だらしない女 六
まったく、今日は疲れたよ。
ぼくとデネボラはムチに打たれて追い立てられて、一日中体を動かしていた。
しかしデネボラの怠けは一流だよ。
だって、寝ながら足を持ち上げる運動をふたり並んでしていたら、途中から、
「すぅー、すぅー」
と寝息が聞こえてきて、見たら動きながら眠ってるんだもの。
レオにムチで十回以上引っ叩かれてやっと、
「ふぁ、寝てませぇん!」
っていうんだからすごいよ。
それで怒られて、言い訳が、
「だってぇ、お昼寝してないからぁ」
だってさ。堂に入ってるよ。
そんなこんなで陽が沈み、やっとレオは、
「もういいでしょう」
と言ってぼくらを解放してくれた。
途端にぼくらは崩れ落ち、汗まみれの体を地面に横たえた。
「よくがんばったわね。ふたりとも偉いわ。そんなに汚れて汗かいて、デネボラちゃん、先にお風呂入ってきなさい」
「はぁい」
どうやらお風呂の用意があるらしい。
デネボラはふらふらよろつきながら風呂小屋へと歩いて行った。
「パパはママといっしょにね。体洗ってあげるわ」
「うれしいなあ、ありがとう」
「ふふふ……お夕飯前にもう少しだけ運動しちゃうかもしれないわね」
ぼくらがそんなことを話していると、
「あ……」
デネボラが立ち止まり、声を漏らした。
「どうしたの、デネボラちゃん」
「ご、ごはんの用意……」
「あっ!」
レオの肩が跳ね上がり、メガネがスッ飛んだ。
そう、食事はいつもデネボラが用意している。
彼女がいないときはそれなりに準備するが、基本はすべてデネボラに任せている。
そのデネボラを夢中で叱咤していたのだから、用意などあるはずがない。
「しまった! デネボラ、いますぐメシを作れ! 風呂なんかあとだ!」
緊急事態で素に戻ったレオは、ドバッと顔から汗を吹き出し、いつもの口調でまくしたてた。
「そんなぁ、もうくたくたですよぉ」
「いいから作れ! おまえの仕事だろう!」
「やだぁ〜」
レオはパニックになっていた。
なにせレオは食事と衣類には金をかけるだけあって、その二点にはかなりの執着がある。
朝昼ならともかく、夕食に未調理のものを食べるのはレオのプライドが許さない。
「くそっ、わたしとしたことが……! どうすればいいんだ!」
レオは地面にひざをつき、慟哭にも似た声を上げた。
しかしぼくはなんの心配もしてなかった。
「大丈夫だよ」
「えっ?」
「こんなこともあろうかと……ってわけじゃないけど、実はレグルスに夕食を頼んであるんだ」
「ほ、本当か!?」
「うん」
レオはふるふると目をうるわせて立ち上がり、
「あ、アーサー……おまえってヤツは」
そう言ってぼくに抱きつき、
「愛してるぞ! アーサー!」
「ママ、アーサーじゃなくてパパでしょ?」
「ああ、そうだった。じゃない、そうよね、パパ!」
「じゃあわたしごはんの心配しなくていいんですかぁ?」
デネボラに訊かれ、ぼくはやさしく答えた。
「うん、大丈夫だよ。お風呂入っておいで。パパもそのあと入るから、そうしたらみんなでごはんにしよう。きっとご馳走だよ」
「はぁい!」
というわけでぼくらはお風呂に入り、食堂へと向かった。
食堂はキッチンの隣にある。
ひとり部屋の倍ほどの大きさで、部屋の真ん中にずでんと長方形のテーブルが置かれ、壁にはさまざまな料理や果物の絵画が飾られている。
レオの父親の芸術趣味だ。
その絵はどれも色彩あざやかで、壁や天井に設置された多数のランプに火を入れると、パアッと明るくなった部屋をより明るく、よりたのしく演出してくれる。
応接間にも絵はあったが、部屋ごとに色合いが違うのを見るに、レオの父親はこだわりのあるひとだったと思う。
ぼくらは食堂に入るなり、
「わあ」
と目を見張った。
テーブルの上には鳥の丸のローストチキンがどんと置かれ、それぞれの席にサラダやコーンスープ、白身魚のムニエルやソーセージが並んでいた。
ひとりあたり二、三人前ある。
「まあ、鳥の丸なんてひさしぶりだわ!」
レオは目を丸くし、口元によだれをひと筋垂らして言った。
「それにほかにも色々あるし、すごい量ね。なんでまたこんな……」
そこに、パンが山ほど乗ったかごを持ったレグルスが現れ、言った。
「ママ、お食事の用意ができましたよ」
「レグルスちゃん、どうしてこんなに豪華なの?」
「はい、今日はパパとママの結婚記念日ですから」
「結婚記念日……?」
レオはきょとんとし、思考のすべてが消えてしまったような顔をした。
レグルスがニッコリ笑って言った。
「はい、パパがここに来ておよそ一年が経ちました。すなわちパパとママが結婚して一周年ということです。なので、今日を記念日とさせていただきました」
