その自殺、止めるべからず 三
ぼくはギャンブルをしたことがない。
しかし、話には聞いたことがある。
ポーカー、ブラックジャック、バカラ……その他さまざまな遊びがあり、チップに変えた金を賭けてディーラーと勝負する。
勝てば勝っただけ金をもらい、負ければ失う。
ここだけ聞けば公平な勝負に聞こえるが、ギャンブルはどうしても店が勝つようにできている。
客が勝つときは大勝ちは少ない。
逆に負けるときは大負けが多い。
なぜそうなるのか知らないけど、そういうものらしい。
しかしどれだけ負けてもまたやりたくなってしまう魅力がギャンブルにはあり、そうして身を持ち崩すひとが世の中には山ほどいるという。
それにしてもまさか観光に来てそんな人間と出会ってしまうなんて夢にも思わなかった。
「もう死ぬしかねえんだよー!」
屋上の男は空に向かって叫んだ。
「あっちに借金、こっちに借金、それもぜんぶ大金だ! もうどうしようもねえ! おっ死ぬしかねえ! せめててめえらイカサマカジノがくたばるように呪って死んでやるよ! ちくしょー!」
男は泣いているように見えた。
遠くてよく見えないけれど、ほほにうっすら涙の筋が見える気がする。
それを見上げるアクベンスは、瞳を左右に揺らし、たじろいでいた。
ギャンブルでの自殺はそうめずらしいことではない。
都会で生きていればいろんなものを見るし、実はぼくの親戚にもひとりいる。
彼らは大金を賭けるという行為を繰り返すうちに正気を失い、金以外のものがなにも見えなくなってしまう。
ぼくは最期までお金を貸していたからよくわかる。
「おまえ以外だれも金を貸してくれねえ。あいつらは全員クズだ。てめえのことしか考えてねえクソやろうだ。ちくしょう」
そんなことを言われてからぼくも彼がいやになり、居留守を決め込んで会わないようにした。
それから十日後、そのひとはひっそりと死んでしまった。
それ以来ぼくはギャンブルイコール悪としてずっと忌みきらっていた。
こんな話はぼくの周りに限らずいくらでもある。
だからギャンブル街のカジノオーナーともなれば、それこそ日常会話のように耳にするだろう。
しかし目の前でそれが行われるとなれば落ち着いていられない。
話に聞く分にはおとぎ話のようなものだけど、その場にいればまぎれもない現実だ。
アクベンスの手はわずかに震えていた。
「さて、どうする?」
レオは眠たげな薄笑いを浮かべ、言った。
「借金だそうだ。金さえ出せば救えるぞ」
「ば、バカを言うな」
アクベンスはノーと言いたげに両手を広げ、
「ギャンブルの負けだろう。やむを得ない話ならともかく、それを肩代わりするなんて……」
「はっ、だからどうした。どんな借金だろうと金は金だ。なに、安いものじゃないか。金で解決できるんだからな。金で買えるものほど安いものはないぞ。それに比べて、ひとのいのちは尊いからなぁ」
「ひ、ひとごとだと思って……」
「ああ、ひとごとさ。あの男が死ぬのも、きさまがゼニを失うのもな。だが、きさまは正義なんだろう? 正義というのはひとが死ぬのを放っておけないのだろう? わたしの間違いを正すと言ったのはだれだ? ずいぶん偉そうなことを言っていたあの男はどこに行った?」
レオは相変わらずネチネチと意地の悪いことを言った。
たしかにカジノオーナーなら大金でも払えるかもしれない。
しかし見ず知らずの他人のために大金を捨てられるだろうか。
日常で使う程度の大金ならともかく、自殺を決意するほどの金額を払えるだろうか。
それもギャンブルの負債ときている。
ぼくならきっと払えない。
レオこと、ミドリはふふんと笑ってぼくに言った。
「どうだ、クロ。こいつもしょせん口だけだ。正義だなんだと偉そうに説教垂れておきながら、結局のところ自分ではなにもしない。言うだけはタダだからなぁ。はははは!」
ああ、なんていやらしい言い方だろう。
気の荒いひとなら殴りかかってるところだ。
アクベンスも殴りはしないものの、拳を握って奥歯をギリギリ噛んでいる。
でもなにも言い返さない。
だって、たしかにレオの言う通りではある。
極端な状況とはいえ、レオの言葉は事実をなぞっている。
アクベンスは、
「ぐ……しかし……」
と頭を抱えていた。
きっとプライドの高いひとなんだろうなぁ。別に言い負かされたっていいじゃないか。
負けたところで失うものなんてないのに。
というか払わないのがふつうだよ。
「ええと、無理しない方がいいよ」
ぼくはあんまりかわいそうになったので、そっと言ってあげた。
「自殺するほどの借金じゃ、いくらかかるかわかんないよ。ほかの方法を考えようよ」
するとアクベンスはぼくを見て悲しそうな顔をした。
その目はなにか大きな失意を持っていた。
が、直後ブンブン顔を振り、
「いや、わたしも男だ!」
決意を込めて、言った。
「いいだろう。正義を愛する男として、身銭を切って彼を助けよう!」
うわぁ、言い切ったよこのひと。お金が惜しくないのかな?
