第36章:梅雨空のアイスクリームと、強制的相合傘
6月。
日本列島は梅雨入りし、連日の雨模様が続いていた。
ジメジメとした湿気が肌にまとわりつく放課後。
SHRが終わった昇降口で、瑠奈が空を見上げて大きなため息をついた。
「……あー、最悪。傘忘れたー」
彼女のカバンには、朝には確かに入っていたはずの折りたたみ傘がない。
犯人は十中八九、先ほどニヤニヤしながら「お先〜!」と帰っていった親友の美咲だろう。
「……はぁ。仕方ないな」
俺はカバンから、自分の折りたたみ傘を取り出した。
「駅まで入れてやるよ。俺のは少し小さいけど」
「……いいの? パパ」
「風邪ひかれたら困るからな。遥さんも心配するし」
俺が傘を開こうとした、その時だった。
「おやおやぁ〜? 外は雨でも、ここは随分と『熱気』があるようだねぇ……?」
背後から、鼓膜にへばりつくような粘っこい声が聞こえた。
俺の心臓がドキンと跳ねる。
(……達也!? いつからいた!? 今の『パパ』って呼ばれたの、聞かれてないよな……?)
恐る恐る振り返ると、そこにはクラスの妖怪……もとい、小野田 達也が立っていた。
「……なんだよ達也。まだ帰ってなかったのか」
「帰ろうとしたら、熱〜いカップルが見えたもんでねぇ。……湿気が多いと、二人の『愛の湿度』も上がっちゃうのかなぁ〜? んん?」
達也は俺の肩にヌラリと手を置き、耳元で囁く。
その目は笑っているが、奥が光っているようで怖い。……今の会話、どこまで聞かれたんだ?
「……相合傘、だろぉ? 狭い傘の中で肩と肩が触れ合って……まさに『密着』だなぁ? 羨ましいねぇ、聖次?」
「……お前、その粘っこい喋り方、雨のせいで倍増してないか?」
「ウケる〜! 達也、キモいよw」
校舎の陰から美咲も顔を出した。スマホのカメラをこちらに向けている。
「ま、邪魔者は退散しますか! じゃあね聖次、瑠奈! 『密着』楽しんでね〜!」
「……楽しんで来いよぉ、ダーリン」
二人は言いたいことだけ言うと、一つの傘(達也のド派手な柄の傘)に入って去っていった。
……ふぅ。とりあえず「パパ」呼びについて、今は突っ込まれなかった。助かった。
「……行くぞ、瑠奈」
「……うん」
俺たちは達也たちの煽りを背中に受けながら、雨の中へと踏み出した。
***
ババラバラバラ……!
雨脚は予想以上に強かった。
俺の持っている男性用の折りたたみ傘といえど、二人で入るには心許ないサイズだ。
俺は、内側を歩く瑠奈が濡れないように、傘を大きく彼女の方へ傾けた。
(……濡らすわけにはいかないな)
そのせいで、俺の左肩と左腕は、容赦なく雨に打たれてずぶ濡れになっていく。
だが、娘を守るためなら安いものだ。
そう思って歩いていると――。
グイッ。
不意に、右腕を強く引かれた。
次の瞬間、柔らかい感触が俺の二の腕に押し当てられる。
「……っ!? る、瑠奈!?」
「……濡れてんじゃん、バカ」
瑠奈が俺の腕を抱きかかえるようにして、身体を密着させてきた。
距離はゼロセンチ。
彼女のシャンプーの甘い香りが、雨の匂いと混ざって鼻腔をくすぐる。
「もっと寄ればいいでしょ。……傘、小さいんだから」
「い、いや、でも近いだろ……!」
「……うるさい。パパなんでしょ。ちゃんと娘を守りなさいよ」
彼女は顔を背けたまま、俺の腕を離そうとしない。
その耳がほんのりと赤いのは、湿度のせいだけではない気がした。