「レグルス、おまえ……」
レオはふるふると震え、ぼくの頭を強く抱き寄せた。
「ああ、なんてうれしい……」
よかった、よろこんでくれたみたいだ。
ぼくはレオの背中を抱き返し、
「ママ、一年間ありがとう。これからもよろしくね」
「ああ、よろしく……」
「ほら、口調が戻ってるよ。いまはママになってもらわなきゃ、結婚記念日じゃなくなっちゃうじゃないか」
「ふふふ……」
ぼくはレオの頭を撫でながら、レグルスに目を向け、うん、とうなずいた。
するとレグルスも、うん、とうなずき返し、ニッコリ微笑んだ。
「あーー! ローストチキンだー! すごーい!」
食堂に顔を出したアルテルフが子供のように大騒ぎした。
バタバタとチキンに駆け寄り、
「あたしチキンだーい好き! ねえねえレオ様、あんよちょうだい! あんよ食べていい!?」
レオは顔を上げ、
「いいわよ。そのかわりちゃんとママと呼びなさい」
「はーい、ママー!」
やがて一同が集まり、夕食がはじまった。
料理は見た目以上においしくて、レグルスがこれほどのものを作れるのかと正直驚いてしまった。
「デネボラが来るまではわたくしが料理をしていましたから。しかし久方ぶりのことで、チキンは少々焦げてしまいました。申し訳ありません」
「ううん、すごくおいしいよ。本当に君に頼んでよかった」
「そ、そんにゃ、はひ、ひぃ……」
あらら、そんなに照れなくてもいいのに。
顔真っ赤にしてもじもじしちゃって、なんだかかわいいなぁ。
ぼくらはたのしく食事をし、パンと飲み物のほかはみんなたいらげ、ふぅ、と出張ったお腹をさすっていた。
すると、
「そろそろデザートをお持ちしますか?」
「デザート?」
「記念日といえば、あれでしょう」
そう言ってレグルスはキッチンに向かい、なにやら大きな紙箱を持って戻ってきた。
「なーにそれー?」
アルテルフがぴょこぴょこ跳ねながら言うと、レグルスは箱をテーブルに置き、
「もちろん、これです!」
箱の上部を持ち上げた。
「わあー!」
中から出てきたのは大きなホールケーキだった。
白いクリームの上に色とりどりのフルーツが乗り、真ん中にひとつ、
「結婚記念日」
と書かれたチョコレートが刺してある。
「け、ケーキ!」
デネボラがキラキラと乙女チックな輝きを目に溜め、ぴょんぴょんと騒いだ。
彼女は甘いものに目がない。
ましてやクリームたっぷりのフルーツケーキとなれば正気を失いかねない。
「レグルスちゃん、こんなものまで用意してくれたの?」
レオもこころからうれしそうに言った。
「はい、と言ってもこれは街で注文したものです。わたくしは字が書けませんし」
「いい子ね、ありがとう」
「いえ、よろこんでいただければさいわいです」
レグルスはこんどはそんなに照れていないようだった。
ぼくにほめられたときは、かなり取り乱してたのに。
たぶん自分が作ったものじゃないからかな?
「わたし、切り分けまぁす!」
デネボラは勢いよく立ち上がり、キッチンからナイフと皿を持って来て、意気揚々と切り分けた。
……あれ? 六人いるから六等分なんだけど、ナイフを入れる回数が多いな。
三回切れば六つになるはずなのに、六回も刃を入れて、おや、ひとつだけかなり大きい。
デネボラはそれらを皿に乗せると、大きいひとつを持ってそそくさと自分の席に着き、
「うふふ、いただきまぁす!」
とフォークを構えた。
その瞬間、
「待ちなさい、デネボラ」
レオが止めた。
「なんですかぁ?」
「あなたは食べちゃダメよ」
「えっ!?」
デネボラは心臓をナイフで突かれたような顔をした。
「そんな……どうして……」
「忘れたの? あなたはダイエット中なのよ。それなのにそんな甘いもの、太るに決まってるじゃない。だからダメ」
「そ、そんなぁ……だって、ケーキですよ。こんなおいしそうな……」
「ダメだって言ってるでしょ! フォークから手を離しなさい!」
「お願いします! どうか、このケーキだけは……」
「いい加減にしなさい! 命令よ!」
「だって、だってぇ……う、う……」
デネボラは打ち震え、さめざめと涙を流した。
場がしんと鎮まり、めそめそと嗚咽の音が食堂内に響いた。
ぼくは見ていられなかった。
デネボラはいつだって笑っている。
怒っても、悲しんでも、ムチで叩かれても、どんなときでもかならずそこに笑顔がある。
そのデネボラが本当に泣いていた。
本当の涙だ。
たかがケーキひとつ食べられなくたって大した問題じゃない。
長い人生の中では取るに足らないことかもしれない。
でも、ぼくは、自分のことじゃないのにすごく悲しくて、つらくて、どうしても怒らずにいられなかった。
