第27章:聖母の休日と、春色のリップスティック
3月25日。
詩織さんの卒業式と、T大合格発表。
この冬、我が家を覆っていた怒涛の「受験戦争」というイベントラッシュがついに過ぎ去り、橘家には久しぶりに穏やかな時間が流れていた。
だが、その平和なリビングで、我が家の太陽である遥さんが、なぜかクッションを抱いてしぼんでいた。
「……はぁ。みんな大きくなっちゃって……」
窓の外の桜を見つめるその背中は、どこか寂しげだ。
いわゆる「空の巣症候群」というやつだろうか。
詩織さんが無事に進路を決め、子育ての大きな山場を越えたことで、少しセンチメンタルになっているらしい。
「……遥さん」
「ん……? なぁに、聖次さん」
「着替えてください。出かけますよ」
「え? スーパーの買い出し? 冷蔵庫、まだ卵あったと思うけど……」
「違います。デートです」
俺がきっぱりと言うと、遥さんは目をパチクリさせた。
「今日は3月25日。遥さんの誕生日でしょう? 母親業は一時休業してもらって、今日は俺の恋人としてエスコートさせてください」
俺が手を差し出すと、遥さんの顔がみるみるうちに赤く染まり、そしてパァッと花が咲くように輝いた。
「……はいッ! 喜んで!」
***
俺たちが向かったのは、駅前の百貨店だった。
春物の服や雑貨が並ぶ華やかなフロアを、腕を組んで歩く。
遥さんは「あ、これ瑠奈に似合いそう!」「詩織の新生活用にこれどうかしら?」と、すぐに娘たちのものを見ようとする。
そのたびに俺は「今日は遥さんの日です」と、彼女の身体を強引に向き直させた。
「もう、聖次さんったら強引なんだから〜❤」
「遥さんがお母さん過ぎるんですよ」
俺たちはコスメ売り場のカウンターに立ち寄った。
煌びやかな化粧品が並ぶ中、俺は一本の口紅を手に取った。
淡い桜色。春の陽射しのような、明るく艶やかなピンクだ。
「……これ、試してみませんか?」
「えっ、私に? ……うーん、ちょっと派手じゃないかしら? もうアラサーだし……」
「何言ってるんですか。遥さんは誰よりも可愛いですから、絶対似合います」
俺が真顔で即答すると、美容部員のお姉さんが「ヒューヒュー」という顔でニヤついた。
遥さんは顔を真っ赤にして、おずおずとリップを塗ってもらった。
鏡の中の彼女は、いつもの家庭的な雰囲気とは違う、ドキッとするような大人の女性の顔をしていた。
「……どう、かな?」
「最高です。……春になったら、その色で俺とデートしてください」
「……聖次さん……」
俺はそのリップを購入し、プレゼントした。
母親としてではなく、一人の女性として。
遥さんはその小さな袋を宝物のように胸に抱きしめ、潤んだ瞳で俺を見つめた。
「……ありがとう。私、世界一幸せな誕生日だわ」
***
夕方。
二人で夕食(外食)を済ませて帰宅すると、リビングは真っ暗だった。
「あら? 詩織たち、出かけてるのかしら?」
遥さんが不思議そうに電気のスイッチを押した、その瞬間。
「「お誕生日、おめでとーーーーっ!!」」
パンッ! パンッ!
クラッカーの音と共に、詩織さんと瑠奈が飛び出してきた。
テーブルには、二人で用意したらしいケーキと、可愛らしいラッピングの大きな箱が置かれている。
「えっ!? えっ!? 二人とも!?」
「驚いた? ママ」
「聖次さんとのデートでお腹いっぱいだろうから、ケーキは小さめにしておきましたよ」
娘たちのサプライズに、遥さんは「うそぉ……いつの間にぃ……」と既に涙目だ。
瑠奈がニシシと笑い、その大きな箱を渡した。
「ほら、これアタシとお姉ちゃんから。開けてみて」
遥さんが震える手でリボンを解く。
中から出てきたのは――雲のようにふわふわとした、淡いピンクと白のボーダー柄のルームウェアだった。
肌触り抜群の、いわゆる「ジェラピケ風」のモコモコパジャマだ。
「わぁぁ……っ! すっごく可愛い……! 手触り最高……!」
「でしょ? 素材にはこだわったから」
詩織さんが眼鏡の位置を直しながら、少し照れくさそうに言った。
「……母さん。受験の間、夜遅くまで夜食を作ってくれたり、気を遣ってくれたり……本当にありがとうございました。これからは、このパジャマでゆっくり安眠してください」
労りの言葉。
遥さんは「詩織ぃぃ……っ!」と感極まって抱きつこうとするが、詩織さんは「まだ瑠奈の番です」と冷静にかわした。
瑠奈はニヤリと笑い、俺の方をチラリと見た。
「……あとさ。これ着て、たまには聖次のこと困らせてやってよ」
瑠奈はそう言うと、ニシシと悪戯っぽく笑った。
「……ママの武器は『天然』だけじゃないでしょ? せっかくの婚約期間なんだから、家の中でもドキドキさせてあげなよ。……ま、見てるこっちは複雑だけどさ」
その言葉に、遥さんはポッと頬を染め、それからとろけるような笑顔になった。
「……ふふ。じゃあ、早速着替えちゃおうかな〜♪」
***
数分後。
着替えを終えてリビングに戻ってきた遥さんの姿を見て、俺はソファから転げ落ちそうになった。
「……ど、どう? 聖次さん」
モコモコのパーカーとショートパンツ。
そこから伸びる白くて健康的な脚。フードを被り、少し上目遣いでこちらを見ている姿は、破壊力が桁違いだった。
昼間のリップ(大人の女性)とは対極にある、守りたくなるような愛らしさ。
「……似合いすぎて困ります。理性が」
「あら、嬉しい❤ 瑠奈の言った通り、困らせちゃうぞ〜♪」
遥さんが嬉々として俺の隣に座り、モコモコの腕を絡めてくる。
温かい。そして柔らかい。
詩織さんが「はぁ……目の毒です」と呆れ、瑠奈がヤレヤレと肩を竦める。
「うわー、ガチでイチャつき始めたよお二人さん…」
外では春一番の風が吹いていたが、俺たちの家の中は、春よりも温かい空気に包まれていた。
こうして、俺たち家族の新しい春は、甘いケーキとモコモコの感触と共に幕を開けたのだった。
(続く)




