第49章:祭りの後の静寂と、赤ペンの重み
文化祭が終わった翌週。
教室の後ろにあった「ロミオとジュリエット」の書き割り(背景セット)は撤去され、代わりに黒板の隅には『センター試験まであと〇〇日』という無機質なカウントダウン数字が刻まれていた。
「……はぁ。燃え尽きたぜ……真っ白にな……」
休み時間。小野田 達也が机に突っ伏して灰になっていた。
脚本・演出・総監督として全精力を使い果たした彼は、ただの抜け殻と化している。
「おい達也。起きろ、次は英語だぞ」
「……無理だ聖次。俺の魂はまだヴェローナ(ロミオとジュリエットの舞台)にある……」
「帰ってこい。ここはいまば……いや、日本の教室だ」
隣の美咲も、鏡を見ながらため息をついている。
「あーあ。祭りの後ってマジ虚無だよね〜。……てか、瑠奈大丈夫?」
美咲の視線の先には、窓際で一点を見つめる瑠奈がいた。
彼女の手元にあるのは、ファッション誌ではない。
返却されたばかりの「進研模試」の結果表だ。
「……」
瑠奈は無言でその紙を折りたたみ、教科書の間に挟んだ。
その背中が、いつもの強気な彼女にしては珍しく、小さく丸まって見えた。
***
その夜。橘家(雨宮家)のリビング。
夕食後の団欒の時間だが、テレビはついていない。
ダイニングテーブルには、参考書とノートが山積みにされている。
「……ここ、また間違えています。先週も言いましたよね?」
詩織さんの冷徹な声が響く。
彼女は裸眼に部屋着というラフな格好だが、手には容赦ない赤ペンが握られている。
「うぅ……だってぇ、関係代名詞とか意味わかんないし……」
「服飾の大学でも英語は必須です。海外のトレンドを学ぶのに、英語が読めなくてどうするんですか」
「今は翻訳アプリがあるもん……」
「甘えです」
バサッ。
詩織さんが瑠奈の前に突きつけたのは、例の模試の結果だった。
志望校判定欄には、無情な『E』の文字。
「……このままでは、東京の大学なんて夢のまた夢ですよ」
「……ッ」
瑠奈が唇を噛み締める。
彼女は何も言い返せず、シャープペンを握りしめたまま俯いた。
その手は小刻みに震えている。
文化祭での「ジュリエット」として輝いていた姿はそこになく、あるのは「現実の壁」にぶつかった一人の受験生としての姿だった。
「……ちょっと、トイレ」
瑠奈はガタッと椅子を鳴らして立ち上がり、リビングを出て行ってしまった。
重苦しい沈黙が残る。
「……詩織さん。少し厳しすぎませんか?」
俺がコーヒーを淹れながら声をかけると、詩織さんは赤ペンを置いて、深いため息をついた。
「……分かっています。でも、今甘やかしたら、後で泣くのはあの子ですから」
詩織さんは、瑠奈が置きっぱなしにしたノートを丁寧に整えた。
「……あの子、本気なんです。東京に行きたいって。……だから、私も鬼になるしかありません」
姉としての愛情ゆえの厳しさ。
俺は何も言えなくなり、ただ黙って二人の分のコーヒーをテーブルに置いた。
***
深夜一時。
ふと目が覚めて水を飲みに降りると、暗いリビングのソファに人影があった。
瑠奈だ。
膝を抱えて座り込み、スマホの画面をぼんやりと眺めている。
画面に映っているのは、文化祭の時の写真――俺と彼女が舞台上で見つめ合っているシーンだった。
「……まだ起きてたのか」
「……聖次」
瑠奈は慌ててスマホを隠そうとしたが、諦めて膝の上に置いた。
「……眠れなくて」
「ホットミルク、飲むか?」
「……うん。砂糖多めで」
俺はキッチンでミルクを温め、彼女に手渡した。
瑠奈はマグカップを両手で包み込み、湯気を顔に浴びるようにして息を吐いた。
「……ねえ、聖次」
「ん?」
「……アタシさ。やっぱ向いてないのかな」
弱々しい声。
「お姉ちゃんみたいに頭良くないし。……文化祭でちょっとチヤホヤされたからって、調子乗ってただけかも」
彼女は自嘲気味に笑った。
「東京行って、デザイナーになって……カッコいい女になって聖次を迎えに行くなんて、口だけだったのかな」
不安。焦り。自己嫌悪。
祭りの後の高揚感が消え去り、残ったのは冷たい現実だけ。
俺はソファの隣に座り、彼女の頭にポンと手を置いた。
「……口だけじゃないだろ」
「え?」
「お前は、文化祭の衣装も全部自分でチェックして、演出も考えて、舞台の上であれだけの客を魅了した。……その熱量は、本物だよ」
俺は彼女の目を見て言った。
「勉強が苦手なのは知ってる。でも、お前の『好き』を形にする力は、詩織さんにも、俺にもない才能だ。……俺は、お前の作った服を着てみたいな」
「……っ」
瑠奈の瞳が揺れる。
俺は父親として、精一杯の背中押しをした。
「焦るな。まだ時間はある。……E判定なんて、これからひっくり返せばいい。俺も詩織さんも、遥さんもついてる」
瑠奈はしばらく黙ってミルクを啜っていたが、やがて顔を上げた。
その瞳には、さっきまでの弱気な色は消え、小さな闘志が灯っていた。
「……うん。やる」
「おう」
「……絶対受かって、東京行って……イイ女になってやるんだから」
彼女はマグカップをテーブルに置き、俺の方へ身を乗り出した。
「……そしたら。ご褒美、弾んでもらうからね?」
「……合格してからな」
彼女はニッと笑うと、少し元気を取り戻した足取りで二階へと戻っていった。
リビングに残された甘いミルクの香り。
季節は秋から冬へ。
俺たち家族の「受験」という戦いは、ここからが本番だ。
(続く)




