【追憶】硝子の城壁 ~私が「黒澤」を守る理由~
父が死んだ日、私は泣くのを辞めた。
通夜の席。母さんは糸が切れた人形のように座り込み、妹の瑠奈は泣き叫んでいた。
親戚たちのヒソヒソ話が聞こえる。
「可哀想に」「まだ若いのに」「これからどうするんだ」
その同情と好奇の視線が、私の肌を刺した。
(……私が、しっかりしなきゃ)
当時、高校一年の私は、涙を拭い、眼鏡をかけた。
実は、私の視力は両目とも1.5ある。眼鏡なんて必要ない。
けれど、幼い顔立ちのままでは誰も話を聞いてくれない気がした。だから私は、度の入っていない「伊達眼鏡」を掛けた。
これは、私が私を守り、そして「黒澤」の家を守るための『硝子の鎧』だった。
その日から、私は「子供」であることを捨てた。
学校では完璧な優等生を演じ、生徒会に入り浸り、隙を見せないよう武装した。
母さんが少しずつ元気を取り戻し、旧姓の「橘」に戻しても、私だけは頑なに「黒澤」を名乗り続けた。
名前を変えてしまったら、父さんが生きていた証が消えてしまう気がしたから。
私が最後の砦なのだと、自分自身を戒める鎖だった。
だから。
二年後。母さんが「新しい家族」として、彼――雨宮 聖次さんを連れてきた時、私は誰よりも彼を警戒した。
(……年下の男の子? 私より一つ年下の高校生? ふざけないで)
母さんは騙されている。この男は、弱った母さんにつけ込んで、この家の財産か何かを狙っているに違いない。
優しそうな顔をして、裏では何を考えているか分からない。
絶対に認めない。私が追い出してやる。
そう思って、私は彼に冷たい言葉を浴びせ続けた。「他人」「部外者」「信用していない」。
彼は困ったように笑うだけで、決して怒らなかったけれど、それが余計に私を苛立たせた。
転機が訪れたのは、彼が来て一ヶ月ほど経った頃の、ある深夜のことだった。
その頃の私は、限界だった。
受験勉強、生徒会の仕事、母さんのケア、瑠奈の進路指導。全てを一人で背負い込み、睡眠時間は三時間を切っていた。
深夜のリビング。誰もいない暗闇の中で、私は参考書を開いたまま、机に突っ伏していた。
パソコンのモニターの明かりが、私の眼鏡のレンズに反射して、冷たい青紫色に光っている。
その人工的な光だけが、私の味方だった。
鉛のような疲れが体を動かなくさせる。
「……っ、うぅ……」
不意に、嗚咽が漏れた。
辛い。助けて。パパ、会いたいよ。
誰もいないからこそ、弱音が溢れ出した。
コトッ。
突然、目の前にマグカップが置かれた。
驚いて顔を上げると、そこに聖次さんが立っていた。眠そうな目で、ボサボサの髪で。
「……起きてたんですか」
「すみません。喉が渇いて目が覚めたんです」
彼は私の動揺に気づかないフリをして、温めたココアを私の前に置いた。
「飲みますか?」
「……いりません。カフェインを摂らないと眠くなるので」
「ブラックコーヒーは胃に悪いですよ。今は脳みそに糖分をあげた方がいい」
彼は半ば強引にカップを置いた。
不服だったけれど、立ち上る甘い香りに抗えず、私は渋々カップを手に取った。
一口飲む。張り詰めていた肩の力が、ふっと抜けていくのが分かった。
「……美味しい」
「遥さんにも、よく作ったんです」
彼は、無理をして大人ぶろうとしている私を、真っ直ぐに見た。
「……詩織さん」
「何ですか」
「大黒柱とか、父親の代わりとか、そんなに急いでならなくていいんじゃないですか? 俺みたいな頼りないのがいる間くらい、サボればいい」
彼は自然と手を伸ばし――私の頭に、ポンと手を置いた。
母さんを慰める時と同じように。まるで子供をあやすように。
「……頑張りすぎだよ」
その一言だけ。
敬語が抜けた、素の言葉だった。
心臓が、ドクンと鳴った。
誰も言ってくれなかった言葉。みんな「しっかり者の詩織ちゃん」としか見てくれなかったのに。
この人は、私の重荷を奪おうとしているんじゃなくて、半分背負おうとしてくれているんだ。
視界が滲んだ。
眼鏡がココアの湯気で白く曇ったのをいいことに、私は泣いた。
声を押し殺して、ボロボロと涙を流した。
彼は何も言わず、ただ静かにココアを啜っていた。その無言の優しさが、心地よかった。
***
翌朝。
腫れぼったい目で起きてきた私に、彼は何も聞かず、ただ「おはようございます」と言って、完璧な焼き加減の目玉焼きを出してくれた。
「……おはようございます。……お父さん」
小さな声でそう呼んでみると、彼は「ぶっ!」とコーヒーを吹き出した。
その反応がおかしくて、私は久しぶりに心の底から笑った気がした。
私が家の中で眼鏡を外すようになったのは、それからもう少し後の話。
もともと、世界はよく見えていたのだから。
ただ、自分の弱さを隠すためのフィルターが必要なくなっただけ。
この人の前なら、弱い自分を見せてもいい。
そう思えたから、私は硝子の鎧を脱ぐことができたのだ。
(続く)




