第18章:放課後の教室、夕焼けと小悪魔
文化祭の喧騒が遠い過去になり、季節は冬の入り口に差し掛かっていた。
日が落ちるのが早くなった、12月の放課後。
教室には、日直の仕事を終えた俺と、それを待っていた瑠奈の二人だけが残っていた。
窓の外はすでに茜色に染まり、冷たい北風が窓枠をガタガタと揺らしている。
黒板には、担任が書いた『期末テストまであと〇日』という無粋な文字。
瑠奈がそれを背にして、机に浅く腰掛け、足をぶらつかせながら言った。
「……ねえ聖次。もうすぐ冬休みだね」
「そうだな。お前、今度は赤点取るなよ?」
「うるさいな。……そういうことじゃなくて」
瑠奈は俺から視線を逸らし、茜色に染まる窓の外を見た。
その横顔は、いつもの勝気なギャルの仮面が外れ、ひどく儚げに見えた。
「……最近、家の中、平和だよね。ママは幸せそうだし、お姉ちゃんも……なんか毒が抜けたっていうか」
「まあな。詩織さんも受験勉強でピリピリしてるけど、前みたいな『壁』はなくなった気がする」
「……うん。みんな幸せ。……完全に『家族』になろうとしてる」
瑠奈がギュッとスカートを握りしめた。
「……ねえ。このままあと一年ちょっと経ったら、アンタは本当の『パパ』になる。……ううん、もうなりかけてる」
彼女は焦ったように俺に歩み寄る。
「最近、お姉ちゃんもアンタのこと信頼しきってる。ママは相変わらずだし。……このままじゃ、アタシまで流されちゃう」
「瑠奈?」
「……アタシは嫌なの! このままなあなあで『娘』になんてなりたくない!」
彼女の手が伸びる。
俺のネクタイを乱暴に掴み、グイッと自分の方へ引き寄せた。
「うおっ!?」
「……ムカつく。アタシはずっと……」
彼女の言葉が、そこで途切れた。
何かを言いかけて、飲み込んだ。
その瞳は、泣き出しそうなほど潤んでいるのに、強い熱を帯びていた。
「……ずっと、アンタのこと……」
彼女の吐息がかかる距離。
甘い香水の匂いと、彼女自身の切ない匂いが俺を包む。
逃げようとする俺の首元を、彼女は離さない。
「……だから、これ。……目を覚まさせるための悪あがき」
「おい、やめろ……!」
俺が制止しようとするが、瑠奈は構わず瞳を閉じる。
濡れた唇が、ゆっくりと近づいてくる。
それは娘としての甘えではない。明確な、女としての接触。
拒絶すべきだ。父親として、叱るべきだ。
だが、彼女のあまりにも悲痛な表情に、俺の身体は金縛りにあったように動かなかった。
あと数ミリで触れる――その直前。
「……ぷっ」
小さな吹き出し音がして、俺にかかっていた圧力がふっと消えた。
恐る恐る目を開けると、至近距離にいた瑠奈が、顔を真っ赤にして固まっている俺を見て吹き出していた。
「……あはは! 顔、真っ赤! ヤバ!」
「……は……?」
瑠奈は俺からパッと離れると、お腹を抱えてケラケラと笑った。
さっきまでの悲痛な表情はどこへやら。そこには、いつもの小悪魔のような笑顔があった。
「なーにビビってんの? もしかして、期待しちゃった?」
「……お、お前……!」
思考が追いつかない。
からかわれた。その事実に気づいた瞬間、全身の血が逆流するような恥ずかしさに襲われた。
「す、するわけないだろ! お前なぁ、そういう冗談は心臓に悪いって言ってるだろ!」
「はいはい。……ほんと、アンタって『意気地なし(チキン)』だね」
瑠奈はつまらなそうに唇を尖らせると、机からカバンをひょいと持ち上げた。
「……そこは男らしく、ガバッといっちゃえばよかったのに」
「犯罪者になるわ!!」
「まだ『パパ』になったわけじゃないんだから、なんないよーだ」
彼女はそう言ってベーッと舌を出した。
今はまだ、ママの婚約者。籍は入れていない。
だから、ギリギリでまだ「他人」の領域にいる。彼女はそう主張したいようだった。
「さ、帰ろ。……今日はパパの奢りで肉まんね」
「……はいはい。分かったよ」
俺は深くため息をつき、乱れたネクタイを直してカバンを持った。
完全に手玉に取られた。
俺が教室の電気を消そうとスイッチに手を伸ばした、その時だった。
ドアの前で待っていた瑠奈が、ふと足を止めた。
夕焼けの逆光で、彼女の表情は見えない。
「……ねえ、聖次」
「ん?」
彼女は振り返らず、背中を向けたまま、静かに呟いた。
「……今の、冗談だと思ってるでしょ」
さっきまでの茶化すような声ではない。
低く、熱を帯びた声色が、静寂な教室に響いた。
「……え?」
「今は、意気地なしのパパに合わせて止めてあげたけど」
彼女がゆっくりと振り返る。
茜色の光の中で、彼女の瞳だけが、獲物を狙う肉食獣のように妖しく光っていた。
「……続き。卒業までに絶対奪うから」
「――――ッ」
心臓が、早鐘を打った。
それは明確な宣戦布告だった。
娘としての甘えでも、小悪魔な悪戯でもない。一人の女としての、譲れない決意。
「……覚悟しといてね。パパ」
彼女は一瞬だけ、ゾクリとするほど艶やかな笑みを浮かべると、今度こそ教室を出て行った。
廊下に響くローファーの足音が遠ざかっていく。
俺はスイッチに手をかけたまま、しばらく動くことができなかった。
ただの悪戯だと笑い飛ばすには、最後の彼女の瞳は、あまりにも真剣すぎたからだ。
(続く)




