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魂売りのレオ  作者: 休止中
第十話
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呪術師ライブラ 一

 どんなに仲のいい夫婦でも、これだけは許せないということがひとつくらいあるものです。愛していようが関係ありません。ひとはだれしも自分だけの感覚を持っていて、そう簡単に曲げることなどできないのです。

 だからいやなことはキッパリ言いましょう。言わずに我慢していると、それがどんどんストレスになって、ある日突然爆発してしまいます。お互い気に入らないことはどんどん言って、そのたびにケンカすればいいのです。ケンカするほど仲がいいとはそういうことなのです。

 しかしだれもが好き放題言えるかというと、そうではありません。どうしても文句を言えないタイプのひとがいます。とくに女性に多いようです。

 世の男性諸兄(しょけい)はもう少し細君(さいくん)を気遣ってあげましょう。細い君と書くぐらいですから、とてもか弱いのです。でないといつか痛い目を見るかもしれませんよ。

第十話 呪術師ライブラ




 もし人生最良の日があるとしたら、それは今日だろう。


 ぼくは先日レオとケンカをした。

 ケンカっていうと語弊があるかな。

 ぼくはちょっとした過ちを犯し、レオにきらわれてしまった。


 原因はどっちにあるんだろう。

 レオがぼくにいたずらを仕掛けて、その結果ぼくはレオのいやがることをしたっていう感じだから、結局は向こうが悪いように思える。


 でもぼくは必死に謝った。

 どっちが悪いかなんて関係ない。

 愛するレオにきらわれるのだけは耐えられなかった。


 だからひたすら頭を下げ続けた。

 そのたびにレオはぼくを無視し、ちょっと涙が出たりしたけど、それでも食らいついた。


 するとあるとき、レオがこう言った。


「もう二度としないと誓うか?」


 当然ぼくはうなずいたよ。

 レオと仲直りするためならなんだってするもの。


 でも次にこう言われて困ってしまった。


「なら、わたしが今日一日履いた下着をずっと手に持って、いちどもにおいをかがずにいられるか?」


 それは恐ろしく難しい問題だった。

 だって、”それ”はどんな宝石よりも価値があり、どんな誘惑よりも欲望を刺激する。


 でもここでうなずかないわけにはいかない。

 ぼくは腹をくくって「もちろん」と言った。


 するとレオはその場で下着を脱ぎ、ぼくに渡した。

 ほかほかだった。


 そして、言った。


「明日のこの時間までずっと持っていろ。決してにおいをかぐんじゃないぞ」


 それからぼくの地獄がはじまった。


 (なが)かった。一分が永遠に感じられた。


 ぼくの傍には常にだれかしらの監視がつき、トイレはもちろん、着替えのときまで見張られた。


 でも恥ずかしいなんて考える余裕はなかった。

 だって、顔に近づけなくてもうっすらにおうんだ。

 握っている手にもにおいが移っている。


 かぎたくてしょうがない。


 もしずっと空腹の状態で目の前にごちそうを並べられ、一切食べちゃダメって言われたらどう思う?


 ふつうは気が狂う。

 正気でなんかいられない。

 ぼくのように常にこころを鍛えている騎士だからなんとかなったけど、ほかのひとなら間違いなく耐えられなかっただろう。


 でもがんばったおかげでレオは許してくれた。

 そして、


「信じてたぞ。愛してる」


 そう言って抱きしめてくれた。

 それからやっとぼくらはいつものように笑い合い、愛し合い、元の鞘に戻った。


 そんなレオが昨日こんなことを言った。


「そういえばおまえ、誕生日はいつだ?」


 ぼくは少し前に過ぎたと答えた。

 すると、


「実は、おまえにプレゼントをしたいと思ってな……」


 レオはバツが悪そうに言った。


「いやな、今回わたしはおまえを突っぱねたが、考えてみればわたしにも多少非がある。それなのに一方的に無視して、おまえだけを悪者にして、少し申し訳なく思ってな……それで……その、それでだ……お、おまえの誕生日にだけ、その、おまえの望みを叶えてやってもいいかな……と、思ったんだ……」


 ぼくの望み?

 そんなの簡単さ。レオとずうっといっしょにいることだよ。ほかはなんにもいらないよ。


「いや、そうじゃなくてな……本当はいやなんだが……お、おまえがそこまで望むのなら、年にいちどくらいは、その……に、においをかがせてやってもいいと思ってな……」


「えっ!?」


「か、勘違いするなよ! わたしはいやなんだ! ただ……愛するおまえの望みも叶えてやりたい……」


 それを聞いた途端、ぼくは昼間だというのにがっつり(たかぶ)ってしまった。

 高潔な騎士であることを忘れ、盛った野良犬みたいにレオに抱きついた。


「ば、バカ! いまじゃない! わたしは昨日二度も風呂に入っただろう!」


「あ、ご、ごめん……」


「まったく、ふだんは騎士道とやらを振りかざすくせに……いいか、明日だ。明日の夜、ひと晩だけおまえの望みを叶えてやる。本来なら毎日風呂に入らんと垢が溜まって、それだけでもいやなんだ。感謝しろよ」


