第9話
いつも通りの帰り道の片隅に、見慣れない姿があった。ジャージの柄からそれがうちの学校の生徒であることがわかる。
「む、むり……あしが、うごか……」
ウォーキング・デッドのようにアスファルトを彷徨う男はどうやら走っているつもりらしい。だがお世辞にもそうは見えない。
「ほら、あと少しだから。頑張れ」
彼の友人らしい同じジャージを着た男子生徒が、その前を走りながらそう言う。こちらは正反対に洗練されたフォームだ。
「一位なんて……とらなくて……いいから……かい、ほう……して……」
「何言ってるんだ。一位は絶対取る。そしてお前が二位だ」
「この、脳筋……!」
「文句言ってる暇あったら、足動かせ。足を。口じゃなくて」
彼が振り返り、その顔が顕になった瞬間、体に電流が流れたような感覚が襲いかかった。
「……天笠」
その男の名前を、知っている。忘れられるはずがない。
「天笠、孔人……!」
――――
朝四時。
まだ日が昇っていない街の風景を照らすのは、一定間隔で設置されている街灯だ。
空は黒く塗りつぶされていて、今の時間が普段起きる時間の三時間前だとは到底思えない。
早朝の完全に冷え切った空気が、一歩足を踏み出す度に耳を切るようだ。
「はぁっ、はぁっ」
どうして中学の頃の自分はこんなことを毎日できていたのだろう、と不思議に思った。
走るなんて行為は、とどのつまり苦しいだけの所業じゃないか。
こんな罰ゲームのような行為を自分がしていた理由が、どうにも自分には理解できない。
もしかしたら中学の自分はドMだったのかもしれない。
『失って初めて~気づいたんだ~』
使い慣れたイヤホンから流れてくるのは、いつも通り一昔前のヒットソング。
失恋系の曲のようだが、程よくバンド系のサウンドのおかげで聞いていてもドーンと気分が沈むこともない。
走っている時は明るかったり激しい曲調の方が良さそうに思えるが、自分は逆にそれよりも静かめの方が聞いていて心地良い。
激しいのは聞きながら走っていると、気分が昂ぶり過ぎてオーバーヒートしてしまう。つまり飛ばしすぎて、すぐにバテてしまうのだ。
だからいつもこういう静かなロック系や、アコースティック系など、盛り上がりが控えめな音楽を聞くことにしている。
恐らくEDMなんて聞いた時には、俺の命はないだろう。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、ぐっ!?」
最後の曲がり角に差し掛かった時、自分の体勢が小さく左にブレたのを感じた。
が、右足でどうにか踏ん張り、次の歩を地面にぶつけた。
普段の通学でも履いている運動靴は少しグリップが効かず、曲がる時に滑ってしまう。そのまま転倒する程バランスが崩れるわけではないが、毎回毎回曲がるのが気が気でない。
次までにちゃんとしたランニングシューズを買っておいたほうがいいかもしれないな、と思いながら最後の直線を突き進む。
「……お!」
曲が変わる。これは、映画ロッ◯ーのテーマだ。
考えてみると今の自分はロッ◯ーそのものだ。圧倒的な格上相手に戦いを挑む挑戦者、そしてその特訓中。
テンションが上がってしまうのに、この曲だけはどうしてもプレイリストから外せない。中学からのクセだと思う。
このまま夜が明けてくれれば、最高に気分が良いのかもしれないが、空は青くなる兆しも見えない。太陽を拝めるのはどうやらもう少し先のようだ。
そして走り始めた公園の入り口を抜ける。少しずつ速度を落として、やがてそれまで限界まで駆動していた足が、その動きを止める。
心臓の音が、耳の奥で低く鳴り響くのが聞こえた。
頬を水滴が伝うのを感じた。こんなに寒くても走れば汗はかくのだ。しかし汗が通った後に吹き付ける風の冷たさは尋常でなく、すぐにジャージの袖で頬を拭った。
「ひぇ……、い……、ひぇい……」
肺から空気がそのまま出ているような音を発しながら、同じジャージ姿の九郎が亀のような遅さで公園に入ってきた。上体が前に出てしまっていて、ゾンビの行進にも見えなくない。
「ふぉう……、おふ……、ぐほぉうっ」
ゴンッ。
公園がゴールであるくらいの理性は残っていたらしく、入り口の門を踏み越えた瞬間にそのまま九郎はぶっ倒れた。
「……今、頭から行かなかったか? すげぇ音がしたような。おーい九郎ー。大丈夫かー?」
「ひぇい、ひぇい、ひぇい……っ」
白目を向いて身体全体でどうにか呼吸しているような状態だった。
「流石に運動不足がすぎないか、九郎」
「るせぇ……、ひぇい……、こっちはインドア派……。こんなの……、殺人罪だ……。訴えてやる……」
「それだけ口がきけるならまだいけるな。ほら、もうワンセット」
「……!?」
そう言った途端、九郎の顔がまた一気に青ざめる。正直この反応が見たいがために言っているような感じがあった。
「冗談だ」
一言だけ残して一回、軽く屈伸をする。
「お前、嘘だろ……!?」
この世のものとは思えない物を見たような声が、後ろから聞こえた。
「マジだよ。まだ余裕があるから。もう少し走らないと」
――――
二十分後。
「ひぇい、ひぇい、ひぇい……っ」
ついさっきの九郎と全く同じ体勢でぶっ倒れている男が、そこにはいた。というか俺だった。
「そりゃそうなるわ」
俺が走っている間に悠々と休んでいたであろう九郎が、大の字の俺を見下してくる。
「わかってんのか?」
「は?」
「この今の俺よりも走れなきゃ、二位にはなれないんだぞ」
「……ちょっと待とう」
倒れた状態で顔だけ声の方を向くと、九郎の神妙な表情があった。
「これ、意味あるのか?」
「意味?」
「いや、意味って言うかさ。陸上部を悔しがらせるという目的だったら、お前が勝てば八割方達成されてるだろ」
「まぁ、確かにな」
「なら、オレが頑張る意味って何なんだ?」
「……残りの二割のため?」
「それなら、オレが頑張る意味はどこに――」
「決まってるだろ」
間髪入れずに短く言い切る。
言葉を遮られた九郎は不思議そうな視線を俺に向け、首を横にコクンと傾げた。全く可愛くない。
「九郎が苦しんでいるのを見たいからだ」
「性格歪んでないか!?」
お前ほどじゃない。
――――
それから一旦家に帰った後、学校に向かった。
起きている時間が時間だから遅刻する心配はなかったものの、自分の席についた瞬間、今まで経験したこともないような疲労感が俺を襲った。
「ぐぬぉあ……」
自分の口から聞いたこともないような声が飛び出す。このまま腕や顔が机に溶けてしまいそうだ。
「九郎は……」
視線と首を最低限の範囲で動かし、後ろを振り返る。
「ZZZ…」
最早見るまでもなかった。
腕もダランと前に突き出し、デコから机に突っ伏して九郎は眠って……、いや、気絶していた。
こいつと同類にはなりたくない。
そう強く思うも、意志は肉体の疲労には打ち勝つことができず、どんどん薄まっていった。
「くっ、まだだ……、寝るわけには……、わけには……」
――――
「ZZZ…」
――――
誰よりも俺が一番速かった。
タメで俺よりも脚が速い奴は、今まで会ったこともなかったし、マラソン大会にもなれば二位に大差をつけることくらいわけなかった。
だから中学生になった時に、陸上部に入って長距離を選んだのは、当然の帰結だった。
走るのも好きだし、それに見合うだけの実力もあった。
――いや、ある、つもりだった。