第43章:密着練習の体温と、聖母の予期せぬ「むぅ」
放課後のグラウンド。
秋の涼しい風が吹いているはずなのに、俺の体感温度は真夏並みに上昇していた。
「……ねえ、聖次。もっとくっついてくんないと、走れないんだけど」
「い、いや、これ以上は無理だろ。歩きにくいって」
「転んで怪我したらどうすんのよ。責任とれんの?」
俺と瑠奈は、右足と左足を赤い紐で結ばれ、密着していた。
二人三脚の練習だ。
肩と肩が触れ合い、俺が彼女の腰に手を回し、彼女が俺の肩に腕を回す。
……近い。近すぎる。
瑠奈の甘いシャンプーの香りが鼻腔をくすぐり、腰に回した手からは彼女の体温と華奢な骨格が伝わってくる。
(……落ち着け、俺。これはスポーツだ。競技だ。やましい気持ちなど微塵もない……ッ!)
俺が必死に己の理性を総動員して「無の境地」に入ろうとしていると、グラウンドの隅からヤジが飛んできた。
「おーい! 腰が引けてるぞー、聖次ぃ!」
「もっと思いっきり抱き寄せちゃいなよ〜! 減るもんじゃなし〜w」
達也と美咲だ。
あいつら、自分たちは玉入れの練習をサボって、ニヤニヤしながら俺たちを監視してやがる。
「うるさい! 誰のせいでこうなったと思ってるんだ!」
「クラスのためだろぉ? ほら、イチ、ニ! イチ、ニ!」
達也の手拍子に合わせて、俺たちは足を踏み出す。
「……いくよ、聖次」
「おう」
「イチ、ニ! イチ、ニ!」
最初はぎこちなかったが、そこはやはり一つ屋根の下で暮らす家族だ。
数分もすれば、俺たちの息は驚くほど合い始めた。
「……へぇ。やるじゃん、アタシたち」
「まあな。毎朝、洗面所の取り合いで連携プレーしてるからな」
俺たちが顔を見合わせて笑った、その瞬間。
瑠奈の笑顔が、ふっと柔らかく綻んだ。
夕日に照らされたその表情は、生意気な娘ではなく、完全に「恋する乙女」のものだった。
「……ねえ。本番も、このままゴールまで連れてってね」
「……ああ。任せとけ」
俺はドキリとする心臓を叱りつけ、あくまで「頼れる相棒」として頷いた。
その様子を、達也がスマホで連写していることには気づかないフリをした。
***
そして、夜。
本当の試練はここからだった。
橘家の夕食。今日のメニューは豚の生姜焼きだ。
俺がおかわりをよそっていると、何気なく瑠奈が口を開いた。
「あ、そうそう。体育祭の種目、決まったから」
「あら、何に出るの?」
遥さんが楽しそうに聞く。
いつものふわふわとした聖母の笑顔だ。
瑠奈は箸で肉を掴みながら、サラッと言った。
「二人三脚リレー。……聖次とペアで」
カチャン。
詩織さんの箸が、箸置きから滑り落ちた。
そして、遥さんの動きがピタリと止まった。
「……あら?」
遥さんが小首を傾げる。
俺は身構えた。
まあでも、遥さんのことだ。「あらあら、仲良しね〜。頑張ってね〜」とニコニコ応援してくれるはずだ。いつもそうやって、俺と娘たちの関係を温かく見守ってくれているのだから。
しかし。
「……紐で、結ぶの?」
「うん。右足と左足をね」
「……肩とか、腰とか。くっつくの?」
「ま、競技だからね。そうしないと走れないし」
瑠奈が平然と答えると、遥さんは「そう……」と呟き、手にしていたお茶碗をコトッ……と置いた。
そして、俺の方をじっと見た。
その瞳は、いつもの慈愛に満ちたものではなく、どこか拗ねたような、潤んだ光を宿していた。
「……聖次さん」
「は、はい」
「……いいなぁ」
「え?」
遥さんは頬を膨らませ、ボソリと言った。
「……だって、私だって聖次さんと二人三脚したいもん。……夫婦の共同作業、先越されちゃった」
あ、あれ?
俺は目を瞬かせた。
(いつもなら、「ふたりなら大丈夫じゃない? 優勝目指してね♪」で済むハズなのに……な、なんで今回に限って嫉妬してるんだ?……紐か?……紐がいけないのか…?)
普段は海のように広い心を持つ聖母・遥さんが、珍しく「むぅ」と唇を尖らせている。
それは、母親としての顔ではなく、完全に「恋する女性」としての可愛い嫉妬だった。
俺の心臓が別の意味で跳ねる。破壊力が高い。
「い、いや遥さん! これはあくまで競技で! 俺たちの愛の共同作業は、ほら、これからの結婚生活で一生かけてやるわけですし……!」
「……本当?」
「もちろんです! 俺のパートナーは遥さんだけですから!」
俺が必死に弁明すると、遥さんはパァッと花が咲くように笑顔に戻った。
「ふふ、冗談よ〜♪ ……でも、ちょっとだけ妬けちゃった。聖次さんがカッコいいから、心配になっちゃって」
聖母の余裕の中に垣間見えた、一瞬の独占欲。
俺が冷や汗を拭っていると、対面の詩織さんが、静かに箸を置いた。
「……母さん、甘すぎです。冗談で済ませていい問題じゃありません」
「あら、詩織?」
詩織さんはため息をつくと、手元のポケットから愛用の眼鏡を取り出し、カチャリと装着した。
一瞬で、その場の空気が「家族の団欒」から「生徒会室の尋問」へと切り替わる。
レンズが冷たく光る。完全な戦闘モードだ。
「いいですか。公衆の面前で、未婚の男女が身体を密着させるんですよ? しかも相手は義理の父親です。……破廉恥です」
「い、いや詩織さん? ちょっと待ってください」
俺は慌てて弁解する。
「そこの『父親設定(予定)』は、学校のみんなは知らないわけですし……。周りから見れば、ただの『青春だなぁ♪』って微笑ましい光景にしか見えないと思いますけど……」
俺が苦笑いで誤魔化そうとすると、詩織さんは冷ややかな視線で俺を一刀両断した。
「……ヘラヘラしないでください。事実は事実です」
「うっ……」
「周りがどう見ようと、私たちが『家族』であることに変わりはありません。……信用できません。よって、特訓を行います」
「えっ?」
「家での自主練です。私が監督します。……変な邪念が入っていないか、フォームの乱れがないか……長女として、徹底的にチェックさせてもらいますから」
詩織さんは真っ直ぐに俺を見た。
その瞳の奥には、遥さんとはまた違う、「私の目の届かないところでイチャイチャさせるものですか」という、静かだが激しい炎が燃えていた。
「えーっ、お姉ちゃん厳しい〜!」
「うるさい瑠奈。貴女もです。……聖次さんにベタベタしすぎないように、私が目を光らせておきます」
こうして、俺と瑠奈の体育祭練習は、学校では達也たちの冷やかしを受け、家では「不意に嫉妬を見せた聖母」と「眼鏡をかけた鉄壁の管理者・詩織」の監視下で行われることになったのだった。
(続く)
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