第45話
屋内から外へと出ると、スリッパとコンクリートが擦れ合ってザラついた音がした。
「……!」
高校の屋上には何度も足を踏み入れているが、中学のはほとんど初めてと言ってもよかった。理科の実験か何かで一度だけ、来たことがあるくらいだ。
昼はとうに過ぎていたが、まだ夕方にもならない空は、微かに橙色が滲んでいるくらいでほとんど青い。
高校のとは違って周りには高いフェンスが備え付けられ、その上方にはさらに有刺鉄線が張り巡らせている。
それを見て、まるでこの場所が監獄であるかのような印象を受けた。
フェンスに近づくと向こう側へは絶対に行けないようになっているが、その下を見ることができる。
ここから、雫は、身を投げた。
地面まではかなりの高さがあるように見え、絶対落ちないとわかっていながらも、恐怖で内蔵がひっくり返りそうになる。
ましてや本当に落ちるとなったら、どれくらい怖かったのだろう。
――想像を絶する。
「ありがとう、天笠くん」
いつの間にか隣にまで来ていた神野がそう言った。
悲しいようで優しい、そんな風に聞こえる。
「……それで、結局何なんだ」
そよ風が頬を撫でる。それに心地良さを感じる余裕はなく、むしろ不快だ。
「……私ね、雫さんのこと、いろいろ調べたの」
「…………」
「いろんな人に聞いた。第二中だった人の知り合いは少なかったから、鷺坂くんにも手伝ってもらった」
「それで、何なんだ」
「それでね、あの人と会ったの」
「あの人?」
「うん。前に、駅で会った人」
「前に駅で……、あっ」
思い出した。
記憶が戻る寸前に、神野と帰っている時に会った人物が脳裏によみがえる。
あれは――、名前が思い出せない。
顔もどんなことをしたのかも覚えているのに、名前だけが綺麗に消失している。
「有村さんに、会ったの」
有村……。
言われてみれば確かにそんな名前だったような気がする。
――が、気がするだけで、違うと言われればそのままそっちを信用してしまいそうなくらい、曖昧な記憶だ。
適当に女子Aとしか頭の中で呼んでしかいなかったから、そっちの方が覚えてしまっていて、本名は完全に忘却の彼方だ。
「会って事情を話したら、雫さんのことを、話してくれた」
「だから、何なんだ……」
「雫さんが亡くなった日のことも」
「……!」
自分の鼓動のリズムが狂う。
どうしてだろう。
何かを見逃しているような気が、神野の言葉を聞いた瞬間に突然湧き始めた。
「その日、雫さんは学校に来なかったみたいだね」
「あ、ああ……」
胸の中のざわめきは収まらないものの、どうにか返答する。
「でもね、ずっと前に学校には来ていたらしいの」
「どうして、それを知っているんだ」
「有村さんが、それを見ていたから」
「…………」
「それでね、その時に見たんだって言った。雫さんが、天笠くんの下駄箱の中に何か入れるのを」
「……えっ?」
神野が何の話をしているのか、わからなくなった。
下駄箱の中に物が入っていたような記憶は、どれだけ思い出しても見つからない。
途端に神野の言葉が胡散臭くなったようにも感じられたが、さっきの動揺がまだ収まっておらず思考が安定しない。
「雫さんがいなくなった後に、有村さんはそれを見たんだって」
「それって……?」
神野は黙ってカバンの中に手を入れ、そして前もって準備してあったように何かを掴み、すぐに手を出す。
そして、ゆっくりとそれを、俺の方に差し出した。
それは、白い長方形の、洋封筒だった。
「何だよ……何なんだよ、これは……」
神野からそれを受け取ると、その洋封筒から目を離せなくなった。
知らない。こんなものの存在を俺は知らない。一言たりともそんな話を聞いたことがない。
「これを、雫さんは天笠くんに渡すつもりだったの。でも、有村さんはそれを盗んだ。ほんのいたずらのつもりだったって言ってた」
「…………」
「本当は破いて捨ててしまおうと思ってたんだって。でも、その前に雫さんが……」
その先を神野は口にしなかったが、何があったのかはわかった。
「それで、有村さんはこれを捨てられなくなった。でも本来の送り先である天笠くんにも、書いた本人である雫さんにも渡せなかった」