***
雨宿りも兼ねて、俺たちは途中にあるコンビニの軒先に逃げ込んだ。
俺はホットコーヒーを、瑠奈はアイスの冷凍庫から「チョコミント」を選んで買ってきた。
「……よく食えるな、こんな寒いのに」
「湿気でムシムシするし。……それに、糖分補給」
瑠奈はアイスのパッケージを開けながら、ふと思い出したように言った。
「……そういえばさ。クリスマスの時くれた手袋、新聞配達のバイトして買ってくれたんだよね?」
「ん? ああ、懐かしいな。朝早くてキツかったわ」
「……他にもバイト、してたことあんの? 中学の時とか」
何気ない問いかけ。
俺はコーヒーを啜りながら、記憶の底を探った。
「そうだな……中学生じゃあんまり雇ってくれないからな。……ああ、でも」
「なに?」
「今アイス食ってて思い出したけど、中3の夏休みに一回だけ、隣町のアイス屋で内緒でバイトさせてもらったことあったわ」
「へぇ〜。やってたんだ」
瑠奈は興味なさそうに返事をするが、アイスを持つ手がわずかに止まったような気がした。
「ああ。でも、すぐ辞めたんだけどな」
「なんで? つまんなくて?」
「いや、店長に怒られたんだよ。……ある土砂降りの日にさ、店の前でずぶ濡れになってる同い年ぐらいの子がいて」
俺は雨に煙る通りを見つめながら、苦笑いした。
「なんか放っておけなくて、俺のビニール傘を押し付けて帰ったんだよ。……おかげで俺が風邪ひいて休んだら、『体調管理がなってない!』ってめちゃくちゃ怒られてさ。クビ同然で辞めたんだ」
懐かしい失敗談だ。
顔も覚えていない、通りすがりの女の子。制服だったか私服だったかも曖昧だが、とにかく必死な顔で泣いていたことだけは覚えている。
俺が話している間、瑠奈は無言でアイスを見つめていた。
やがて、彼女は小さな声で呟いた。
「……ふーん。……お節介だね、昔から」
瑠奈はアイスの最後の一口を口に運びながら、興味なさそうに言った。
窓の外の雨をぼんやりと眺めている。その横顔からは、感情は読み取れない。
「全くだ。あの時の子、風邪ひいてなきゃいいけどな」
「……ま、元気なんじゃない? 知らんけど」
彼女はそっけなく答えると、空になったアイスのカップをゴミ箱に投げ入れた。
カラン、と乾いた音が響く。
「……ねえ、行くよ。雨、小降りになったし」
「おう」
彼女は何事もなかったかのように立ち上がった。
俺の昔話など、右から左へ聞き流したような態度だ。
***
再び一つの傘の下。
今度は俺から言うまでもなく、瑠奈は自然と俺の腕に身を寄せた。
「……アタシさ」
「ん?」
瑠奈が傘の柄を持つ俺の手に、自分の手を重ねてくる。
「……昔は雨、大っ嫌いだったけど。……今は、嫌いじゃないかも」
彼女の声は、雨音に消え入りそうなほど優しかった。
嫌いじゃない。
それは天気のことを言っているのか、それとも――。
「そうか? 俺は洗濯物が乾かないから嫌いだなぁ」
「……」
俺が現実的な返答をすると、瑠奈は深い深いため息をついた。
「……はぁ。ムードないわね、パパは」
「なんだよ」
「別に〜。……帰ったら、ずぶ濡れの左肩、拭いてあげるから」
彼女はそう言うと、俺の腕をさらに強く抱きしめた。
雨上がりの空。
雲の切れ間から差し込む夕日が、水たまりをキラキラと照らしている。
俺の鈍感さと、娘の小さな恋心が交差する帰り道。
それを物陰から見守る、二つのニヤニヤした視線(達也と美咲)があることには、俺はまだ気づいていなかった。
(続く)




