第9章:お盆直前、蝉時雨と二つの誓い
8月中旬頃。お盆直前。
俺たちは、郊外にある緑豊かな霊園を訪れていた。
遥さんの運転する車から降りた瞬間、肌にまとわりつくような湿った熱気と、耳をつんざくような蝉時雨が降ってきた。
俺たちが向かったのは、『黒澤家』の墓だ。
詩織さんが頑なに守り続けてきた、亡き実父の眠る場所。
並ぶ墓石の中で、そこだけが少し他とは違う空気を纏っているように見えた。それはきっと、彼女が月命日のたびに通い、手入れをしているからだろう。
俺は手桶に水を汲み、柄杓とスポンジを手にした。
「……聖次さん、私がやりますから」
「いいえ。俺にやらせてください。初めてのご挨拶ですから、顔を覚えてもらわないと」
俺はそう言って、墓石に水をかけ、丁寧にスポンジで磨き始めた。
苔一つない綺麗な墓石だ。詩織さんがどれだけこの場所を、そして父親を大切にしているかが指先から伝わってくる。
俺は、彼女が大切にしているものを、同じように大切にしたかった。
横目でチラリと見ると、詩織さんがその様子をじっと見つめていた。
眼鏡の奥の瞳が、少しだけ揺れているように見えた。
掃除を終え、花を手向ける。
遥さんが、震える手で線香に火をつけた。
「……あなた。来たわよ」
彼女の声は優しかった。
かつて俺に語ったような「名前を見るだけで息ができなくなる恐怖」は、もう感じられない。隣に立つ俺の手を、彼女がそっと握る。その掌の温もりが、彼女の平穏を伝えていた。
「……紹介するわ。この人が、聖次さん。……私たちが選んだ、新しい家族よ」
遥さんが俺を紹介する。
俺は墓前に進み出て、深く頭を下げた。
「はじめまして。雨宮 聖次と申します」
写真の中で優しげに笑う男性に、心の中で語りかける。
(……突然、こんな若造が娘さんたちの父親になるなんて、心配だと思います。怒って当然だと思います)
俺は顔を上げ、墓石を真っ直ぐに見据えた。
(でも、俺は本気です。娘さんたちは、俺が必ず守ります。遥さんのことも、一生かけて幸せにします。
いつか彼女たちが嫁に行くその日に、胸を張って『おめでとう』と言える父親になりたい。そのために、俺の人生を全部使います。
……どうか、見守っていてください)
風が吹き抜け、木々がザワザワと揺れた。
蝉の声が一瞬だけ遠のき、まるで「頼んだぞ」と言われた気がした。
次に、瑠奈が進み出る。
いつもの派手なギャルメイクではなく、今日は少し薄化粧で、髪も後ろで束ねている。
「パパ、久しぶり。……アタシね、今度大学受けることにした。服飾の学校。……ママも元気だし、お姉ちゃんも相変わらず真面目すぎだし。……だから、心配しないで」
彼女は短くそう告げると、少し照れくさそうに俺の隣に戻ってきた。
そして、小声で「……ちゃんと拝みなさいよ」と俺の脇腹をつつく。彼女なりの照れ隠しだ。
そして最後に、詩織さんが進み出た。
彼女は長い時間、合掌したまま動かなかった。
その背中は、相変わらず細く、けれど張り詰めた糸のような緊張感があった。
「……お父さん」
長い沈黙の後、彼女の呟きが静寂に溶ける。
「私はまだ、『黒澤』の家長として未熟です。父さんの代わりにはなれていないかもしれない。……でも、もう少しだけ、ここで頑張ってみようと思います」
それは、弱音ではなく決意の報告だった。
だが、その声色は以前よりも柔らかい。
「……それと、一つ報告があります」
詩織さんが振り返り、俺を見た。
逆光の中で、彼女の表情はよく見えない。けれど、その声ははっきりと届いた。
「……頼りないですけど、悪い人じゃありません。……ご飯も美味しいし、少しお節介焼きですけど」
「……詩織さん?」
「……お父さん。私、この人を……家族として、信じてみようと思います」
彼女は墓石に向かって、深々と頭を下げた。
それは「荷物を降ろす」宣言ではない。まだ彼女は黒澤を背負うつもりだ。
けれど、「一人で戦わなくてもいいかもしれない」という、雪解けのような変化だった。
帰り道。
駐車場の車に向かう砂利道で、詩織さんが俺の横に並んだ。
「……聖次さん」
「はい」
「……お墓、綺麗にしてくれてありがとうございました。父も、喜んでいると思います」
彼女はそう言って、小さく、けれど自然に微笑んだ。
それは生徒会長としての「作った笑顔」ではなく、年相応の少女のあどけない表情だった。
俺はその笑顔を見て、改めて心に誓う。
いつか彼女が、その背負っている重すぎる荷物を俺に預けてくれるその日まで。
俺は彼女のそばで、雨宿りの場所を作り続けよう、と。
「さあ、帰ったら瑠奈の宿題の続きよ」
「ええーっ!? お盆くらい休ませてよお姉ちゃ〜ん!」
「ダメです。受験生に盆も正月もありません」
詩織さんがいつもの調子で眼鏡をかけ直し、瑠奈の首根っこを掴む。
その光景を、遥さんが微笑ましそうに見守っている。
俺の誓いは、きっと果たせる。そう信じられる、夏の一日だった。
(続く)