「いいかげんにしてよ!」
ぼくはテーブルを叩き、立ち上がった。
「いいじゃないか、ケーキくらい!」
「ダメよ。太るもの」
「太ればいいさ!」
「なに?」
レオが低い声を出した。気に入らないときの声だ。
「太ってもいいとはどういうことだ」
「太ったっていい。大事なのはデネボラが笑顔でいることだよ!」
「だが太れば健康に悪いし、それに美しくない」
「デネボラはきれいだよ!」
「ほう?」
「レオは完璧なボディこそが魅力的だと思ってるみたいだけど、そうじゃない! 少しくらい肉があってもいいんだ! デネボラはこのままで十分きれいなんだよ!」
「バカを言うな。それじゃあおまえは、あのだらしない体で欲情するとでも言うのか?」
「するさ! たまらないよ!」
「嘘をつけ。わたしの美しい体を知るおまえが、あんなぽよぽよの体に欲情できるはずがない」
レオはそう言ってあご肘をついた。
ぼくの言うことなんかデタラメだと思っているのだろう。
単にデネボラの涙に同情しただけと決めつけている。
だが、
「するよ」
突如ゾスマが言った。
「なに?」
「アーサー様はデネボラで欲情するよ」
「ゾスマ、なにを言ってるんだ。まるでその目で実際に見たかのような口ぶりじゃないか」
「そうだよ。アーサー様はペニスを勃起させてデネボラに押しつけてたよ。わたし見たよ」
げっ! それ言う!?
ていうかなんだその言い方!
それだとまるで、ぼくが意図的に当てにいったみたいじゃないか!
「……そうなのか、アーサー?」
レオはひと呼吸置き、唖然としてぼくを見つめた。
ぼくはしどろもどろしたが、ごくっとつばを飲んで、
「そ、そうだよ……ぼくはデネボラのだらしない体に欲情したよ……」
「お、おまえ……」
「あ、でも当てちゃったのは事故だよ!? 自分から当てに行ったわけじゃないよ!?」
ぼくは必死に弁解した。
しかしレオはじっと黙っている。
テーブルの向こうでアルテルフが笑いをこらえて口を押さえている。
レグルスが顔を真っ赤にして泣きそうな目をちらちらさせている。
沈黙がじわっと押し寄せ、ぼくは息が詰まりそうになった。
が、それを破るようにレオが言った。
「そうか……ならあれもひとつの美だと、おまえはそう言うんだな?」
ぼくは一瞬言葉に詰まった。
ど、どういう意味だろう? そこまで考えてものを話してなかった。
しかしここで退いては恥のかき損だ。
ぼくは毅然とし、まっすぐに言った。
「そうだよ。デネボラはいまのままで美しいよ」
するとレオはふぅ、とため息をついて腕を組み、椅子に背を預けた。
そして、
「悪かった、デネボラ。食っていいぞ」
「ほ、本当ですか!?」
デネボラはぱぁっと目を輝かせ、瞬時にフォークを構えた。
「ああ。運動ももうしなくていい。だが夜中にものを食うのだけは本当にダメだぞ。あれは体に悪すぎる。いいな?」
「はぁい!」
そう応えた途端、デネボラはケーキをバクバク食べはじめた。
口の周りにクリームがつくのもおかまいなし。
ひと口食べるたびに、
「あまぁい!」
と満面の笑みを浮かべた。
もう泣いていたことなんか忘れてしまったようだった。
ああ、よかった。デネボラはこうでなくちゃ。
笑ってないデネボラなんて見たくないよ。
「みんな、暗くしてすまなかった。我々もケーキをいただこうじゃないか」
レオがそう言ってケーキに手を伸ばした。
「ほら、アーサー。おまえも席に着け。せっかくのケーキだぞ」
「あれ? パパじゃなくてアーサーでいいの?」
ぼくがそう言って笑うと、レオもふふ、と笑い、
「コホン……そうだったわね。パパ、ママが食べさせてあげるわ」
と肩を寄せ、ケーキをフォークで切り、
「はい、あ〜ん」
と差し出してきた。ぼくもそれに応えて、
「あ〜……」
と口を開いて待っていると、
「あ、そうそう」
レオは途中で手を止め、実にやわらかな笑顔で言った。
「さっきの……デネボラになにを当てたとかのことですけど」
「あがっ」
ドキーン!
「お食事が終わったらそのことについてゆーっくりお話しましょうね」
そう言ってレオはぼくの口にケーキを運んだ。
甘いはずなのに味がしない。
ぼく、このあとどうなっちゃうんだろう……
そんな不安を抱える中、ふとゾスマと目が合った。
するとゾスマはもぐもぐしていたケーキを飲み込み、親指を立てたグーを突き出し見せた。
その笑顔はこころなしか、いつもよりニッコリしている気がした。
……うん、ありがとう。ナイスフォローだ。
おかげでデネボラが笑顔になったよ。
ただ、もう少し言葉を選んでほしかったなぁ……




