第41章:宿題と残暑、そして「予約」された唇
8月31日。
夏休み最終日。
世の学生たちが阿鼻叫喚の地獄絵図を描くこの日、橘家(黒澤家)のリビングもまた、戦場と化していた。
「終わんない……! マジで終わんない……ッ!!」
ダイニングテーブルに突っ伏し、絶望の声を上げているのは瑠奈だ。
彼女の周りには、手付かずのプリントの山、書きかけのレポート用紙、そして現実逃避に使われたファッション誌が散乱している。
「……だから言っただろ、お盆過ぎたらペース上げろって」
「だってぇ! オープンキャンパスとか夏祭りとか、イベント目白押しだったじゃん! アタシの夏は青春で忙しかったの!」
「青春しても宿題は減らないんだよ。ほら、数学のプリント。ここ、公式が違う」
俺、雨宮 聖次は、赤ペン片手に娘の尻を叩いていた。
窓の外からは、夏の終わりを惜しむようなつくつく法師の声が響いている。冷房の効いた室内だが、俺の額には冷や汗が滲んでいた。
――正直に言おう。
俺が汗をかいているのは、冷房の設定温度のせいでも、瑠奈の成績が壊滅的だからでもない。
目の前にいる瑠奈を、直視できないからだ。
(……なんでコイツ、こんな無防備なんだよ)
家モードの瑠奈は、大きめのTシャツにショートパンツというラフな格好だ。
テーブルに身を乗り出すたびに、襟元が危うい。
以前なら「だらしないぞ」と注意できた。父親として、あるいは保護者として。
だが、今の俺の脳裏には、あの夜の光景が焼き付いて離れないのだ。
――『返事は、春まで待ってあげる』
――『覚悟しといてよね、パパ』
数日前の花火大会。夕立の神社。
濡れた浴衣。触れそうになった唇。
あの日以来、ふとした瞬間に彼女を「異性」として意識してしまいそうになる。
いかん。断じていかん。
俺が愛しているのは遥さんだ。俺たちはもうすぐ本当の夫婦になるんだ。
義理の娘にドキドキするなんて、父親失格だし、何より遥さんへの裏切りだ。
俺は必死に「聖人君子」の仮面を被り、己の邪念と戦っていた。
「……ねえ、聖次。手が止まってんよ?」
不意に、下から顔を覗き込まれた。
瑠奈が、上目遣いでニヤリと笑っている。
「……なに? また思い出してた?」
「は、はあ!? なにをだよ!」
「とぼけちゃって。……あの神社のこと、考えてたんでしょ?」
(クッ……エスパーかよ……)
瑠奈はシャープペンをくるりと回し、小悪魔のような瞳で俺を射抜く。
「……安心してよ。約束通り、合格するまでは『お預け』だから。……それとも、我慢できない?」
「っ……! からかうな! ほら、ここ! 二次関数!」
「はーい。……顔、赤いよパパ」
余裕たっぷりに笑う娘に、俺は反論もできずテキストに目を落とした。
完全に主導権を握られている。
その時、リビングのドアが開いた。
「……騒がしいですね。集中力が切れていますよ」
現れたのは、アイスコーヒーを手にした詩織さんだった。
ラフな部屋着に、裸眼。
大学生の彼女にとって、8月31日はまだ夏休みの折り返し地点だ。その余裕が、今の俺たちには眩しすぎる。
「あ、お姉ちゃん! ちょうどいいところに! ここの英語分かんない!」
「……瑠奈。貴女、夏休み初日に立てた計画表はどうしたんですか? 私は『毎日コツコツやるように』と言いましたよね?」
詩織さんの目が、スッと細められる。
絶対零度の視線。瑠奈が「ヒッ」と縮こまる。
「せ、聖次が! 聖次が甘やかすから!」
「俺のせいにするな!」
「はぁ……。聖次さんもです。瑠奈のペースに巻き込まれすぎです。……貸してください」
詩織さんは俺の手から赤ペンを奪うと、瑠奈の隣――俺とは反対側の席に座った。
そして、鬼のスパルタ指導が始まった。
「ここ、文法が違います。中2レベルですよ。やり直し」
「うぐっ……」
「この単語、先週も間違えましたよね? 罰として10回書いてきなさい」
「お、鬼……! 聖次より厳しい……!」
涙目になる瑠奈。
俺はその様子を見ながら、少しだけホッとしていた。
詩織さんが入ってきてくれたおかげで、あの妙な緊張感が薄まったからだ。
「……ふふ。大変ねぇ、受験生は」
キッチンから、遥さんが麦茶のポットを持って現れた。
彼女は呑気に笑いながら、氷の入ったグラスを配る。
「ママは応援係だから! フレーフレー、る・な・ちゃん♪」
「ママはいいよねぇ、悩みなくて!」
