その自殺、止めるべからず 四
屋上から降りてきた男はみすぼらしい格好をしていた。
上も下もほとんど布切れのようなボロで、においもひどく、およそひと前に出れるような服装ではなかった。
男は名乗った。
「あっしはキャンサーといいやす」
ぼくの彼に対する第一印象は”死神”だった。
汚い布をまとい、体は骸骨と見まごうほど痩せ細り、肌もボロボロ、全身に影が差したような気色でありながら、落ち窪んだ目の奥に輝きがある。
絵画で見る死神そっくりだ。
丁寧語を使い慣れていないらしく、下手くそな敬語で彼は言った。
「あっしはこの街の工場で働く木工職人でございやした」
ございやした? それじゃいまはなにをしているんだろう。
それを訊くと、
「へえ、首になりやして」
と、キャンサーはこれまでのことを話しはじめた。
彼は元々狂ってはいなかった。
ギャンブルは好きだが、さして大きい勝負はしない男だった。
たまに友人に金を借りることはあっても、あくまで給料からすぐ返せる範囲で、生活を崩すようなことはしなかった。
それがある日、狂った。
その日、彼はやけにツイていた。
いつも通り小張りを繰り返していたが、なぜかその日はことごとく的中する。
カード、サイコロ、ルーレット、なにをやっても勝ってしまう。
どういうわけかギャンブルにはそんな日がある。
やることなすことうまくいき、余裕ができたからといい加減なノリで打ってもまた当たり、ちょっと強気な額を賭けてまた当たる。
そうして勝ち続けているうちに、気づけばその日の給料が倍になっていた。
そこで彼は大きな勝負に出た。
種目はルーレットで一点張り。
賭けたチップは一日の給料分ほどだ。
本来であればいくらツイているとはいえそんな賭けはしない。
しかし酒が入っていた。
酒がいきおいを持たせ、そのうえで友人たちが行け行けと騒ぎ立てるので、どうせ負けても元っ子だと思い、冗談のつもりで張った。
それが当たった。
一日の給料がひと月の給料になった。
こんな幸運があるだろうか。
友人たちは大騒ぎし、自分もかなり調子に乗った。
酒だ酒だとどんどん飲んだ。
すると、つい気が大きくなった。
彼はふらりと高レートのテーブルに向かい、なんといま手に入れたチップをすべて一点に賭けた。
明らかにどうかしていた。
友人がやめるようなんども呼びかけ、それでやっと正気に戻った。
しかし遅かった。
気づいたときにはノーモアベットが宣言され、もうチップに触れることは許されなかった。
彼はほとんど息をするのも忘れて青ざめた。
負けたところでプラスマイナスゼロだが、いったん手に入れた大金を失うのは実質大敗と言っていい。
一点張りが連続で当たることなどまずあり得ない。
が、奇跡が起きた。
彼はその一瞬で数年分の稼ぎを得た。
ばくちを知らない人間は、これがどんな効果を産むか知らないだろう。
ひとはばくちで大勝ちすると、小勝ちがバカらしくなってしまう。
ほんのわずかでも金が増えれば勝ちなのに、それを「たったこれだけか」なんて思うようになる。
むしろ多少負けたところで「このあいだの勝ちを考えればこれくらい」と笑えるようになる。
勝ったのに落胆し、負けても平気だなんて、こんなちぐはぐなことはない。
しかしこれがばくちの怖さである。
大勝ちすると脳がイカれ、大勝ち以外に興味がなくなってしまうのだ。
その異常性に気づくのは、たいてい勝ち金を失って、マイナスに差し掛かったころだろう。
彼も例に漏れず狂い、翌日から大きな張りを繰り返すようになった。
するとすさまじいいきおいで金が減った。
大張り、大穴狙い、一撃大勝を狙って大金を賭ける。
そんなことをすれば当然負ける。
その負けを取り戻そうとさらに大きく張る。
負ければ負けるほど負けが大きくなる。
気づけば彼の貯金はなくなっていた。
ルーレットの大勝ちが消えるまでひと月とかからなかった。
しかしここまで負けても頭は元に戻らなかった。
彼は金貸しに手を出した。
金を借りてはカジノに通い、五回に四回は負けた。
たまに勝つのがまたよくなかった。
昨日は勝ったから今日も勝てるだろう。
このあいだは勝ったから今日も勝てるだろう。
ここ二日負けてるから今日こそ勝てるだろう。
そんなふうに負け続け、そうして失った金をまた別の金貸しから借りた。
一応それぞれの業者に金は返している。
といってもまともな返済方法ではない。
彼は分割返済を選び、返済日が近づくと別の金貸しから借りて返済に充てた。
それを無限に繰り返し、街じゅうの金貸しを頼った。
そのうえでさらにギャンブルの種銭を借りた。
不履行はないので金貸しの信用は増していく。
すると借りられる上限額が増える。
そこでまた借りる。
その借金を新たな借金で返す。
そんなことを繰り返すうち、気づけば一箇所の借りが数年分の給与に匹敵するほどの大金になっていた。
