第43章:密着練習の体温と、歩幅のドラマ、そして聖母の予期せぬ「むぅ」
放課後のグラウンド。
秋の涼しい風が吹いているはずなのに、俺の体感温度は真夏並みに上昇していた。
「……ねえ、聖次。もっとくっついてくんないと、走れないんだけど」
「い、いや、これ以上は無理だろ。歩きにくいって」
「転んで怪我したらどうすんのよ。責任とれんの?」
俺と瑠奈は、右足と左足を赤い紐で結ばれ、密着していた。
二人三脚の練習だ。
肩と肩が触れ合い、俺が彼女の腰に手を回し、彼女が俺の肩に腕を回す。
……近い。近すぎる。
瑠奈の甘いシャンプーの香りが鼻腔をくすぐり、腰に回した手からは彼女の体温と、想像以上に華奢な骨格が伝わってくる。
(……落ち着け、俺。これはスポーツだ。競技だ。やましい気持ちなど微塵もない……ッ!)
俺が必死に己の理性を総動員して「無の境地」に入ろうとしていると、グラウンドの隅からヤジが飛んできた。
「おーい! 腰が引けてるぞー、聖次ぃ!」
「もっと思いっきり抱き寄せちゃいなよ〜! 減るもんじゃなし〜w」
達也と美咲だ。
あいつら、自分たちは玉入れの練習をサボって、ニヤニヤしながら俺たちを監視してやがる。
「うるさい! 誰のせいでこうなったと思ってるんだ!」
「クラスのためだろぉ? ほら、イチ、ニ! イチ、ニ!」
達也の手拍子に合わせて、俺たちは足を踏み出す。
「……いくよ、聖次」
「おう」
「イチ、ニ! ……っと!」
最初はまったく息が合わなかった。
俺が足を踏み出すたびに、結ばれた瑠奈の体がガクンと引っ張られ、体勢が崩れそうになる。
「ちょ、速い! 聖次、歩幅デカいってば!」
「あ、悪い……」
俺はハッとした。
クラスメイトとして隣にいるのが当たり前になっていたが、俺と瑠奈では身長も骨格も違う。男である俺のペースで引っ張れば、彼女が怪我をしてしまう。
「……ごめん。俺が歩幅を狭めるよ。お前に合わせる」
俺が自分の歩幅を落とそうとした、その時だった。
「……ううん。いい」
瑠奈が、俺の肩に回した腕にきゅっと力を込めた。
「え?」
「……アタシが、アンタに合わせるから。そのまま走って」
「でも、無理すると転ぶぞ?」
「転ばない。……アンタがちゃんと、支えてるんでしょ」
彼女は俺を見上げ、挑戦的な、けれどどこか切実な瞳で言い放った。
普段は「私至上主義」で、周りの人間を自分のペースに巻き込むのが当たり前の瑠奈が、自ら俺の歩幅に合わせると言うのだ。
「……分かった。じゃあ、いくぞ」
「うん」
俺たちは再び走り出した。
俺は歩幅を落とさない。すると瑠奈は、俺の大きなストライドに追いつくため、必死に足を伸ばし、腰に回した俺の腕に体重を預けるようにしてしがみついてきた。
密着した体越しに、彼女の心臓の音が少し早くなったのが伝わってくる。
「……ほら、いけるじゃん」
息を弾ませながら、瑠奈が強がって笑う。
自分よりずっと大きな男の歩幅に、必死に食らいつこうとする姿。
それはまるで、もうすぐ手の届かないところ(父親)へ行ってしまう俺の隣に、無理をしてでも並んでいたいという、声にならない意思表示のようにも見えた。
(……ずっと、このままで)
そんな幻聴が、伏せられた彼女の横顔から聞こえた気がした。
だが、瑠奈はすぐに顔を上げ、俺の方を向いた。
「……へぇ。聖次やるじゃん」
「瑠奈がしっかりついてきてくれてるからな」
「バ、……そうよ! 感謝しなさい!」
少しだけ赤くなった顔を隠すように、瑠奈が胸を張る。
「本番はぶっちぎりでゴールへ連れてってやるよ」
「トップしか狙ってないし!」
「心強いな、相棒」
俺はなんの気なしに、瑠奈へ向かってパチリとウインクを飛ばした。
「……ッ!」
夕日に照らされた彼女の顔が、ポンッと音を立てるように真っ赤に染まった。
いつもの生意気で強気な彼女ではなく、最高に可愛い「恋する乙女」の表情だった。
俺はその笑顔を脳裏に焼き付けながら、彼女が転ばないよう、腰に回した手に少しだけ力を込めた。
***
そして、夜。
