指のない人形使い 六
その晩、ぼくとレオはリビングにいた。
この貴族顔負けの豪勢な館には大きな部屋がいくつもある。
しかしぼくらがリビングと呼ぶ部屋は、貴族なら使用人の個室にするであろう小さな部屋だ。
レオは食べ物や服には出費を惜しまないが、そのほかに関してはむしろ庶民的な生活を好む。
「広い部屋など無駄なだけだ。ほしいものが遠くにあったり、掃除に手間がかかったり、不便でしかない」
そんな理由でレオは広間を使わない。
まあ、ぼくもふつうの部屋の方が好きだけどね。
広いとなんかスカスカして落ち着かないもの。
「お持たせしましたー」
アルテルフが扉を開け、トレイに飲み物とつまみを持って入ってきた。
レオの前にウィスキーを置き、下戸のぼくにはホットミルク、そして自身はぶどう酒を用意し、ぼくとレオが座る横長のソファに並んで座った。
「ありがとう」
レオはグラスを手に取り、ひと口ごくんと、のどを鳴らした。
ふだんならぼくはその色っぽい所作に見とれてしまうところだが、いまはそんな気持ちになれない。
だって、これからぼくらは盗聴をするんだ。
いまぼくらの前のテーブルには小さなブローチがひとつ置かれている。
なんでもこれは人形アティクの服に着けたブローチと音が繋がっているらしく、向こうが発信、こちらが受信で、相手に気づかれず一方的に音を聞くことができるという。
なぜそんなことをするのか。
ぼくはひとのプライベートを覗き見るなんて卑劣なことはしたくない。
そう言って席を立とうとしたけど、レオは、
「ダメだ。おまえは聞かなければならない」
「どうしてさ」
「おまえがどうしようもないほど善人だからだ。これを聞いて少しはひとを見る目を養え」
と言ってぼくを離さなかった。
いったいなにを聞かせるつもりだろう。そもそも善人のなにがいけないというのか。
それにしてもいやだなぁ、盗み聞きなんて。いっそ、ぼくもお酒飲もうかな。
少しくらい酔った方が気が楽かもしれない。
そう思いながらミルクをすすっていると、レオを挟んで向こうに座るアルテルフが、
「はあ……」
とため息をついた。
「どうしたの?」
「えー? だって、あたし聴きたくないもん」
「どうして?」
「だって……」
とアルテルフが言いかけると、レオが、
「アルテルフ……」
と静かに言った。
するとアルテルフはじっとりとした目をレオに向け、
「ぷー」
そっぽを向いてくちびるを尖らせた。
どうやらアルテルフはこれから起こることを知っているが、ぼくにはふたを開けてのおたのしみということらしい。
なんで秘密にするんだろう。
「いいから聞け。聞けばわかる」
レオがそう言うと、ブローチから音が聞こえた。
——がたがた、ごとごと。
盗聴がはじまった。
——ことん……ごと……こつ、こつ。
生活音だろうか。
歩いたり、ものを置いたりする音が聞こえてくる。
「ほう、人形は止まっているな」
会話をしていない。
アティクはレオの言いつけを守って停止しているのだろう。
——がた…………ぎいっ、ぎっ、こと。
これといってなにも起きない。
ただメンキブさんが生活しているだけの音が地味に聞こえてくる。
「ねえ、なにも起きないよ。もうやめようよ」
「ふうむ、もうそろそろだと思ったんだがな。まあ、気長に待とう。わたしの勘が正しければ今夜にはもう我慢できないはずだ」
「我慢?」
「まあ、そのときを待て」
我慢って、いったいメンキブさんがなにを我慢してるというのか。
人形が動いたことでなにをどうしようというのか。
レオの考えることがわからない。
それともぼくが疎いだけなのかな?
ぼくらは無意味な音声に耳をそば立てながら、飲み物を飲み、あてをつまんでいた。
聞きはじめたのが八時過ぎ。
だいぶ時間が経ったと思い時計を見ると、時刻は九時を過ぎていた。
もう世間はベッドに潜り込む時間だ。
ぼくらは夜更かしに慣れているけど、早番仕事や農家の方々は眠らなければ明日に支障をきたす。
繁華街や夜のお店のない地域はどこもランプを消してしんとしているだろう。
退屈な時間に飽き飽きしたぼくはやや眠気を覚え、
「ねえレオ、もうやめようよ。こんなの意味ないし、あんまりよくないよ」
と言った。直後、
——ねえ、おじいさん。
「しっ! はじまったぞ」
アティクの声が聞こえた。
レオが真剣な顔で制し、ぼくは口ごもった。
——なんだい、アティク。
メンキブさんの声がした。
アティクは不安気な声で続けた。
——さっきから、おじいさんなにを考えているの?