「…………」
「怖くて中身を見ることもできなくて、それからずっと、何もできなくなったって、そう言ってた……」
今になって思い出す。
そう言えば女子A、いや、有村は雫の死後、学校に来ることがほとんどなかった。恐らく有村なりに、雫の死に責任を感じていたのだろう。
最終的に雫の遺書となってしまったものを、手にしてしまったせいで余計に。
「ひとつ、先に謝らなきゃいけないことがあるの……」
「何を?」
「その手紙を先に読んじゃったの。本当は天笠くんしか読んじゃいけないのに。でも、ううん。だから、天笠くんにここに来て、読んで欲しいって思ったの」
お願い、と神野は続ける。
「読んであげて。雫さんの最期の言葉を」
シールの貼られていない洋封筒は、すぐに開けられた。
中には何枚か、便箋が入っている。
俺は、そのうちの一枚を手に取り、ゆっくりと慎重に開いた。
――――
天笠孔人くんへ。
孔人くんがこれを読んでいる頃、私はもうこの世にはいないでしょう。
でも、その前にどうしても孔人くんに伝えたいことがあって、筆を執ることにしました。
ここから先は駄文が続きますが、どうかお許しください。
まず最初に。
突然、何も言わずにこんなことをして、本当にごめんなさい。
もしかしたら、孔人くんは自分のせいだって思うかもしれないけど、そうではありません。
孔人くんは知っていると思うけど、私はずっと悲観的な思考でした。
私には自分の生きている意味、生きていて良い理由が見つからないのです。
いつだったか、孔人くんに優しいと言われたことがありましたが、そんなことはありませんでした。
私は優しくなんてなかった。
ただ、面倒なことに巻き込まれないように、当たり障りのない生き方をしてきた、つまらない人間でした。
私はそんな自分が、ずっとずっと嫌いで、だから今まで何回も死のうと思ったことがありました。
自分が嫌なら、好きになれるように行動すればいいと言われたことがあります。
いろんな人からたくさん言われました。いろんな本にも書いてありました。
それは素晴らしいことだと思いました。本当に、素晴らしいことだと。
そうしてきた人もたくさん見ました。
私にはそんな人たちがすごく輝いて見えました。
すごく、憧れました。
自分がそうなれないから、余計に憧れたのでしょう。
それはきっと、嫉妬に近いくらいに。
どうすればいいのかわかっているのに、行動に移せない。
それなのに、輝く人を見て憧れ、果てには嫉妬する。
そんな自分が、本当に死ぬほど嫌いでした。
でも、ある日、孔人くんと話すようになってから、私の世界は変わりました。
昔から憧れてはいたけれど、放課後の教室で話すようになってからです。
初めて、人を好きになりました。
初めて、この人には嫌われたくないって思いました。
だから、孔人くんから告白された時、本当に嬉しかった。
生まれて初めて、家族以外の人から好きだと言ってもらえた。
今のままの自分を、血の繋がりだとかそういうのを関係なしに肯定してくれた。
私はこの世界に生きていていいのだと教えてくれた。
そのことがどれだけ私の救いになったか。
だから、本当に孔人くんには感謝しています。
それだけは絶対に、誤解されたくないのです。
次に。
孔人くんと付き合い始めてからしばらくして、有村さんたちから所謂いじめというものを受けるようになりました。
そのことはもう孔人くんも知っているだろうから、詳しいことは書きません。
いじめ自体は昔から慣れていたので、そこまで驚きませんでした。
自分を否定されることも、慣れていました。
でも、あの人たちは私だけじゃなく、孔人くんのことを蔑むようなこともたくさん口にして、それが本当に辛かった。
それは、私のせいだから。
私と付き合っているせいで孔人くんの評判が落ちていくことが、他者から自分を攻撃されることよりも、何よりも辛くて、また時々自己嫌悪に陥るようになりました。
でも、孔人くんがいてくれたから、笑っていてくれたから、私も笑っていられました。
孔人くんだけが、私の救いで、生きる理由になっていました。
だから、昨日のことが私にとって一番ショックでした。
