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猫とチーズと百円玉

作者: 鳥羽風来

 吾輩は猫であり、名前は知らない。

 吾輩が他の猫にない特殊な能力があると知ったのは、三歳のときである。


 生まれてからそれまで、人間の家で暮らしていた。その人間を吾輩は「ご主人様」と呼んでいた。ご主人様は、吾輩に名前を付けていたのかも知れない。しかし、いつも「おい」とか「ほれ」と呼び掛けられて、名前を呼ばれた記憶はない。鈴が付いた首輪を付けてくれ、大層かわいがってくれた。はじめは、母猫や兄弟の猫が一緒にいた気がするが、いつの間にかいなくなっていた。ほかの家に貰われていったのかもしれない。

 ご主人様は、一戸建ての家に一人で住んでいた。朝早く出かけて、夜遅く帰って来る日が多かった。出かけるとき、吾輩は必ず玄関先まで付いて行った。ご主人様は、吾輩の食事をいったん靴箱の上に置き、玄関の扉を開けて、吾輩の顔をじっと見て聞いてくれたのだ。

「今日はどうするか?」

 夏の暑い日などは特に、家の中に籠っているのは嫌だから、扉の外に駆け出していた。そうすると、ご主人様は玄関に外から鍵をかけて、吾輩の食事を庭先において出かけていった。食事のトレイには、ミルクとソーセージ、それにキャットフードと呼ばれている肉の味がするクッキーのような食べ物が、いつも置かれていた。吾輩は、この食事をまず平らげてから、散歩に行くようにしていた。以前、昼ごろに庭先に戻って来たら、何処か他の猫に、容赦なく全て食べられていたことがあったからだ。

 ご主人様が帰ってくると、部屋の灯りがともる。吾輩が外にいるときは、いつも掃き出し窓を少し開けておいてくれたから、吾輩はそこから家に入れた。

 冬の寒い日は、ご主人様が出かけるときに、家の中に逆もどりした。全身に自慢の毛が生えているとはいえ、家の中にいるほうが暖かいからだ。そうすると、ご主人様は吾輩の食事を廊下の床に置き、玄関の鍵を閉めて出ていった。特に雪の降る寒い日は、暖かいこたつで丸くなっていたかった。しかし、ご主人様はいつも、こたつのコンセントを抜いて出かけて行った。仕方がないから、毛布を引っ張って来て、こたつの近くで蹲っていた。ご主人様のことは大好きだったが、ここだけは不満を言いたかったところだ。


 吾輩は、なぜ自分のことを「吾輩」と言うのか。それは、ご主人様がそうしていたから、真似たのである。人間が自分のことを吾輩と呼ぶのは、この時代にとても珍しいことだったのだと、後ほど知ることになるが、この時はまだ疑問にも思わなかった。「吾輩は猫である」というフレーズで始まる有名な小説があることから、影響を受けたらしい。吾輩は猫であるから、自己紹介すると自動的にこのフレーズと同じになる。それで一寸気に入って、積極的にこの自己紹介を使っている。


 吾輩が三歳になったばかりのある日、ご主人様は帰って来なかった。

 直視できない目映い日光、輪唱する蝉の声、汗の匂い、ぬるくなったミルクの生々しい味、掻きむしりたい虫さされ、そんな感覚と共にあの日のことは印象に残っている。吾輩は夜遅くまで、庭先で部屋の電気が灯るのを待っていた。そのまま、眠りについて、気付いたら朝になっていた。同じことをそれから何日か繰り返した。食事は自分で調達した。道を覚えるのは得意でないから、遠くへは行けなかった。どぶ川でネズミを捕ったり、寿司屋の裏口のゴミ袋を破いて、魚の残身を頂いたりした。しかし、十分な量ではなかったので、長い間お腹を空かせていた。

 十日経っても、ご主人様は帰って来なかった。もうご主人様に会えないかも知れない悲しさと、これから野良猫として生きて行かねばならない現実に涙を浮かべていると、家の床下の方から、何かの鳴き声がした。声のした方を覗いてみると、ネズミが四匹群がっていた。


 そういえば、ご主人様が最初に帰って来なかったあの日、いつもと違うことがあった。一つ目は、吾輩の食事に、いつものメニューに加えて、三角柱の形をした大きなチーズが置いてあったこと。もう一つは、玄関先に百円玉のぎっしり詰まった巾着袋が落ちていたことだ。チーズを吾輩は食べないから、横に放り投げておいたのだが、そこにネズミが群がっていたのだ。巾着袋は見覚えがあった。いつもテレビの横に置いてあり、ご主人様が時々、百円玉をいれていたものだ。ご主人様がいなくなったことと、何か関係があったのだろうかと考えたが、その時は何も分からなかった。


 吾輩は、安定した食料を求めて、旅に出ることにした。幸運なことに巾着袋は玄関先に落ちたままだったので、ご主人様の匂いの付いたこれを咥えていくことにした。重くて顎が外れそうになったときは、少し休んでから進んで行った。

