【追憶】レイニー・ブルー ~ビニール傘と、消えない熱~
中学三年の、梅雨の時期だった。
あの日、アタシの世界は灰色だった。
パパが事故で死んだ。
優しくて大好きだったパパ。
ママはショックで心が壊れてしまい、部屋から出てこなくなった。食事も喉を通らず、ただ遺影の前で泣き続ける毎日。
お姉ちゃんは、そんなママを見て「私が黒澤の家を守らなきゃ」と決意し、鬼気迫る表情で勉強と家事をこなし始めた。
家の中は、冷たくて、息が詰まりそうだった。
誰もアタシを見ていなかった。
パパが死んだ悲しみすら、ピリピリとした空気の中で圧殺されていく。
(……アタシなんて、いなくてもいいじゃん)
そんな言葉が、頭の中をぐるぐると回る。
家に帰りたくなくて、放課後の街を一人で彷徨った。
制服のまま、隣町の商店街まで歩いた。知らない景色の中にいれば、自分という存在が希薄になって、少しだけ楽になれる気がしたから。
そんな時だ。
空が急に暗くなり、バケツをひっくり返したような土砂降りの雨が降ってきたのは。
ザァァァァァッ!
アスファルトを叩く激しい雨音。
周りの人たちが「うわっ、すげぇ雨!」「雨宿りしよう!」と慌てて軒下に駆け込んでいく。
けれど、アタシは動けなかった。
傘なんて持っていなかったし、雨を避ける気力さえ湧かなかった。
全身がずぶ濡れになる。
六月の雨は、驚くほど冷たかった。
ブラウスが肌に張り付き、体温を奪っていく。
寒さで震えが止まらない。
(……このまま、風邪ひいて死んじゃえばいいのかな)
そうすれば、ママも少しはアタシを見てくれるだろうか。
そんな自暴自棄なことを考えながら、アタシはとある店の軒先――シャッターの閉まった店の前で、力尽きるように座り込んだ。
膝を抱えて、小さくなる。
世界から拒絶されているみたいだった。
「……おい」
不意に、低い声が雨音に混じって降ってきた。
顔を上げる気力もなくて無視していると、今度はもっと近くで声がした。
「……おい、大丈夫か? そんなとこにいたら……」
ゆっくりと顔を上げると、そこに一人の少年が立っていた。
高校生くらいだろうか。バイト帰りなのか、エプロンを外したようなラフな格好をしている。
少し目つきが悪いけれど、どこかお節介そうな顔。
「……ほっといてよ。関係ないじゃん」
アタシは精一杯の虚勢で睨みつけた。
同情なんていらない。どうせ、「邪魔だ」とか「可哀想に」とか思って、通り過ぎていくだけの他人だ。
けれど、少年は行かなかった。
困ったようにボサボサの頭をかき、大きなため息をついた。
「……関係あるかよ。目の前で震えられたら、寝覚めが悪いんだよ」
バサッ。
視界が白くなった。
彼が持っていた透明なビニール傘が開き、アタシの上に差し出されたのだ。
雨音が、ビニールを叩くパラパラという優しい音に変わる。
「……え?」
「……ほら」
彼はアタシの手を取り、強引に傘の柄を握らせた。
彼の手は、驚くほどゴツゴツしていて、そして――火傷しそうなくらい温かかった。
冷え切っていたアタシの指先に、じわりと熱が伝染する。
「……ちょ、ちょっと。あんたが濡れちゃうじゃん……」
「俺はいいんだよ。家、すぐそこだし走れば平気だ」
彼はぶっきらぼうに言うと、真っ直ぐにアタシの目を見た。
その瞳は、深くて、強くて、どこまでも優しかった。
「……そんな顔して濡れてると、雨と一緒に消えちまいそうだぞ」
ドクン、と心臓が跳ねた。
図星だった。
アタシが今まさに、「消えたい」と思っていたことを、この人は見抜いたのだ。
「……消えるなよ」
それは命令のようで、祈りのような響きだった。
パパが死んでから、誰もアタシを見てくれなかった。透明人間になったみたいだった。
なのに、名前も知らないこの人だけが、アタシを見つけてくれた。
ずぶ濡れで惨めなアタシを、「消えるな」と引き留めてくれた。
「……じゃあな! 風邪ひくなよ!」
彼はそれだけ言うと、自分のカバンを頭に乗せ、土砂降りの中へと駆け出していった。
水飛沫を上げて走る背中は、あっという間に雨の向こうへ霞んでいく。
「……なによ、あいつ。……バカみたい」
残されたビニール傘。
柄にはまだ、彼の手の温もりが生々しく残っていた。
アタシはその温もりを逃さないように、両手でギュッと握りしめた。
傘の中で、涙が溢れてきた。
雨のせいじゃない。温かくて、嬉しくて、泣いた。
(……生きてよう)
そう、思えた。
――それが、アタシの初恋だった。
名前も知らない、ビニール傘のヒーロー。
あの日もらった「熱」は、ずっとアタシの胸の奥で燻り続けていた。
***
だから。
高校に入学して、教室に入ったあの日。
隣の席に座っていた男子生徒を見た瞬間、アタシは心臓が止まるかと思った。
少し伸びた髪。眠そうな目。でも、変わらない優しい雰囲気。
「雨宮 聖次」
そう呼ばれた彼は、紛れもなくあの日の少年だった。
(……嘘。いた……!)
運命だと思った。
神様がくれた、最高のご褒美だと信じて疑わなかった。
これから毎日彼に会える。話ができる。いつか、あの時のお礼を言って、そして……。
バラ色の高校生活が始まると確信していた。
まさかその数ヶ月後。
彼が家にやってきて、ママの隣に座り、「はじめまして、今日から家族になります」なんて挨拶することになるなんて――。
そんな残酷な結末、神様だって教えてくれなかった。
――だからあの日、玄関で私は、あんなふうに叫ぶしかなかった。
(続く)