それは、別れを告げられたからではありません。
私という存在が、孔人くんを苦しめてしまったこと。
私がいるせいで、私と付き合ったせいで、孔人くんにあんな表情をさせてしまったこと。
そんな自分が、誰よりも許せませんでした。
そんな自分なら死んでしまえばいいと。
そんな自分を、殺してやりたいと、そう、強く、思いました。
だから、私は死ぬことにしました。
最後に。
こんなことを言うのは、本当に自分勝手だと思います。
けれど、それでも言わせてください。
絶対に、孔人くん自身のことを恨まないでください。
もう私には、孔人くんに直接言えないから、何度も書きます。
絶対に、自分のせいだと思って、自己嫌悪にならないでください。
今の私のように、ならないでください。
無茶なことだというのはわかっています。
もしも逆の立場だったら、私には決して無理でしょう。
それでも、孔人くんならきっとできると信じています。
だから、お願いです。
孔人くんは、孔人くんだけは、決して自分のことを嫌いにならないでください。
それだけが、私の望みです。
……と、言いながらさらに上乗せしてしまうのは、私の我儘でしょうか。
できることなら、私のことを忘れて欲しいです。
四宮雫という存在がいたことを、永久に思い出さないで欲しいです。
そしていつか、他の人を好きになって、その人と幸せになって欲しいです。
大好きだった孔人くんが幸せになることが、私の何よりの幸せだったのですから。
本当の本当に最後になってしまいますが、言わせてください。
本当に、孔人くんのことが好きでした。
もしかしたら、私が孔人くんのことを恨んでいたんじゃないかって思ってしまうかもしれませんが、そんなことはただの一度もありません。
孔人くんと過ごした日々は、まるで宝物のように輝いていて、きっと、私の一生分の幸せでした。
この手紙を読み終わったら、破くか燃やしたりして捨ててください。
二度と、私のことを思い出さなくていいように。
さようなら、孔人くん。
こんな私でごめんなさい。
生まれてきて、ごめんなさい。
四宮雫
――――
気づけばいくつもの涙が頬を伝っていた。
便箋に書かれた文字はどれも丁寧に整っていて、しかしどこか震えていて、書いている時の彼女の様子が頭に思い浮かんでくる。
よく見ると、所々に涙の跡がついているのがわかり、そのことが余計に俺の心を強く締め付けた。
「しず……く……っ」
その場に立っていることができず、膝から崩れ落ちた。
ああ、わかる。
今ならわかる。
彼女の最期に遺した言葉が。
a。
a。
I。
俺が目にしたのは、その形に開く口だけだった。
雫の声は、聞こえなかったんだ。
『許さない』
そう言っていたのは雫じゃなくて、俺自身だった。
きっと、あの時、雫はこう言っていた。
『ごめんなさい』
そう、言っていたんだ。
泣きながら、そう言っていたんだ。
俺は、雫からの最期のメッセージを、ちゃんと受け止めていなかった。
涙が止まらなかった。
何回も制服の袖で目の周りを拭っても、涙は留まることを知らずに溢れてくる。
「天笠くん、これ……」
神野が俺と同じ高さまで屈んで、薄い水玉模様のハンカチを差し出してくる。
「ごめ……ん……」
神野から受け取ったそれを目元にあてると、少しだけあたたかい。
「ごめん……。こんなの……っ」
男なのに泣いている自分が情けなくて必死に涙を押し殺そうとするも、胸の奥から次々と湧き上がってくる感情がそれを許してくれない。
すると、ふいに目元にあったあたたかさに、全身を包まれた。
「神野……?」
神野の腕が、俺を抱きしめていた。
「天笠くん、ずっと無理をしてたの、わかったよ。でも、いいから。今は」
やわらかい。
「私だけしかいないから」
いい匂いが、する。
「泣いても、いいんだよ……」
微かに涙声混じりになっている神野の声は、とても優しくあたたかくて、何もかもを委ねたくなってしまうくらいの安心感があった。
「う……あ……っ」
心の中でせき止めようとしていた柵が崩れていく。
長い間、感情を留めていたものが崩れて、そして崩壊する。
俺は泣いた。
子どものように、ただ泣き叫んだ。