——なにって?
——おじいさん、なにか、考えてる?
——ああ、考えているさ。おまえのことをな。わしはいつだっておまえのことを考えとるよ。
——そう……でも、なんだか……
——なんだか?
——変。
——がたん。
——なにが変なんじゃ。
——だって、変なの。わたしね、みんなの前で踊ったときは、みんなのたのしいって感情が伝わってきて、とっても気持ちよかったの。だけどおじいさん、わたしとふたりきりになってから、なんだか違うの。ずっとなにかが入ってくるんだけど、それがうれしいとか、たのしいとかじゃなくて、なんだかとっても違う、どろっとした気持ちなの。なんだか、変なの……
——がたん。
——おいおい、わしはおまえを愛しとるんじゃぞ。
——やだ、来ないで。
——おいおい。
——来ないで! 気持ち悪い! 来ないで!
「レオ!」
「しーっ」
「でも……」
「いいから黙って聞け。なにがあるにしてももう遅い」
そんな、だって変だよ。なにかおかしいよ。
すごくいやな予感がするのに、いますぐ止めなくちゃいけない気がするのに……
——おいおい、気持ち悪いだなんて、ひどいことを言うじゃないか。
——いやあ! 気持ち悪い! いやだ! いやだ!
——なにがそんなにいやなんだい?
——入ってくる! 気持ち悪い念が、わたしの中に入ってくる! 気持ち悪い! 気持ち悪い!
「アーサー」
レオが小さな声で言った。
「人形が、気持ち悪い念が入ってくると言っているだろう。わたしとアルテルフがあのじじいを気持ち悪いと言った理由がこれだ」
「どういうこと?」
「我々女は、男と違ってひとの念を強く感じる。魂や使い魔なら、なおはっきりと感じるだろう。それで人形はいやがっているんだ」
「……でも、いったいなにが気持ち悪いの?」
「こころ、感情がだ。ほら、はじまるぞ」
——がたん、がた、がた。
——そうかい……気持ち悪いかい。だけど、わしはいつもしていることをするだけじゃ。
——いや……
——わしは心底おまえを愛しておるんじゃ。この四十年間、怪我と病の日以外は欠かさずおまえを愛しておるんじゃ。
——いや! 来ないで!
——がたん! どた、どた、どさっ!
——むぐっ!
——ぐちゃ、ぐちゃ。
——なにこれ……
——オリーブオイルじゃ。ひどい粗悪品じゃが、人形の口では味など感じぬじゃろう。
——どうしてそんな……いやあ!
——なにを驚く。いつも見ておったじゃろう。いつもくわえてくれたじゃろう。うひっひひ。
——いやだ! いやだあ! うええん! うええん!
——うひっ、ふひひっ。仕方ないんじゃ。指を失ったのが悪いんじゃ。指を失うまでは、わしはおまえを操り、きっと本物の人間より上手にくわえさせた。それがあの事故以来、ただの動かない人形になってしもうた。そうなればただの穴じゃ。ただの人形じゃ。わしは満足できんかった。じゃが、やっとまた動くおまえを愛せるんじゃ。抑えられん。抑えられんて。いひっ、いひひひ。
「な、なんてひどい……」
ぼくは震えていた。嫌悪のあまり吐きそうになっていた。
それまでのことは個人の勝手だ。
気色のいいことじゃないけれど、いのちのない人形をどう扱おうが、性の対象にしようがなんの罪もない。
でも、いま彼が相手にしているのは感情のある魂じゃないか!
「レオ!」
ぼくは叫んだ。
耐えられなかった。
レオになんとか彼を止めてもらえないか懇願しようとした。が、
「おええっ!」
「ああっ! レオ!」
突如レオが嘔吐した。
手で口を押さえ、指のあいだからウィスキーと食べ物の混ざった溶解液がどしゃどしゃと、床とテーブルにぶち撒けられた。
「レオ様!」
アルテルフがすぐさま腰を上げ、レオの背中をさすった。
「すまない……アルテルフ、拭くものを持ってきてくれ……」
「はい、すぐに!」
どたばたとアルテルフが部屋を飛び出した。
「レオ……大丈夫?」
ぼくはレオの背中をさすった。
レオはうなだれ、震えながらごほごほと濁った咳を繰り返した。
その苦しそうな姿勢のまま、ふー、とため息を吐き、
「……こうなることはわかっていた」
まだのどにねばりの残る声で言った。
「え?」
「げほっ……あのじじいが変態で、わたしが耐えきれず吐いてしまうだろうことは、聞く前からわかっていた……だから、処理してもらうためにアルテルフにいてもらった……う、う……」
「そんな……なんでこんな……」
「言っただろう。おまえに教えるためだ……」
レオはぐったりした顔を上げ、はあはあと荒い息を吐き出しながらぼくの目を見上げた。
「正直すぎるおまえが、ひとを疑うことを知らないおまえが、いつかうわっツラだけの悪党にだまされないよう、人間には裏の顔があることを教えてやりたかった。それに……」
レオは苦しみながらも、ニイっと歯を剥き出しにして笑い、
「このあとどうなるか、その耳で聞きたかったしな」
と言った。
そんな、このあとどうなるかなんて最悪な絵しか浮かばないじゃないか。
それなのにどうして笑ってるんだ。
嘔吐してまでいったいなにを聞きたいっていうんだ。
ぼくらが話しているあいだ、ブローチの向こうでは最低最悪の事態がすでにはじまっていた。
——ぐっちゃ、ぐっちゃ。
——むー、むー!