こんなことを続ければ破滅するのは目に見えている。
しかし止まれなかった。
借金という名のトロッコはもうブレーキをかけられない速度に達していた。
そしてとうとう首が回らなくなった。
ひとつの業者が「これ以上貸せない」と言ったところで、いままで無理やり回していた返済の流れがせき止められた。
金は返せない。
ならばと思いギャンブルに賭ける。
しかし余裕のないばくちはかならず負ける。
手持ちに限りのある客と、無限に近い資金を持つ店では、たとえいっとき客が勝っても、下振れ一発で客が飛ぶ。
そうして彼はすべてを失った。
ただいっときの飯を食うための金もない。
清潔な飲み水さえ買えない。
せめてわずかでもと思い友人や仕事仲間に金をせびるも、手に入れられたのは本当にわずかで、しかもそのときの振る舞いが悪く職場を追い出されてしまった。
そして恐ろしいことにその借りた金もカジノに入れてしまった。
食うものも食えず、飲みたいものも飲めず、終いにはゴミ箱の中のクズを食って腹を下し、そうしてぼろぼろになりながら借金の返済日が迫った。
最後の頼みでアパートのオーナーに相談すると、来月の支払いはいいからできるだけ早く出てってくれと言われた。
「それであっしはもうダメだと思って、死のうと思ったんでやす」
とキャンサーは照れ臭そうに頭をかいた。
よくそんな態度でいられるなぁ。ひとに助けてもらうんだから、もっと申し訳なさそうにすればいいのに。
アクベンスもイラついてるよ。
でも、レオはなんだかたのしそうだった。
「いやあ、正義というのはすばらしいものだな」
レオはパチ、パチ、パチとゆっくり手を叩いてニヤけた。
「なんせこんなどうしようもないクズを助けるんだからなあ。わたしならとてもじゃないが、そんな金払いたくない。でもしょうがないよなあ。ひとのいのちを救うんだからなあ」
「そ、その通りだ!」
アクベンスは腹の虫が暴れるのを握り潰しそうな剣幕で言った。
「これが正義というものなんだ。これがひととして正しい行いなんだ。そうですよね、クロさん?」
「は、はあ……」
正直おかしいと思うなぁ。
こう言っちゃなんだけど、キャンサーは死んで当然かも……
「ふふ……」
レオはご満悦といった様子で腕を組み、
「ならさっさと金を払ってきた方がいい。なんせ人間はいつ気が変わるかわからない。そうだろう、キャンサー?」
「そうでやんすね! 早速払ってもらいましょー!」
「ぐっ……!」
アクベンスの白目に血管が浮かんでいた。
キャンサーの態度が本当にムカつくんだろうなぁ。あれは助けてもらう態度じゃないよ。
このあとぼくらはバンクに入り、アクベンスが借金を片付けていくところを眺めた。
キャンサーの借用書はおびただしい量で、いったい何百件あったんだろう。
それを一枚一枚バンクの職員が受け取り、アクベンスの口座から返済する手続きをしていく。
それだけの作業が一時間も続いた。
ぼくはあまりに退屈で、なにかショウでも見にいこうとレオに言った。
すると、
「いま見ているじゃないか。最高のショウだ。ほら、キャンサーがよろこぶたびに、あの正義ぶった男の顔がどんどん歪んでいくぞ」
と彼女はアクベンスを肴にウィスキーをちびちびやった。
性格の悪さもここまで来ると呆れを通り越して感心するよ。
長い長い、体の痛みを伴わない地獄が終わり、ぼくらはバンクを出た。
「いやぁ、ありがとうごぜえます旦那!」
キャンサーはうれしそうにはしゃいでいた。
どこどなく血色がよく見える。
しかし逆にアクベンスは十歳は老けて見えた。
そんな彼はげっそりと顔を持ち上げ、レオに言った。
「これでわたしが口だけの男ではないとわかったか」
すると、
「は?」
レオは不思議なものを見るような目で言った。
「きさま、まさかキャンサーを救えたと思っているのか?」
「なに?」
アクベンスはポカンとした。
意味がわからない、といった感じだ。
レオはクスリと笑った。
「やはりバカだなぁ。きさまはバカだ。どうしようもないバカだ」
「なんだと!?」
アクベンスの顔が怒り一色に染まり、猛獣さえ追い払うような怒号を放った。
「ひとをバカにするのもいい加減にしろ! たったいま救ったじゃないか! 莫大な借金を肩代わりしたんだぞ! こんなことをしてもらって自殺するヤツがどこにいる! これがどうして救えていないと言うんだ!」
すると、
「あははははは!」
レオが笑った。あざけ笑った。
「本当にバカだな。わかってない。本当にわかっていない。きさまはどうやら借金が消えて終わりだと思っているようだが、見当違いもはなはだしい」
「ど、どういうことだ!」
「逆だ。はじまりだ。いまきさまが払った金がはじまりの合図だ。それなのに救ったなどと……愚かだ! なんて愚かなんだ! あははは! あははははは!」