雫が死んでから、一度も泣くことのなかった俺は、初めて泣いた。
神野は何も言わず、ただ俺を抱きしめてくれている。
彼女の優しさに包まれながら、俺は泣き続けた。
――――
俺が屋上でひとしきり泣き止むと、神野は黙って俺を抱きしめる腕を解き、俺の隣に体育座りをした。
俺も神野も何も言わず、ただ時間だけが過ぎていく。
それはつい最近までの自分の生活と同じようでいて、でも何かが決定的に違っていた。
しばらくすると頭が冷えて、思考も元に戻ってくる。
そこでようやく、俺は言わなければならなかった言葉を思い出した。
「神野」
「なに?」
「……ありがとう」
それが、俺の素直な気持ちだった。
「神野のおかげで、いろいろわかったんだ。本当に、感謝してもしきれない」
「え、えぇっ? そんな、いきなり言われても……っ。……でも、よかった。本当に……」
そう言って、神野は空を見上げる。それにつられて俺も同じ方向を見る。
「ああ……」
思わず、嘆息が漏れる。
そこには夕暮れの空が一面に広がっている。
綺麗だ。
心の底から、そう思った。
こんなにも空は美しいものなのだということすら、俺はずっと忘れていた。
――雫。
そう、心の中で呟く。
雫は、俺にいくつもお願いをしてきた。
申し訳ないと思うが、その内いくつかは守れそうにない。
雫のことを忘れることなんてできない。
きっと、俺の心の中にずっと居座り続けることになるだろう。
けれど、いつかちゃんと幸せになるから。
その願いだけは、絶対に叶えるから。
だから、どうか、安心して欲しい。
もう二度と届かないけれど、俺は雫にそう伝えた。
そして、もう一つ。
神野にも伝えなければならないことがあった。
「なぁ……」
「うん?」
「前に、俺に好きって言ってくれたことあったよな」
「……うん」
「あの時は、いや、あれ以外もいろいろ、本当にごめん」
「ううん……、大丈夫だよ」
「でも――」
「私が大丈夫って言ってるから大丈夫なの。だって今はもう、知ってるから……」
何をとは言わない。でも、わかる。
「私のことは全然大丈夫だから。それよりも天笠くんは、もっと自分のことを大切にしてあげて」
「うん、わかってる」
でも、それでも、神野のことだって自分と同じくらいに大切だ。
だから、どうしても伝えなければならないことがある。
「あの告白さ……、申し訳ないんだけど、まだ答えられない」
「……うん」
「雫の最期の気持ちはわかった。でも、俺の心の方はまだちゃんと整理がついてないんだ」
「うん」
「それがどれくらいかかるのかは、正直わからない。明日にはついているかもしれないし、何年も先のことになるかもしれない」
「うん」
「たから、俺の中での納得がちゃんとできたら、その時に真剣に考えるよ。……ごめん。これじゃなんか、キープしてるやつみたいだよな」
「ううん」
神野はゆっくりと首を横に振る。
「それでいいよ。私も、そう言おうと思ってたから」
「そっか……」
「うん」
神野はまた、静かに頷いた。
夕陽が沈んでいき、赤くグラデーションを作る空に、少しずつ黒と青が混じり始める。
もうすぐ、夜が来るのだ。
光が消え、引き換えに闇が辺り一帯を埋め尽くす。
けれど、その暗闇はもう、俺の心を真っ暗な闇の中に陥れたりしない。
どんな暗闇の中でも輝くものを、見つけたから。
またそれを見失ってしまうことがあるかもしれない。
それでも、それは確かにこの世界にあることを知っているから、絶対にまた見つけ出せる。
そう強く、信じることができた。
――――
「それじゃ、もうそろそろだから」
「ええ、行ってらっしゃい。……本当に一人で大丈夫なの?」
「もう大丈夫だって。前にも話しただろ?」
「そうだけど……」
心配そうな顔の母親。
しかし仕方がない。
今までずっと心配ばかりかけてきた。
だから、これからは、もう心配にならなくていいようにしないと。
これは、そのための第一歩だ。
玄関のドアを開けると、眩いばかりの光が家の中に射し込んできた。
それに思わず目がくらみそうになるが、すぐに慣れて足を前に出す。
自分の決意を宣言するように、声を大きくあげる。
「いってきます」
おわり




