第25章:サクラサク、春の嵐と二つの合格祝い
3月10日。
国立大学の合格発表当日。
外は春一番が吹き荒れ、庭の梅の木が花びらを散らしている。
午前10時。運命の刻。
橘家のリビングは、極限の緊張感に包まれていた。
「……うぅ……私が吐きそう……神様、仏様、ご先祖様ぁ……」
ソファーでクッションを抱きしめ、うわ言のように祈っているのは遥さんだ。
瑠奈はスマホをいじっているが、画面は真っ暗で、指先が小刻みに震えている。
そして、当事者の詩織さんは。
テーブルの前に座り、ノートパソコンの画面を凝視していた。
その左手は、隣に座る俺の服の袖を、ギュッと握りしめていた。
「……大丈夫ですか、詩織さん」
「……はい。不思議と、卒業式の時ほど怖くありません」
彼女は俺を見て、少しだけ口元を緩めた。
「聖次さんが、半分背負ってくれていますから」
「ええ。どっちの結果が出ても、俺が受け止めます。だから、いきましょう」
俺が彼女の右手に自分の手を重ねる。
彼女が小さく頷き、マウスをクリックした。
カチッ。
画面が切り替わる。
無機質な数字の羅列が表示される。
『法学部』の合格者一覧。
俺たちは食い入るように画面を見つめ、詩織さんの受験番号『2045』を探した。
2040……
2042……
2044……
ない。一瞬、心臓が跳ねる。
スクロールする手が汗ばむ。
……2045
「――あった」
俺の声と、詩織さんの息を呑む音が重なった。
そこには、間違いなく彼女の番号があった。
「……う、そ……」
「ある! あるわよ詩織ちゃん! 受かってるぅぅぅーーッ!!」
遥さんがバネのように飛び起き、詩織さんに抱きついた。
「よかった……! 本当によかったぁぁ……!」
「ぐえっ……母さん、苦しい……」
「すげーじゃんお姉ちゃん! マジで受かった! 超エリートじゃん!」
瑠奈も後ろから抱きつき、頭をぐしゃぐしゃに撫で回す。
詩織さんは、母と妹に押しつぶされながら、呆然と画面の数字を見つめていた。
そして、ゆっくりと俺を見た。
「……聖次、さん」
「おめでとう、詩織さん。……あなたの努力の結晶ですよ」
俺が微笑むと、彼女の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
彼女は眼鏡を外し、両手で顔を覆って泣いた。
「……よかった……父さんとの約束……守れました……ッ」
それは、彼女が何年も背負い続けてきた「黒澤」という重圧から、ようやく解放された瞬間の涙だった。
俺は彼女の背中を、何度も何度も優しく撫でた。
半分背負っていた荷物が、空へと昇華されていくのを感じながら。
***
その日の夜。
遥さんが腕によりをかけた「合格祝いフルコース」で、俺たちは盛大に祝杯を挙げた。
珍しく、詩織さんもよく笑い、よく食べた。
憑き物が落ちたように晴れやかな顔だ。
宴もたけなわとなり、片付けを終えた後。
俺は詩織さんに呼ばれ、夜風に当たるためにベランダに出た。
春の夜風はまだ少し冷たいが、どこか心地よい。
「……改めて、おめでとうございます」
「ふふ。今日だけで百回くらい言われました」
詩織さんはフェンスに肘をつき、夜空を見上げた。
「……聖次さん。私、これでやっとスタートラインに立てた気がします」
「スタートライン?」
「はい。『黒澤家の長女』としての義務を果たして……これからは、自分のために生きていいんだって、そう思えるんです」
彼女は振り返り、俺を真っ直ぐに見つめた。
眼鏡を外したその瞳は、街灯の光を受けて艶やかに潤んでいる。
ドキッとするほど大人びて見えた。
「……だから、聖次さん。……いえ、お父さん。一つお願いがあります」
「何でも言ってください。合格祝いですから」
「……今度のお休み、二人で買い物に付き合ってください」
彼女は少し恥ずかしそうに視線を逸らした。
「大学に行く服を……選びたいんです。私、制服とジャージばかりで、私服のセンスに自信がなくて……」
そして、上目遣いで俺を見る。
「……聖次さんのセンスで、私を……その、普通の『女の子』にしてください。……可愛く、してくれますか?」
その言葉は、娘としての甘えというよりは、一人の女性としての恥じらいに満ちていた。
俺は喉が鳴るのを誤魔化しながら、大きく頷いた。
「……任せてください。世界一可愛い女子大生にしますよ」
「……ふふ。期待していますね」
詩織さんは嬉しそうに微笑むと、春風に乗って俺の隣に並んだ。
その距離は、受験前よりもずっと近くなっていた。
サクラサク。
彼女の春は、俺たち家族の関係にも新しい風――少し甘くて危険な春風を連れてきたようだった。
(続く)




