第1章江戸へ
この物語の主人公である米田信次郎は、はっきり言えばどこにでもいる26歳のごくごく普通の青年であり、会社員である。
ある日、何時もと同じ様に会社に向かっていた電車の中で、いつもなら感じるはずもない強烈な眠気に襲われた。目が覚めるとそこは、乗っていた電車の中ではなく、草むらの中であった。
何故自分の知らぬ間にこんな所にいるのか信次郎は不思議で仕方なかった。10分程うろちょろしてみたが、何もない。どうすれば良いかを考え様と持っていたタバコに火を付けた瞬間であった。
「おぃ!そこで何をしている?」
それは目を疑う様な人物が発した声であった。その男が信次郎の視界に入って来た。信次郎は時代劇の撮影でもしているのかとそう思わざるを得なかったが、質問に答えた。
「あの?よく分からないですが、いつの間にか気が付くとここにいたもので。自分でも理解しがたい訳の分からない状況なんです。」
「ほう。異国の者ではない様だのう。お主名は?」
「米田信次郎と申します。」
「そうか。私は江戸城で剣術師範をしている、古好七三吉と申す。以後お見知りおきを。」
「あなたは時代劇の撮影でもしているのですか?」
「何を訳の分からぬ事を言うのか?徳川泰平の世と言えど気を抜いてはならぬぞ?」
信次郎にはさっぱり訳が分からなかった。これでは埒が空かないので、七三吉の屋敷に連れて行って貰う事になった。
「お邪魔しま…す。」
「信次郎?貴様エゲレスやメリケン人の様な格好をしているのう?」
「僕達の世界ではこれが当たり前何ですがね?」
「ところで何故あの様な草むらの中で?」
「まさかとは思いますが、僕はタイムスリップをして来たのかもしれません。」
「そのタイムスリップとやらは何だ?」
信次郎は詳しく分かりやすい様に七三吉に説明をした。
「あのぉ…無粋な質問で申し訳無いのですが、今の徳川将軍は何と言うのでしょうか?」
「8代将軍吉宗様の時代だ。」
信次郎はそれを聞いて自分がタイムスリップしてしまった事を悟る。この日は夜も遅かったので、このまま七三吉の世話になる事にした。
翌日、またスーツを着て行こうとした信次郎に七三吉が持っていた装束を貸してくれた。
「その格好では目立ち過ぎる。」
七三吉が親切な男であるのは間違い無かった。行く宛も無い自分を家の手伝いをしていれば、いつまでも居て良いと言われた信次郎は嬉しかったが、一刻も早く元の時代に戻りたかった。着慣れない装束で腰に脇差しをさして重たい刀を持ち、信次郎は時代劇顔負けの装いで江戸の町に繰り出した。そこに待っていたのは、間違い無く現実感のある江戸の人々の生活感溢れる町並みであった。