第44話
それからは一度も神野も九郎は俺に話しかけてこなかった。
奇妙だ。
記憶が戻ってからの一連の出来事以降、一言たりとも会話を交わしていなかった二人から、何かしらのアプローチがあったのは初めてだったからだ。
しかもそれが同じ日に、ほぼ同時に。そんな偶然があるだろうか。それがたまたまだと、どうして思えるだろう。
奇妙だ。
二人とも遅刻ギリギリに来たのもそうだ。
どちらも普段はそんなことは滅多にない。九郎に至っては早すぎるくらいの時間に来ているのに。
それに加えて、朝の九郎の言葉。
あの二人が何かを企てているのではないか、という疑念。
「はぁ……」
どうして放っておいてくれないんだ。
俺はもう誰とも関わりたくないし、誰かと関わっていい人間でもない。
どうせまた、傷つけるだけだ。
そうだ、逃げてしまおう。
学校が終わった瞬間に走り出せば、流石のあの二人も反応できないだろう。
足だってこっちがずっと速いし、最初さえどうにかできてしまえば逃げ切れる自信がある。
窓に目を移し、光の反射で九郎の様子を伺う。
やはり両腕を枕に居眠りをしていて、授業を真面目に受ける気配は微塵も感じられない。
隣の神野の様子にも、普段と変わった様子は見られず、九郎と対照的に、真剣な表情で授業を聞いている。
……。
……はぁ、めんどくさい。余計なことをしてくれる。
放課後が訪れることを、こんなに憂鬱に感じるのはあの時以来だった。
――――
それから放課後までの時間は、異様なまでに短く感じられた。その時が来てほしくないという心理からだろう。
SHRも終わりが近づいてきている。俺は既に帰り支度をほとんど整えていた。
上着も着たし、荷物もマフラーもカバンにしまってある。まだSHRも終わっていないうちからマフラーを着けているのは、流石に怪しまれると思った。
「んじゃ、終わりでいいか。ほい、お疲れさん」
いまいち終了の瞬間が掴みにくいタカさんの号令が終わるやいなや、俺はカバンを片手に立ち上がり歩き出す。
「お、おい、孔人……!」
そう言って追いかけて来るのを背中が感じ取った瞬間、俺は教室の床を強く蹴った。
みんなまだ終わって間もないから席についていることもあって、机と机の間の狭い道には人がほとんどおらず、スムーズに駆け抜けることができる。
「天笠くん!」
神野の声がした。
……なんだ、やっぱり企んでたんじゃないか。
その声を無視して教室の扉を目指す。
あと数歩で外へ出られる。廊下に出てしまえば、あとはこっちのものだ。
――!
その油断が、仇になったのかもしれない。
左足の指先が何かに当たった。
その瞬間、上半身と下半身の進行速度に、決定的な差が生じた。
グラリと視界が揺れる。どんどん下へ下へと落ちていく。
左腕から床と衝突し、強い衝撃が全身と脳を大きく揺さぶった。痛みで肺から全ての空気が一斉に吐き出され、息ができない。
クソ……、なんでこうなるんだ……。これじゃ、マヌケもいいところじゃないか……。
どうしようもない絶望と羞恥心が思考を染めようとした瞬間、今度は胸元を強く引くような力。
「あんた、何やってんの?」
すぐ目の前に、険しい目つきで睨みつけてくる沢上の目があった。
何も返せない。
こんな姑息な手段に講じてなお、それすらまともに成し遂げられない自分の情けなさが、俺の口を開かせてすらくれない。
そうか、沢上も一枚噛んでたってことか……。
きっと俺は自分で勝手にころんだのではなく、沢上に足を引っ掛けられたのだ。
神野が関わってくるなら、その時点で沢上のことも考慮しておくべきだった。自分の頭の回らなさに腹が立つが、後の祭りだ。
「エリ、どうして……」
「遥、あんたね……。もう少し隠しなさいよ。バレバレだったわよ、鷺坂と何か企んでんの」
「え、えぇっ!?」
どうにも様子がおかしかった。沢上と神野が手を組んでいたのかと思っていたが、そういう話でもないらしい。
「逃げるなんて往生際が悪いな、孔人よぉ」
そう言って九郎が手を差し伸べてくる。
「ほら」
「……いい」
その手を払って自分の足で立ち上がる。縋ってしまったら、それこそ惨め極まりない。
いざ立ち上がり制服についた埃を叩いて落としていると、教室中の視線が俺たちのいる一角に集まっていたことに気づく。確かに学校が終わった瞬間に走り出して、それで転んでいたら無様もいいところだろう。
さっきとは別の理由で逃げ出しそうになるも、俺の肩をガッシリと掴む九郎がそれを許さなかった。
「じゃ、神野さん。オレら先に行ってるから」
「あ……、えっと、うん。わかった」
そう言うと九郎は掴んだ手を離し、俺の背中をポンと叩く。
「ほら、行くぞ」
「行くってどこに……」
「まぁまぁ、それは着いてからのお楽しみってことで」
神野と沢上を置いて、俺と九郎の二人で教室を出る。
「何なんだよ、いきなり……。わけが……」
「あの二人にはあの二人でいろいろあんだよ。心配しなくても、すぐに愛しの神野さんが来るぜ?」
「…………」
九郎の口調は相変わらずだ。本当に相変わらずで、だから余計に癇に障った。
しかし今の俺には九郎についていく以外の行動が許されない。
警察に連行される罪人のように、俺はどことも知れずひたすら歩き続けた。
――――
「ここは……っ」
胸がざわつく。
その門が目に入った瞬間、俺はどこに連れてこられたのかを一瞬で理解した。
「あ……、あぁ……っ」
走り去りたい衝動に襲われながらも、全身がこわばり小刻みに震えて自由が効かない。
「天笠くん! 鷺坂くん!」
遠くから聞こえる神野の声が、距離以上にボヤけているような気がした。意識が正常に保たれていないのだ。
「おお、早かったな」
「うん。エリが『早く行って』って言ってくれたから」
「そっか。……んじゃ、神野さん。あとのことは頼んだ」
「うん。鷺坂くんも、いろいろありがとね」
二人の会話が頭に入ってこない。ここまでわざわざ来たということは、これからこの中に入るのだろう。
それを想像しただけで、全身の穴という穴からドッと汗が噴き出るような思いだ。
九郎が俺たちに背を向け、去っていく。
一人騒がしい男がいなくなっただけで、一気に周りがしんと静まり返ったように感じられる。
「じゃ、行こ?」
「……本気で言っているのか?」
「うん」
何の躊躇いもなく神野は頷く。その意図は想像もつかず、それについていくことによる未来の予想もできない。
「ここ、俺の中学校だぞ……?」
――――
神野はそれから少しも迷うことなく事務室へと向かい、手続きを済ませた。
彼女が名前を言っただけで、事務の人は何か納得したように頷き、俺たちを校内へと通した。どうやら既にアポはとってあるらしい。
来賓用のスリッパに履き替えて中へ足を踏み入れると、見慣れていてそれでいてどこか懐かしさのある廊下が続いている。高校の廊下に比べて、幾分ここは狭いような気がした。
何だ……、一体何が待っているんだ……?
