第5章:赤点と嫉妬、そして聖母の「カツ」丼
高校生にとっての悪夢。それは中間テストだ。
返却された数学の答案用紙を見て、隣の席の瑠奈は机に突っ伏していた。
チラリと見えた点数は「12点」。見事な赤点だ。
その夜、橘家のリビングにて緊急対策会議が開かれた。
俺がテキストを開き、瑠奈に勉強を教えることになったのだ。
「……チッ。パパ面しないでよね」
「瑠奈。俺も教えるプロじゃないけど、赤点回避くらいなら手伝えると思う。まずはこの基本問題からやろう」
勉強会が始まった。
意外だったのは、瑠奈の集中力だ。最初は悪態をついていたが、俺が遥さんのリハビリで培った「噛み砕いた説明」をすると、彼女は素直にペンを走らせる。
「……へぇ。アンタ、説明上手いじゃん。学校のセンセーより分かりやすいし」
一問正解した瑠奈が、少し見直したように俺を見る。
シャープペンを回しながら、彼女が上目遣いでニッと笑った。
「意外と頼りになる……かも?」
その無防備な笑顔に、俺が少しドキッとした時だ。
ガチャリ、とリビングのドアが開いた。
「……少し、騒がしいですよ」
現れたのは、部屋着姿の詩織さんだった。
手には参考書と、例の「青く光るレンズの眼鏡」。完全武装モードだ。
彼女は無言でテーブルに近づくと、なぜか瑠奈の正面(空いている席)ではなく、俺のすぐ横の席に椅子を引いた。
「お姉ちゃん? 部屋でやるんじゃないの?」
「ここ数日、二階のWi-Fiルーターの調子が悪くて。調べ物があるので、ここでやります」
嘘だ。ルーターは昨日、俺が再起動してピンピンしている。
詩織さんは眼鏡を光らせて俺を見た。距離が近い。ふわりと、お風呂上がりの石鹸の香りがした。
「……監視です。あなたが瑠奈に変なことを教えないように」
「教えないですよ! 数学しか教えてません」
「どうだか。……ほら、ここの英文解釈、間違ってますよ」
詩織さんが俺の手元のノートを覗き込む。
俺の肩に、彼女の二の腕が触れそうだ。
昨晩のココアの一件以来、彼女の「パーソナルスペース」の設定がおかしくなっている気がする。
瑠奈が、ムッとしたように唇を尖らせた。
「ちょっとお姉ちゃん、近いんだけど。アタシが教えてもらってんの」
「私は補足をしているだけよ。聖次さんの教え方は感覚的すぎるから、論理的な補強が必要なの」
火花が散る。
なぜか俺を挟んで、姉妹の冷戦が始まってしまった。
右からギャルの熱視線、左から才女の冷徹な(でも距離が近い)監視。
胃が痛い。
「お待たせ〜〜〜!!」
そこへ、空気を読まない――いや、全てを破壊する聖母が降臨した。
キッチンから、満面の笑みの遥さんがお盆を持って現れる。
「みんな頑張ってるから、とびっきりの夜食を作ったわよ〜♪ 特製! 試験に勝つ(カツ)丼よ!!」
ドン! ドン! ドン!
テーブルに置かれたのは、湯気を立てる、ガッツリ揚げたてのロースカツ丼(大盛り)。
卵のとじ具合は完璧だが、そのカロリーは暴力的だ。
現在時刻、夜の十一時半。
「……母さん、重い」
「ママ……この時間にこれは、ニキビできるってレベルじゃないんだけど。テロ?」
二人のツッコミも虚しく、遥さんは「あら〜?」とニコニコしている。
「聖次さんが前に『勉強で疲れた時はガッツリ系が嬉しい』って言ってたから、頑張ってみたの! ……だめ、だった?」
上目遣いで不安そうに聞かれると、俺たちに拒否権はない。
俺たちは無言で顔を見合わせ、箸を取った。
口に入れる。サクッとした衣と、甘辛い出汁が染みたご飯。
……悔しいが、絶品だ。
「……ねえ」
カツを頬張りながら、瑠奈がボソリと呟いた。
「……今回のテスト、赤点じゃなかったら。……また、教えてくんない?」
「え?」
「だから! 期末も教えてくれんのかって聞いてんの! ……アンタの教え方なら、分かんなくもないし」
顔を真っ赤にして怒鳴る瑠奈。実質的な「一緒に勉強したい」宣言だ。
俺が答える前に、横から詩織さんが涼しい顔で口を挟んだ。
「ダメよ瑠奈。聖次さんは忙しいの。……それに、期末前は私の生徒会資料の整理も手伝ってもらう予定だから」
「はぁ!? 何それ聞いてないし! お姉ちゃんズルい! 独り占めすんな!」
「人聞きが悪いわね。これは生徒会業務の効率化よ」
カツ丼を挟んで再び始まる姉妹喧嘩。
その横で、遥さんは「あらあら、みんな仲良しね〜♪」とニコニコとお茶を啜っていた。
俺はこのカオスな「家族の味」を噛み締めながら、とりあえず胃薬の場所を脳内検索した。
(続く)