そりゃひとのいのちは大事だけど、それこそレオの言う通り赤の他人なのに。
なんだか心配になってきたぞ。
……それにしても切り替えの早いひとだね。
さっきまで狼狽してたのに、背筋をピンと伸ばしてずいぶんキリッとした目をして、まるで作ったような佇まいだ。
さもすれば格好つけてるようにも見える。
アクベンスはバッといきおいよく屋上を見上げ、言った。
「おおーい! 金ならわたしがなんとかする! だから死ぬんじゃない!」
「なんだって!?」
「この世にいのちより大事なものはない! 君のいのちを救うためならいくらでも出そう! だから死ぬなんてバカなことはやめるんだー!」
途端、一瞬の静寂が訪れ、直後どよめきが起きた。
「おい、マジかよ」
「借金を肩代わりするって?」
だれもが彼に注目していた。
数えきれないほどの視線がアクベンスを取り囲んでいる。
こうなればもう退くことはできない。
屋上の男がどれほどの大金を示しても、ここで引いたら男がすたる。
しかも中央歓楽街のカジノオーナーとなれば顔も広い。
「おい、このひとスターダスト・カジノのオーナーだぜ」
「え、マジで? すげえなあ。おれにはマネできねえぜ」
「ステキねえ」
そんな言葉が飛び交った。
もしここで、
「やっぱりなし」
なんて言えば信用に関わる。ここまで来たらもう撤回はできない。
それを知ってか、
「ははは、あははははは!」
とレオはあざけ笑った。
しかしアクベンスはそれに対してなにを言うこともなく、ただただ真剣な顔をしていた。
そのひたいに大きな汗の玉が浮かんでいるのが見えた。
屋上の男はいつの間にかへりから後退し、上半身だけをのぞかせ、言った。
「あんた、本当かい!? 本当に借金を肩代わりしてくれるのかい!?」
「ああ、本当だ!」
「安くないぜ!?」
男は借金がいくらあるか言った。
それを聞いてぼくは、
「げえっ?」
と叫んでしまった。
だって、とんでもない金額だった。庶民が一生かけて稼ぐ額に近い。
どよどよと群衆が騒ぎ、当事者アクベンスは目を見開いてのどをごくっと動かした。
あーあ、言わんこっちゃない。
そりゃ自殺を止めたいのはわかるけど、だからと言って簡単に金を出すなんて言っちゃいけないよ。
せめて額を聞いてからにするべきだったね。
……と言ってもしょうがないか。レオの挑発は天下一品だもの。
ホント、レオはひとを破滅に追いやるのがうまいよなぁ。
アクベンスは押し潰されそうな視線の中で、じわじわと眉をひそめていった。
まぶたが閉じ、表情が苦悶に染まっていく。
しかし、
「ふっ」
彼は観念するように笑い、屋上に向かって叫んだ。
「いのちを救えるなら安いものだ!」
すると、
「本当か!? 本当なのか!? う、うああん!」
屋上の男が泣き崩れた。
途端、大喝采が起きた。群衆はわあわあと叫び、拍手が巻き起こり、指笛を鳴らし、
「スターダスト・カジノ! スターダスト・カジノ!」
とコールを叫んだ。
そんな歓声の中、アクベンスは苦しそうな笑顔で黙っていた。
こころなしか老けたように見え、あごから疲労が滴り落ちるように汗をかいていた。
が、不意にぼくの方を見てニッと微笑んだ。
だからなんだよ。さっきからぼくの手を握ったり、微笑んだり、やっぱりホモなのかなぁ。
別にそういうひとがいることはかまわないけど、好意を向けられるのは正直いやだなぁ。
そんな懸念を抱くぼくの視界に、ふとレオの顔が入り込んだ。
レオは笑っていた。
周りが騒がしくて聞こえない。
しかしぼくにはその口の動きがはっきりとわかった。
その嘲笑がはっきり聞こえた。
「くっくっく、あははは、あはははははは、あーっはっはっはっはっは!」




