第53章 パパになっちゃったら
2月下旬。
ついに、瑠奈の第一志望である東京の服飾大学の入試日がやってきた。
前日の夜。しんしんと雪が降る静かな夜。
俺は温かいココアを二つ作り、二階の瑠奈の部屋をノックした。
「……瑠奈。起きてるか?」
「……ん。入っていいよ」
ドアを開けると、部屋は薄暗かった。デスクライトだけが点いている。
瑠奈はベッドの縁に腰掛け、何かを抱きしめていた。
それは、古ぼけた一本の**「ビニール傘」**だった。
「……聖次」
瑠奈が顔を上げないまま、静かに口を開く。
「……覚えてる? 中3の夏。……隣町のアイス屋でバイトしてた時のこと」
「……ある土砂降りの日。店の前で泣いてた中学生に、傘をあげた話」
瑠奈がゆっくりと顔を上げる。
その瞳は、ライトの光を反射して、揺れる水面のように潤んでいた。
「……あの中学生。……アタシだったの」
ドクン、と心臓が跳ねた。
脳裏に蘇る記憶。あの雨の日、うずくまっていた少女。
放っておけなくて、俺が傘を押し付けた、名も知らぬ女の子。
「……あの時、パパが死んで……ママもおかしくなって……。アタシ、どうしていいか分かんなくて、雨の中飛び出したの」
瑠奈が傘の柄を強く握りしめる。指の関節が白くなるほどに。
「……パパもいなくて、ママもあんなで……。全部、全部クソだと思ってた」
「……でも、アンタだけが。あの雨の中で、アンタだけが優しかった」
「……高校に入学して、隣の席に『雨宮 聖次』が座った時……あのアイス屋のお兄さんだって、すぐに分かった。運命だと思った」
俺は言葉が出なかった。
彼女の不器用な態度の裏側に、そんな長い年月が隠されていたなんて。
「……ずっと見てた。アンタの優しいとこも、お節介なとこも、全部」
瑠奈が立ち上がり、俺に一歩近づく。
「……ねえ。なんでママなの?」
「……瑠奈」
「アタシの方が先だったのに! ママより先に、アタシがアンタを見つけたのに!」
彼女の手が俺の胸を叩く。
ポロポロと、大粒の涙が彼女の頬を伝い落ちる。
「……好きだった。ずっと好きだった!」
彼女は俺のシャツを鷲掴みにする。
その身体が、小さく震えていた。
言いたくない。認めたくない。でも、言わずにはいられない。
彼女は、嗚咽を漏らしながら想いをぶつける。
「……ズルいよ……! こんなのってないよ……!」
彼女の声が掠れる。息が詰まる。
それでも、彼女は泣きじゃくりながら、決定的な言葉を吐き出した。
「……だって、そうでしょう?」
瑠奈が顔を歪めた。
喉の奥で、言葉にならない熱い塊がせり上がってくるのを必死に堪えているのが、その震える肩から伝わってくる。
しんしんと降り積もる雪の音さえ聞こえそうな、痛いほどの沈黙。
やがて、彼女は堰を切ったように、血を吐くような想いを絞り出した。
「……パパになっちゃったら……もう一生ぉ……」
「うぐぅ…… バカァ……」
「女として『好き』って、」
「言えないじゃん……ッ!!」
悲痛な叫びだった。
それは単なるワガママではなく、彼女の初恋が終わる音だった。
家族になること。それは、彼女の恋心を殺すこと。
俺が遥さんを選んだことで、彼女の想いを行き場のないものにしてしまったのだ。
俺は、震える彼女の肩を抱きしめることはできなかった。
俺は「父親」になる男だ。その一線だけは、死んでも越えてはいけない。
たとえその一線が、彼女の純粋な心を切り刻むナイフになるとしても。
俺は、ココアを置き、彼女の両手を優しく掴んだ。
「……瑠奈。聞いてくれ」
「……ぅ……っ」
「……俺は遥さんを愛してる。俺は遥さんの夫になる。……そして、お前の父親になるんだ」
それは、彼女の初恋に対する、明確な死刑宣告だった。
「……お前の『好き』には応えられない。……ごめんな」
瑠奈は唇を噛み締め、しばらくの間、肩を震わせて泣いていた。
やがて、彼女は俺の手を乱暴に振り払った。
袖で涙をぐいっと拭い、充血した目で俺を睨みつける。
「……バカ。……んなこと、分かってるっつーの」
彼女は鼻をすすり、無理やりに作った笑顔で言った。
「……言いたかっただけ。……アンタがホントのパパになる前に、一回だけ『男と女』として勝負したかっただけだし」
「……ああ」
「……フられた。……アタシの完敗」
彼女は傘をベッドに放り投げ、深呼吸をした。
その表情は、憑き物が落ちたように晴れやかで、そしてどこか痛々しかった。
「……出てって。明日の準備あるから」
「……ああ。おやすみ」
俺は部屋を出ようとして、足を止めた。
「……瑠奈。明日は」
「……言わなくていい。絶対受かるから」
彼女は背中越しに、右手を挙げてヒラリと振った。
「……アタシのことフったんだから。……責任とって、世界一幸せな『娘』にしなさいよね」
それが、彼女なりの精一杯の降伏宣言だった。
俺は静かにドアを閉めた。
廊下の冷たい空気が、火照った頬を冷ましていく。
俺たち家族の「冬」が終わり、新しい「春」が来ようとしていた。
(続く)
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