空いていた。
ある日の夕暮れ。
キッチンから、ガシャン! と何かが割れる音と、男性の情けない悲鳴が聞こえてきた。
「あちゃあ……またやっちゃったか……」
お父さんだった。
エプロン姿の彼は、割れた皿と焦げた料理の前で、途方に暮れていた。
仕事一筋で生きてきた彼は、家事が絶望的に苦手だったのだ。
それでも、亡き妻の代わりに娘たちに美味しいものを食べさせようと、必死に慣れない包丁を握っていた。
「……貸してください、お父さん」
「い、いや、遥ちゃんにこれ以上迷惑は……」
私は彼の手から包丁を受け取った。
正直、私も実家暮らしで料理なんて得意じゃなかったし、かなり不器用な方だった。
それでも、危なっかしい手つきの彼よりは、いくらか手際よく動くことができた。
私が手早く片付けを終えると、彼は肩を落とし、リビングで遊ぶ娘たちの背中を見つめて、ポツリと溢した。
「……情けないな。あいつ(妻)に、頼まれたんですよね。……俺がしっかりしなきゃ、あの子たちが不憫で……」
その横顔は、父親としての責任感と、妻を失った喪失感で押し潰されそうだった。
私は、洗い物をしながら静かに告げた。
「……奥さんとの、約束なんです。『あの子たちが子供でいられる場所を守って』って」
彼は驚いて顔を上げ、それから苦しそうに首を振った。
「あいつ……だからって、遥さんにそんなお願い、できるわけがありませんよ。……君には君の人生があるのに。たまたま担当した看護学生に、そこまで背負わせるなんて……」
彼は、優しい人だった。
自分の辛さよりも、赤の他人である私の未来を案じてくれるような人だった。
(……ああ、そっか)
私は気づいてしまった。
週末に通うようになって、半年。
不器用な手つきで娘の髪を結おうと奮闘する背中や、私がお皿を洗っている時に「ありがとう」と何度も頭を下げる姿を見て。
私はいつの間にか、この人を――。
守らなきゃいけないのは、娘たちだけじゃない。
残されたこの不器用で誠実な「お父さん」を、私は支えたいと思ってしまったのだ。
それは亡き奥さんとの約束なんかじゃない。
私自身の、恋心だった。
「……一人で頑張らなくていいんですよ」
私は、彼の震える手にそっと触れた。
「私が、みんなの『家族』になります。……だから、一緒に育てましょう?」
彼は言葉を失い、それからボロボロと涙を流して、何度も何度も「すまない」「ありがとう」と頭を下げた。
こうして数年後。
私は彼女たちの「新しいお母さん」になり、最愛の夫と、二人の娘に囲まれて幸せになった。
『黒澤』の表札。四人で囲む食卓。
不器用だけど温かい日々。
――その幸せが、夫の事故によって唐突に終わりを告げるまで。
私は確かに、世界で一番幸せな「お母さん」だったのだ。
だからこそ。
すべてを失って壊れかけた私を、もう一度「お母さん」に戻してくれた聖次さんに。
私は一生分の愛を捧げると決めている。
天国のあの人と、その奥さんから託されたバトンを、今度こそ落とさないために。
(続く)