——いっひひ! いっひひ! 最高じゃ! おまえは最高じゃ! まずは上の口で味わってもらおう! そうしたら次はおまえの全身を舐め回して、おまえの一番恥ずかしいお口で味わってもらう! ういっひ! ういっひひひ!
「うう、聞くに耐えない……」
ぼくは目をつぶり、耳を手で覆った。
しかしレオは再びおろおろと吐瀉しながら、
「クックック……アーサー、なぜわたしがあの少女を選んだと思う?」
「なぜって、踊りが上手だからじゃないの?」
「それだけじゃない。わたしはプロフェッショナルだ。すべての在庫がどんな死を迎えたか覚えている。いいか、あの少女は父親に殺されたんだ」
「えっ?」
ぼくはぴしゃりとほほを打たれたようなショックを受けた。
レオはゾッとするような笑顔で言った。
「あの少女は死ぬ直前、実の父親に襲われ、口に汚い竿をぶちこまれた。それで、なぜ殺されたと思う? なぜ父親は娘を殺したと思う?」
——おお、おお、いいぞ! もうすぐだ! もうすぐわしは吐き出してしまうぞ!
「窒息死だと思うか? いいや、違う。撲殺だ。心臓が止まったあとも、顔のかたちが残らないほどに、父親の拳が裂け、骨が見えるまで殴られた。なぜ父親はそこまで怒り狂ったと思う?」
——ああ、出すぞ! 出してしまうぞ!
「それはな……噛みちぎったからさ!」
——愛しとるぞ! 愛しとるぞ! おお、おおお! おっ!
——ごりごりぶちっ!
——うぎゃああああああ!
「……!」
ブローチの向こうからすさまじい悲鳴が聞こえた。
それは、男が発する最も恐ろしい叫びだった。
それは、男が発する最も絶望的な叫びだった。
ぼくの背に悪寒が走り、全身が寒さで震えた。
直後、
「おええ! げろげろげろ!」
胃液が一気に込み上げ、涙とともにあふれ出た。
「はははっ、とうとうおまえも吐いたか」
「だって、おえ、えろえろえろ……」
「あははははは! 汚いヤツだな!」
「そんなレオだって……」
——ばき! ぼきぼき、ぐしゃ!
「!」
——よくも、よくもわしの大切な、よくも!
——ばきっ、どかっ、どかっ!
——よくも、よくも!
ブローチの向こうで、怒りに狂った音が聞こえた。
途端にぼくらは静かになって、
「……壊されたか」
レオは眉をひそめ、遠い目で言った。
「あの魂には悪いことをしたな……」
直後、ブローチからの音が途絶えた。
人形が破壊されたときにブローチも砕けたのかもしれない。
あるいは、レオが魔法を解いたか……
「まあ、これであいつは自由だ。人形が壊れた以上、わたしの封印はもう効果がない。好きにどこへでも行ける」
そう言ってレオはがっくりとうなだれ、
「魂の仕組みは教えた。あとはどうにかして念を吸収して生きていくか、あるいは消えてしまうかだ。どちらがしあわせかは知らん」
と、だれかにいいわけするみたいに吐き捨てた。
「レオ……」
「今日はもう寝よう。わたしも少し疲れた。こんなこともあろうかと風呂を沸かしてあるんだ。いっしょに入ろう。なに、いやらしいことはしない。今夜ばかりはさすがのわたしもグロッキーだ」
そう言ってぼくらは立ち上がり、部屋を出ようとすると、
「うっ、くっさーい!」
戻ってきたアルテルフが鼻をつまみ、叫んだ。
「アーサー様まで吐いてる! やだ、酸っぱい! うっ、おえええ!」
ああ、アルテルフまで!
「げええ、えろえろえろえろ」
ああもう、今夜は最悪だ……ああもう!