黒澤家の夕食。今日のメニューは豚の生姜焼きだ。
俺がおかわりをよそっていると、何気なく瑠奈が口を開いた。
「あ、そうそう。体育祭の種目、決まったから」
「あら、何に出るの?」
遥さんが楽しそうに聞く。
いつものふわふわとした聖母の笑顔だ。
瑠奈は箸で肉を掴みながら、サラッと言った。
「二人三脚リレー。……聖次とペアで」
カチャン。
詩織さんの箸が、箸置きから滑り落ちた。
そして、遥さんの動きがピタリと止まった。
「……あら?」
遥さんが小首を傾げる。
俺は身構えた。
まあでも、遥さんのことだ。「あらあら、仲良しね〜。頑張ってね〜」とニコニコ応援してくれるはずだ。いつもそうやって、俺と娘たちの関係を温かく見守ってくれているのだから。
しかし。
「……紐で、結ぶの?」
「うん。右足と左足をね」
「……肩とか、腰とか。くっつくの?」
「ま、競技だからね。そうしないと走れないし」
瑠奈が平然と答えると、遥さんは「そう……」と呟き、手にしていたお茶碗をコトッ……と置いた。
そして、俺の方をじっと見た。
その瞳は、いつもの慈愛に満ちたものではなく、どこか拗ねたような、潤んだ光を宿していた。
「……聖次さん」
「は、はい」
「……いいなぁ」
「え?」
遥さんは頬を膨らませ、ボソリと言った。
「……だって、私だって聖次さんと二人三脚したいもん。……夫婦の共同作業、先越されちゃった」
あ、あれ?
俺は目を瞬かせた。
普段は海のように広い心を持つ聖母・遥さんが、珍しく「むぅ」と唇を尖らせている。
それは、母親としての顔ではなく、完全に「恋する女性」としての可愛い嫉妬だった。
俺の心臓が別の意味で跳ねる。破壊力が高い。
「い、いや遥さん! これはあくまで競技で! 俺たちの愛の共同作業は、ほら、これからの結婚生活で一生かけてやるわけですし……!」
「……本当?」
「もちろんです! 俺のパートナーは遥さんだけですから!」
俺が必死に弁明すると、遥さんはパァッと花が咲くように笑顔に戻った。
「ふふ、冗談よ〜♪ ……でも、ちょっとだけ妬けちゃった。聖次さんがカッコいいから、心配になっちゃって」
聖母の余裕の中に垣間見えた、一瞬の独占欲。
俺が冷や汗を拭っていると、対面の詩織さんが、静かにポケットから愛用の眼鏡を取り出し、カチャリと装着した。
一瞬で、その場の空気が「家族の団欒」から「生徒会室の尋問」へと切り替わる。
レンズが冷たく光る。完全な戦闘モードだ。
「いいですか。公衆の面前で、未婚の男女が身体を密着させるんですよ? しかも相手は義理の父親です。……破廉恥です」
「い、いや詩織さん? 周りから見れば、ただの『青春だなぁ♪』って微笑ましい光景にしか見えないと思いますけど……」
俺が苦笑いで誤魔化そうとすると、詩織さんは冷ややかな視線で俺を一刀両断した。
「……ヘラヘラしないでください。周りがどう見ようと、私たちが『家族』であることに変わりはありません。……信用できません。よって、特訓を行います」
「えっ?」
「家での自主練です。私が監督します。……変な邪念が入っていないか、フォームの乱れがないか……長女として、徹底的にチェックさせてもらいますから」
詩織さんは真っ直ぐに俺を見た。
その瞳の奥には、遥さんとはまた違う、「私の目の届かないところでイチャイチャさせるものですか」という、静かだが激しい炎が燃えていた。
「えーっ、お姉ちゃん厳しい〜!」
「うるさい瑠奈。貴女もです。……聖次さんにベタベタしすぎないように、私が目を光らせておきます」
こうして、俺と瑠奈の体育祭練習は、家では「不意に嫉妬を見せた聖母」と「眼鏡をかけた鉄壁の管理者・詩織」の厳重な監視下で行われることになった。
ドタバタな家族のやり取りに揉まれながらも、俺の右肩には、グラウンドで密着した瑠奈の微かな体温と、無理をしてでも俺に合わせようとした彼女の横顔の記憶が、静かに焼き付いて離れなかった。
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