「あるわよ〜? 今夜の夕飯、ハンバーグにするか唐揚げにするか、重大な悩み中よ」
「どっちもハイカロリーじゃん!」
いつもの騒がしい家族の風景。
俺はこの温かい場所を守らなければならない。
たとえ、娘からの猛烈な誘惑があろうとも、俺の心臓がある限り、遥さんへの愛を貫くんだ。
***
夜10時。
詩織さんの猛特訓のおかげで、なんとか瑠奈の宿題は終わりの目処が立った。
力尽きた瑠奈がソファで伸びている横で、俺は明日の準備をしていた。
「……聖次」
寝転がったまま、瑠奈が声をかけてきた。
詩織さんと遥さんは風呂に入っている。二人きりだ。
「……ありがと。手伝ってくれて」
「おう。明日は寝坊するなよ。始業式だぞ」
「分かってるって」
瑠奈は天井を見上げたまま、ボソリと呟いた。
「……絶対、受かるから」
「ん?」
「大学。……受かって、大学生になって。……そしたら」
彼女がゆっくりと起き上がり、俺の方を見る。
昼間のようなからかう目ではない。
夏の夜のような、熱っぽく、真剣な瞳。
「……迎えに行くから。約束、忘れないでよね」
ドキリと心臓が跳ねる。
彼女が言っているのは、ただの「デート」のことではない。
その先にある、彼女なりの「初恋の清算」と「新たな始まり」のことだ。
そしてそれは、俺の「父親としての理性」が試される日でもある。
「……ああ。覚えてるよ」
俺が答えると、彼女は満足そうに微笑み、「お風呂行ってくる」と部屋を出て行った。
残された俺は、深くソファに沈み込んだ。
春まで、あと半年。
遥さんへの愛を貫き通せるか、それとも娘の想いに押し切られるか。
俺の理性との戦いは、まだ始まったばかりだ。
***
翌日。9月1日。
二学期の始業式。
蒸し暑さの残る体育館での式を終え、教室に戻ると、すでに「日常」が待っていた。
「よぉ〜っす! 聖次ぃ! 夏休みボケしてねーかぁ?」
小野田 達也。
相変わらず無駄にテンションが高い。こんがりと日焼けしているのが腹立たしい。
「うるさい。朝から暑苦しいんだよ」
「つれないねぇ! 久しぶりの再会だぜ? ハグでもする?」
「断る」
「ケチぃなぁ。……で? どうだったんだよ、夏は」
達也がニヤリと笑い、俺の机に腰掛ける。
その背後から、美咲もひょっこりと顔を出した。
「そーそー! 夏祭り、行ったんでしょ? 瑠奈と」
「……なんで知ってんだよ」
「SNSよ、S・N・S! 誰かが上げてた写真の端っこに、あんたたちの後ろ姿がバッチリ写ってたわけ!」
美咲がスマホの画面を見せてくる。
確かに、人混みの中で寄り添う俺たちの後ろ姿が映り込んでいる。どう見てもカップルだ。
「……否定はしないけど、たまたまだよ。混んでたから逸れないようにしてただけだ」
俺は苦しい言い訳をするが、達也たちはニヤニヤと笑っている。
こいつらの中で、俺たちは「付き合っている」ことになっている。
俺の言葉など、単なる「照れ隠し」にしか聞こえないのだろう。
「ふ〜ん? 逸れないように、ねぇ……?」
達也が俺の顔を覗き込み、ねっとりとした口調で囁いた。
「随分と、距離が近かったみたいじゃあないか。……まるで、何か**『一線』**を超えちゃった後のカップルみたいな空気感だねぇ?」
(エスパー再来こんにちは!コイツの勘の鋭さは…)
俺は心の中で毒づいた。
一線は超えていない。だが、あの神社の軒下で、瑠奈が俺に迫り、キスを「予約」したことは事実だ。
達也の動物的な勘は、俺たちの間に流れるその微妙な変化を正確に嗅ぎ取っていやがる。
「……妄想も大概にしろよ」
「はいはい、そういうことにしておくわ〜。……ま、二学期もイベント目白押しだし?」
美咲が意味深にウインクする。
達也が俺の肩をバンと叩いた。
「そう! 『体育祭』だ! クラス対抗、燃えるぜぇ〜!」
「……ああ、そうだったな」
「去年の借り物競走みたいな『伝説』、今年も期待してるからな? ダーリン?」
達也の言葉に、俺は胃がキリキリと痛むのを感じた。
体育祭。
去年、瑠奈が「家族」というお題で俺を借り出し、全校生徒の前で関係を疑われた因縁のイベント。
今年は3年生。最後の体育祭だ。
何事もなく終わるはずがない――そんな予感が、秋の気配と共に近づいてきていた。
(続く)
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