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第7話

「はぁ……疲れた」


 帰宅して自分の部屋の扉を開くと、弱音のようなセリフが、ため息とともに口から漏れた。

 時刻は夜七時。

 まだ寝るには早いが、疲労困憊で今にもベッドに倒れ込みそうな勢いだ。

 電灯はつけないままでカバンを、いつも通り机の傍らに置く。

 何年も続けている習慣をなぞるだけの行為は、視覚が働いていなくても問題なかった。改めて考えてみると、人間の習慣ってすごいと思う。

 わずかに見える視界を頼りにベッドの方へ向かう。

 ふと、今日食べたラーメンのことを思い出した。

 

「……まぁ、最初は美味かったし良しとするか」


 八郎系は別にマズいわけではない。むしろ肉は厚くてジューシーだし、麺やスープだって美味い。

 ただ、量が異常なだけだ。

 だから最初は美味い。

 何なら最初が一番美味い。

 後半から地獄の耐久戦になってしまうのが難点。

 

「やべ……ねむ……」


 ボサッ。

 ベッドに全身を預けると、スプリングの反動で軽く身体が跳ね返されて、また着地する。柔らかくも弾性のあるこの感触がたまらなく心地良い。

 制服から着替えてすらいないが、このまま眠ってしまいたかった。

 

 ブレザーに変なシワが付いたら、……もういいや、どうでも。

 諦めたらさらに眠気が加速していく。

 スマン制服。お前の犠牲は無駄には……。

 

「ZZZ……」


――――


 聞こえる。

 

 まただ。

 また、あの声だ。

 

 反響する声が別の反響してきた声と混ざり合い、輪郭がおぼろげになる。

 真っ暗で何も見えない空間で、誰かの声が響きわたる。

 

 ただそれを聞いているだけ。

 聞いているだけ。

 俺は何もしない。

 俺は何もできない。

 

 きっとその声は、泣いているのに。

 それがわかっていながら、俺は言葉一つ発することもできないのだ。

 

 泣き叫んでいる。

 理不尽を呪い、運命を憎む、そんな声。

 思わず耳を塞ぎたくなるが、俺の手は動かない。

 もしかしたら、俺に手はないのかもしれなかった。

 いや、ひょっとすると、身体すらないのかもしれない。

 そもそも、俺という存在すらも――?


 わからない。

 でも、それでも残響は消えない。

 

 ずっと、ずっと、消えない。

 

――――


 教室のドアを開くと、今日もいつもと変わらない光景。

 しかしいつもは睡魔が多かれ少なかれあるのだが、今日はまさにそれが皆無だ。

 昨日帰宅して速攻意識を失った俺は、十二時間にも及ぶ長時間の睡眠を得て、身体的に絶好調と言ってもいい。パワ◯ロだったら真っ赤になって踊り回るレベルである。

 

 自分の席の方を見ると、その隣には既に神野が座って何やら本を読んでいた。

 邪魔をしないようにと逆の方向から静かに席につこうとするも、神野は俺の登校に気づき本から目を離した。

 

「あ、天笠くん。おはよう」

「おはよう」


 わざわざ読書を中断してまで、自分に声をかけてくれたのが、自意識過剰かもしれないが少し嬉しい。

 そのまま神野はラミネ加工された、女の子らしい薄い桜色の栞をページの隙間に挟んで、顔を俺の方に向ける。

 ジーっと俺の顔や全身を眺める神野。そして首を小さく横に傾げた。

 

「な、なに?」

「うーん、なんかいつもと違うような……。髪を切った……ってわけでもなさそうだし、なんだろう……?」

「えっ」


 改めて自分の格好に何か普段違うことがあるか、考えてみるが身だしなみも何もいつも通りだと思う。

 唯一違うことと言えばちゃんと睡眠をとっていることだが、まさかそれは――、

 

「活き活きしてるように見えるよ。何か良いことでもあったの?」


 ――あった。見事なまでの命中である。

 と言うより、いつもの自分がどれだけしんどそうにしているのか、かなりの不安が唐突に胸の中に湧き上がった。

 

「たぶん、いつもより寝たからだと思う」

「あー、なるほどねー……って、いつもそんなに寝てないの?」


 神野に聞かれ改めて、自分の普段の生活習慣を思い返す。

 

「まぁ、言っても六時間くらいは寝てるかな」

「えっ?」

「えっ?」


 お互い顔を見合わせること数秒。

 恐らく数秒のはずだったのに、ひどく長く感じる。

 神野の目がジッと俺の目を見ていて、その瞳の中に吸い込まれそうになる。

 

「ひゃっ!」


 先に声を上げたのは神野の方だった。

 ぼーっとしていた俺は彼女から目を逸らされたことを認識するのに、二秒くらいかかった。

 

「え、えーと……」


 あまり異性に免疫がないのか、頬をほんのり赤くしてあたふたと次の句を紡ごうとするも、なかなかうまく言葉が出てこないようだ。

 そんな彼女の仕草を可愛いと思うと同時に、余計なことをしたばかりに困らせてしまって申し訳なくもなる。

 話を元に戻そうにも何を話していたんだっけ……。

 ……あ、そうだ。睡眠時間の話だ。

 

「えっとさ、神野ってどれくらい寝てるの?」

「え、あ、そういう話だったね!」


どうにか話の軌道を修正できたようで、ほっと胸をなで下ろした。

 