「うん! ありがとうレオ!」


「フン……調子のいいヤツめ」


 そうしてレオは昨日お風呂に入らなかった。

 しかも翌日の今日、レオはぼくをよろこばせるために一日運動して汗をかいてくれた。

 ふだん運動なんかしないレオがだ。

 ぼくはそれを見ているだけでうれしくて涙が出そうだった。


 そんなこんなで夜が来た。


 ぼくは手洗いや歯みがきを済ませ、寝室の扉を静かに開けた。

 踊るような気持ちだが、あくまで平静をよそおっていた。

 そうして部屋に入った。


 瞬間、むわっと汗のにおいがした。


 つんとしたにおいがこもり、空気が薄く色づいているようだった。


「き、来たか……」


 レオはベッドの真ん中で固く座っていた。

 昼間運動するときに着ていたピチピチのトレーニングウェアを身につけている。

 汗をたっぷり吸った、洗濯必須の刺激物だ。


 部屋を閉じていたからにおいがこもったのだろう。

 ぼくらは三、四メートルは離れていたが、ここからでも彼女の秘めた魅力が強烈に感じられた。


「に、におうだろう……」


 レオはふだん見せないような弱々しい態度を見せた。

 視線をぼくと合わせずもじもじしている。

 顔は塗料を塗ったように真っ赤だ。


 あの高飛車なレオがこんな女々しい姿をしている。

 それだけでも十分過ぎる刺激だった。


「うん、少し……」


 ぼくがそう答えると、レオは顔を手で覆い、


「はあぁ……」


 と本当に恥ずかしそうに声を漏らした。

 ぼくはもう堪らなかった。


 その、顔を隠す手の指の隙間から、不安におびえる目がぼくを覗いた。


「は、はやくかげ……はやくはじめろ……わたしからは無理だ」


 途端、ぼくはケダモノになった。

 正気を失い、四つ足でベッドに飛び乗った。


 いまのレオは獲物だ。

 ぼくは狼で、レオは子猫だ。

 最高のごちそうが目の前で縮こまっている。


 ぼくは火よりも熱い呼吸でにじり寄った。

 すると、


「や……」


 とレオの身が華奢な少女のように後じさった。


 それが着火点だった。


 ぼくは飛びかかり、レオを押し倒した。

 彼女の両腕を広げ、顔を隠すこともできなくさせた。


 その脇の部分に、汗の染みた跡がある。

 その事実だけでぼくは達してしまいそうだった。


 レオはぼくから逃げるように顔をそむけ、ぎゅっと目をつぶったまま、崩れた声で、


「す、好きにしろ……バカ……」


「れ、レオ!」


 ぼくはもはや自分が人間であることさえ忘れた。


 そしてこの世で最もすばらしい脇汗に顔を突っ込もうとした。


 そのとき——


「にゃあ」


 ドアの方から猫の鳴き声が聞こえた。


「にゃあ」


 カリカリ、カリカリ。

 扉の向こうからなにかが爪で引っ掻いている。


「なに……?」


 レオが片目を開けた。そして、


「それはいかん。いますぐ行かねば」


 そう言って起き上がった。


 ぼくは全身から血の気が引いた。

 だって、部屋の外にいるのは黒猫のシェルタンだ。


 不思議なことにレオはシェルタンと会話することができる。

 そしてシェルタンがレオを呼ぶのはたいがい客が来たときだ。


 とすると……


「ま、まさか……」


「どうやら客が来たようだ。急いで垢を落とさねば」


「ちょっと待ってよ!」


 ぼくは咄嗟にレオの肩をつかんだ。


「そんな……だって、無理だよ!」


「離せ。なにが無理なんだ」


「だって、だって、こんなの我慢できないよ!」


「しょうがないだろう。客なんだから」


「そんな、お願い行かないで! 客なんか放っといてぼくといて!」


「バカを言うな。客が来て金を落とすから我々は食っていけるんだぞ」


「こんな遅い時間に来るなんてろくでもないヤツに決まってるよ!」


「そんなわけないだろう。ひとそれぞれ事情があるんだ。わかったら手を離せ」


「やだ!」


 ぼくはレオにしがみつき、わあわあ泣いた。

 みっともないとか考える余裕なんてなかった。


「やだー! 行かないでー!」


「ば、バカ! またあとでやってやるから早く離せ!」


「いやだ! いまがいい!」


「わがまま言うんじゃない!」


「お願い! お願いだから!」


「ああもう、いいかげんにしろ!」


 レオはぼくを蹴倒し、ベッドから降りた。

 そしてクローゼットで着替えを選びながら言った。


「シェルタン、どうせデネボラが起きてるだろう。わたしは準備するから客の相手をするよう伝えてくれ」


 するとシェルタンは、


「にゃあ」


 と、ひと声鳴いて、どうやらデネボラの部屋へと向かった。


「さ、アーサー。おまえも来るならさっさと着替えろ。わたしは風呂場に行ってくる」


 そう言ってレオは部屋を出て行こうとした。


 だけどぼくは耐えられなかった。

 ドアノブに手を置く彼女のうしろ姿を見ると、世界の果てにひとり置いていかれるような悲しみが込み上げ、ほろり涙がこぼれた。


 ぼくは永劫(えいごう)の別れにも似たさびしさに打ちひしがれ、震える声で叫んだ。


「ぼくのこと愛してないの!?」


「はあ!?」


 レオはトンチンカンを見る顔で振り返り、


「なにを言ってるんだ。愛しているに決まっているだろう」


「じゃあなんで行くのさ! なんでぼくより仕事を選ぶのさ! ぼくと仕事どっちが大事なの!?」


「な、なにをバカな……おまえに決まってるだろう」


「じゃあ行かないでよ! ここにいてよー!」


 レオは、


「はあ〜〜」


 と深いため息を吐き、頭を抱えてゆるく振った。

 そして、


「とにかく行くぞ」


 と言って部屋を出て行ってしまった。


 ああ、そんな……


 レオ……レオ…………ううう〜〜!

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