 道中で至るところに猫はいたが、食べ物の場所はなかなか教えてもらえなかった。皆、自分の取り分が少なくなるのが、嫌だったのだろう。野良の世界はサバイバルだと思った。

 美味しそうな匂いを辿って民家の庭に入り、おそらくペット用に用意されたご飯を、気付いたら全部食べていたこともあった。我に返ってすぐに逃げ出した。きっとこの家の猫は、容赦なく自分のご飯を食べられたと思って、歯がゆい思いをしただろう。

 焼き魚の匂いがして、開けてあった窓から入り、夢中で頂いたこともあった。久しぶりのごちそうで、美味しいと思った瞬間に、包丁を持った人間が吾輩を狙っているのに気付いた。魚を咥えたまま急いで逃げたら、本気で追いかけて来たので、あの時は殺されるかと思った。

 その様な感じで、我を忘れて行動した時もあったが、巾着袋は無事だった。隠しておいた場所に無事に戻れたり、通ったはずの道を後戻りして探したら見つかったり、全く運が良かったとしか言いようがない。


 ご主人様の家からは遠く遠く離れ、もう自力では戻れない所まで来た。どこかの商店街を歩いていると、人間が近付くと勝手に開くドアがたくさんあった。しばらく様子を見ていると、あるドアからは袋に入った食べ物を持って人間が出てくるようだった。吾輩は、思い切ってドアが開いたときに中に入ってみた。色々なものがあった。ソーセージや肉やチーズもあった。

「猫が入って来た。外に出せ」

 そんな言葉が聞こえたので、急いで棚に横付けされた段ボール箱の陰に隠れてやり過ごした。このまま、肉やチーズを咥えて逃げ出せば、食料が手に入るかもしれないが、包丁を持って追いかけられるかもしれない。なので、しばらく様子を見ていた。どうやら、人間たちは、あのピッピッと音がするカウンターの辺りで、食料とお金を交換しているらしかった。お金なら持っている。巾着袋の百円玉だ。

 そこで、百円玉を一枚取って来て、チーズと一緒にカウンターに置いてみた。

「なに、あんた。このチーズがほしいの?」

 その通りだと返事をすると、人間が何人か寄って来た。

「珍しい猫だ。捕まえて売り飛ばそう」

 吾輩は驚いて、カウンターに置いた百円玉とチーズにお尻を向けて逃げ出した。


旅立って野良になった後は、生きるために情報が必要で、冷たくあしらわれ続けても、かなり多くの猫と会話をした。ほとんどが、野良猫だった。そんな中で吾輩は、他の猫は人間の言葉を理解できないということを知った。つまり吾輩には、普通の猫にはできない「人間の話す内容を理解出来る」という、特殊な能力が備わっていたのだ。雰囲気から察するのでなく、完全に日本語を理解出来るのだ。生まれたときから、ご主人様や近所の人間の言葉を聞いていたからなのかもしれない。この能力は、身の危険を避けるために結構役立った。危ないことを言われたら、すぐに逃げることが出来たからだ。


人間にも色んな種類がいるようだ。別のところで、チーズと百円玉を出すと「かわいい」と言って、チーズを譲ってくれた。吾輩はその近くに根城(ねじろ)を構え、同じところに通って、同じようにした。しばらくチーズが入手でき、吾輩は安定して食料を得られた。大きなカメラを持った人間が、吾輩を映して取材をしていった。食料が手に入ればよいので、特に抵抗したり、逃げ出したりしなかった。

やがて、その店で肉やねこまんまを用意してくれるようになった。吾輩は、その店に居付くようになった。


その店には、次々とお客がやって来た。営業時間中に、レジカウンターの裏に飾ってある、小判を持った招き猫の横に、吾輩は座っていることが多かった。お客は吾輩の方を見て、指差したり、ニッコリしたり、写真を撮ったりしていた。

同じような日々が二ヶ月ほど続いたとき、知った顔の客が店に入ってきた。その客はじっと吾輩を見つめていた。吾輩もじっとその客を見つめて、カウンターから飛び出した。

その客、つまりご主人様は、懐に飛び込んでいった吾輩を強く抱きしめてくれた。

「お前が無事でよかった。テレビや新聞でお前のことを特集していたから、見つけられた。あのときは交通事故で人をはねてしまい、しばらく帰って来られなかった。すまなかった。お前をすぐにでも連れて帰りたいが、この店で大切にしてもらっているところを連れ帰って良いものか迷っている。今日は帰るけど、また様子を見に来るよ」


 吾輩もどうしてよいか分からない。大好きなご主人様のところに戻りたい気持ちもあるが、ずっと良くしてもらい、この店の人間たちも大好きになった。離れるのはつらい。どう行動するにしても苦しいのだ。


こんな事にならないように、強い絆で結ばれていようとも、大切な家族は可能な限り、ずっと一緒にいるべきものなのだと思う。

 横にいる招き猫を見て思う。「猫に小判」ということわざは、商売繁盛という意味だっただろうか。


 ご主人様は約束どおり、ちょくちょく店に来てくれる。あの日の食事のチーズと、巾着袋が落ちていた理由を聞きたい。しかし、吾輩からご主人様への言葉は伝わらない。ニャーとでも聞こえるらしく、首を傾げられるばかりだ。


(了)


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