――――


 授業が始まり、教師が黒板にチョークを走らせる。一限は倫理だ。睡魔に襲われることのない授業というのは、どこか新鮮だ。

 ふと、後ろを振り返ると、そこにはやはり居眠りの真っ最中の九郎の腕がある。こうずっと寝ているのを見ると、こいつの睡眠時間は一体どれだけなのか気になってもくる。

 

 ちなみに神野はちゃんと最低八時間は毎日眠っているそうだ。休日も平日と同じ時間に起きるらしい。

 健康的でなおかつ理想的すぎる生活習慣で信じられないが、神野のことだから嘘をついているわけではないのだろう。

 

 そう言えば、どうして俺は夜更かしをするようになったのだろう。部活に入っていた頃は毎日朝練があって、とてもそんなことをする余裕なんてなかったはずだ。

 引退してから堕落した生活を送るようになったのかもしれない。そう考えるとしっくり来た。

何かしらの枷がないとダメになるタイプなんだと思う。


「それで、フロイトというのは夢について研究した――」


 考え事で耳から受け流すだけになっていた教師の言葉が、不意に俺の耳に引っかかった。

 夢、か……。

 

「古来、夢というのは未来の予知や、神々からのお告げという意味だと、信じられてきました。なぜなら夢にはその人が知らないことや思いもよらないことが現れるからです。


 しかし、フロイトの研究によると、それらは全て本人が知っていたものだとしています。


 例えばデジャヴ。初めて見たはずのものなのに、見たことがあったような感覚を覚えることですね。


 それを夢の中で見たという人たちは大勢いましたが、それらは昔読んだ本に書いてあって本人が意識的に思い出せないだけであると、フロイトは著作で語っています」


「へぇ……」


 夢にはその人の記憶が基になっているという話は聞いたことがある。言われてみれば確かに、神のお告げや予知夢など、そんなスピリチュアルなことが起こるはずがない。

 所詮人の想像に過ぎないのだろう。

 

「でも、あ、これは私個人の考えですが」


 俺たちに向けていた声音が変わる。

 

「まだまだ夢にはわかっていないことがたくさんあります。そもそも測定や研究の方法が、人間の主観によるものにしか頼れないから、とても難しいのが一因です。


 だから、本当は何か別の要因があるんじゃないか、というのが私なりの考えです。

 

 だって、その方が夢があるじゃないですか」


そう言って、教師は軽く笑った。教室の所々からクスクスと笑う声もする。


「フロイトと共に夢について研究したユングという人は――」


 さらに夢についての話が続いたが、それ以降は夢というよりは意識の方に話題は移っていき、わかるようなわからないような、という状態だった俺は、また話を聞き流し始めた。

 

――――


「んー、よく寝たよく寝た」


 午前の授業終了のチャイムが鳴ると同時に、後ろから気の抜けた声がする。

 

「今日は起きるのか」

「腹が減ったからな。購買行こうぜ」

「弁当あるからパス」


 昼休みの購買は死ぬほど混むし、それなのに良いものは大体売り切れた後だから、行くメリットが到底ない。

 上級者はそうなる前の授業間の休み時間に行くのだが、その時間をほとんど全部睡眠に回している九郎は、そんな情報を知る由もなかった。

 

「ちぇー、つれねぇなー」


 ブーブー愚痴を垂れ流しながら九郎は教室を出て行った。

 

「えーー!?」


 弁当の準備をしようとカバンに手を突っ込むと、クラスの中心グループが文字通り中央を陣取っている中から、大袈裟に驚くような声。

 

「この学校、マラソン大会あんの!?」

「らしいよ」

「高校生にもなってマジかよ……。他の高校だとないとこ多いらしいのに。正直ダルくね?」

「ダルいけどあるもんはしゃあないっしょ」


 マラソン大会の話題が中心から波紋のように、他のグループにまで回っていく。女子数人のグループが一斉にため息をついた。

 

「マラソン大会って……」

「正直、ないよね……」


 大半は否定的な意見のようだ。世の中の多くの人間は長距離というものを嫌がるらしい。

 元長距離の選手だった俺から言わせれば、あれほど楽しいものはないというのに。

 とは言え、もう大分ブランクも空いているし、陸上部にも入っていないから到底全力を出し切ることはできない。

 

 まぁある程度、それなりには走るつもりだが、かつてあった燃えるような熱意が、今はない。

 と、クラスの至る所から聞こえる会話を聞き流しながら弁当の用意をしていると、紙パックの野菜ジュースを吸いながら九郎が戻ってきた。

 

「おまたせー。って、なんだ、何かあったのか?」


 教室の様子がいつもと少し違うことに気づいた九郎が、怪訝そうに小首を傾げる。

 

「マラソン大会あるからって、そういう話」

「!」


 その瞬間、九郎の目が大きく見開かれ、ストローから口を離した。

 

「あ! 忘れてた!!」

「な、なんだよ……」


 どうしてだろう。嫌な予感しかしないのは。

 

「お前、昨日中学の時は陸上部の長距離だったって言ってたよな?」

「イッテマセン」

「いーや言った! オレの記憶力は伊達じゃない!」


 キラキラと目を輝かせながら、九郎の人差し指が俺を指した。

 

「そのマラソン大会で一位をもぎ取ろうぜ! そんでもって、現役の陸上部たちの鼻を明かしてやるんだ!」


「…………はい?」

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