第3章:二つの表札と、逃げ出した聖母
橘家での同居生活にも、少しずつ慣れてきた数日目の夜。
俺は、玄関先で奇妙な違和感の正体に気づいた。
門柱に掲げられた表札だ。
そこには『橘』という文字と、その横に小さく『黒澤』という文字が併記されていた。
(……黒澤?)
そういえば、学校での詩織先輩の名字は「黒澤」だ。瑠奈は「橘」。
姉妹で名字が違う。再婚家庭ではたまにあることだが、母親である遥さんも「橘」を名乗っているのに、なぜ長女の詩織先輩だけが?
その疑問は、リビングで遥さんと二人きりになった時、ふと口をついて出た。
「……あの、遥さん。聞きにくいことなんですが」
「ん? なぁに?」
遥さんは洗い物をしながら、いつものふわふわとした笑顔を向けてくる。
「詩織先輩だけ、どうして『黒澤』のままなんですか? 瑠奈も遥さんも『橘』なのに」
カチャン。
遥さんの手から、洗っていた皿が滑り落ちそうになった。
彼女は慌ててそれをキャッチしたが、その背中は小さく震えていた。
「……聖次さんは、優しいから。いつか気づくと思ってた」
遥さんは水を止め、タオルで手を拭くと、ダイニングテーブルの俺の向かいに座った。
その表情からは、いつもの明るさが消え、痛々しいほどの悲哀が滲んでいた。
「……私が、逃げたの」
「え?」
「あの人が……夫が事故で亡くなった時、私はダメだった。後を追いたいなんて馬鹿なことを考えるくらい、心が壊れてしまって」
彼女は自身の二の腕を抱くようにして、俯いた。
「『黒澤』という文字を見るたび、彼がもういないという現実を突きつけられているようで……息ができなくなった。郵便物の宛名も、表札も、全てが私を責めているようで」
「……それで、旧姓に?」
「ええ。最低な母親よね。娘たちを守らなきゃいけないのに、私は自分の痛みから逃げるために、籍を『橘』に戻そうとしたの」
遥さんの瞳から、ポロリと涙がこぼれ落ちる。
「でも、その時。高校に上がったばかりだった詩織が言ったの。『私は変えない』って」
『母さんは戻りなよ。弱いんだから』
あの日の詩織さんの声を真似て、遥さんは言う。
「『父さんの名前は私が残す。この家も私が守る。だから母さんは、少し休んで』……あの子、まだ制服も身体に馴染んでいない子供だったのに、泣き崩れる私を抱きしめてそう言ったのよ」
俺は息を呑んだ。
学校での詩織先輩の、あの完璧主義や頑なさ。
その原点は、反発心なんかじゃなかった。
母親が悲しみで潰れてしまわないように、彼女は自ら進んで『黒澤』という名の墓守になったのだ。亡き父の代わりになろうと、小さな肩で必死に。
「瑠奈はまだ甘えん坊だったから、私の『橘』についてきてくれた。でも詩織はずっと……たった一人で、あの人の不在を背負ってる」
「……遥さん」
「ごめんね、聖次さん。こんな重い話……。やっぱり私、母親失格ね」
「そんなことないです」
俺は強く否定し、彼女の手を握りしめた。
「薄情なんかじゃない。愛しすぎていたからこそ、耐えられなかったんですよね。それは恥ずべきことじゃないです」
「聖次さん……」
「それに、詩織先輩が強いのは、遥さんがこれまで愛を注いできた証拠です。……でも」
俺は、二階の天井――おそらく詩織先輩がいる部屋の方角を見上げた。
あんな華奢な女の子が、一人で家と過去を背負い続けている。
その孤独を想像しただけで、俺の胸は締め付けられるように痛んだ。
(……やっぱり、この家族には俺が必要だ)
俺は泣き出した遥さんの背中を優しくさすりながら、決意を固めた。
「黒澤」という名の鎧を着て戦い続ける、あの不器用な長女を救わなければならない、と。
(続く)