先の読めない恐怖が、一歩進む毎に増していく。
「なぁ、神野」
「なに?」
俺の二歩先を歩く彼女が立ち止まり振り返る。
「どうして、ここに……?」
「うーん……。なんて言えばいいのかな……」
神野は困ったように苦笑いする。
「思い出して欲しかった……、って言うのが一番近いのかな……」
「……俺は思い出したくない」
「ごめん。きっとツラいのはわかってるよ。……でも、それでも、思い出して欲しいの。ここでのことを。雫さんのことを……」
「……るよ」
「えっ?」
「思い出してるよ……! 何もかも、嫌なくらい……! それなのに、まだ、思い出せって言うのか……? 思い出したくないことを、また……!」
「……本当に、ごめん。でも――」
「でもじゃない! 大体神野は何も知らないだろ! 雫のことだって――」
ハッと我に返った。
泣きそうになっている神野の姿が唐突に雫と重なったからだ。
「うん……」
「そうだよね。私はほとんど何も知らない……、天笠くんの中学の頃のことも、雫さんのことも。……でも、一つだけ。天笠くんが知らないことを、私は知っている」
「……えっ?」
「だから今日、ここに来たの。天笠くんに知って欲しいから。ちゃんと、知って欲しいから」
「どういうことだよ……?」
「ごめん、まだ、言えない……。だけど、お願い。今だけは私について来て……!」
彼女の悲痛さが、これ以上ないくらい詰め込まれた声だった。
「……わかった」
俺は首をゆっくり縦に振る。
もしもここでまた拒んだりしたら、これから先も鬱陶しく付きまとってくるだろう。
それならいっそのこと、ここで受け入れて、その上で神野を拒絶すればいい。その方がよっぽど建設的だ。
「……じゃあ」
そう言って俺の内心をつゆ知らずに、神野はまた前へ向き直り歩き出す。
やけに静かだと思い教室の中を覗くと、黒板に『期末試験』の文字があるのが見えた。どうやら今は試験期間で、生徒は一人残らず帰宅しているらしい。
静かな校舎内に二人分の足音がこだまする。
どこを見ても嫌な記憶しか残っていない。できるだけ思い出したくない俺は、ただ神野の姿だけを視界に入れて歩き続けた。
やがて階段にまで行き着き、神野が上っていく。それに倣い、俺も続いて上る。
……。
…………。
いくら上っても、神野の足は止まることなく進み続けた。
このまま最上階にまで行くつもりなのかと首を傾げるも、無言のままでいた。
今更何か言ったって、時間の無駄でしかない。
しかし流石にその疑問を呈する時が来た。
「……あれ?」
「どうしたの?」
「もうここで終わりだ。ここより上なんてないだろ?」
そう、今いるここは最上階だ。
階段は続いているが、俺たちの行ける場所はここで打ち止めのはずだ。
「ううん、あるよ。まだ」
神野はそれだけ言うと、また階段を上り始めた。
「お、おい」
その先は何もない。
あったとしてもそれはただの――。
そこで思考が止まる。
「あ……」
まだ、あるじゃないか。
一番重要な場所が、一つ。
「神野!」
そう叫ばずにはいられなかった。
胸の中にあるのは、ただ、怒りだけ。もう我慢の限界だった。
既に途中の踊り場を折り返していたせいで、神野の姿は見えない。
「くそっ」
ただ感情に任せて階段を一気に駆け上がる。
踊り場に差し掛かり、すぐに走る方向を転換してそのさらに上を見上げる。
たとえ何があってもそこには入れないはずだ。
「天笠くん、ここまで随分歩かせちゃったね」
そう思っていたが――、」
「でももう、着いたから」
ギィィッと軋んだ、鳴るはずのない音が鼓膜を貫いた。
開くはずのない扉の先から、光が射し込んでくる。
足を踏み入れたことはほとんどないが、その先が一体何なのかはすぐにわかった。
そこは、雫が自ら命を絶った場所。
屋上だった。




