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第43話

 九郎はいつも朝早くから教室にいる。

 それは俺と話さなくなってからも来るのが早いのは変わらず、そして居眠りに勤しんでいる。

 だが、今日は違った。


「……あれ?」


 扉を開くと、そこは全くのからっぽだった。

 俺の後ろの席は空白のままで、さらにそこ以外にも空席が並ぶ。

 教室に入って誰もいないというのは、もしかしたら生まれて初めてかもしれない。

 驚きで立ち止まってしまった足をもう一度動かして、自分の席に向かう。

 たった一人の寝息が抜け落ちた教室の中を歩いても、空間は自分の足音しか返さずそれ以外は静寂を保ったままでいた。

 椅子を引き、その上に腰を据え、机の上に腕を乗せる。

 そして頬杖をつきながら、すぐ左隣にある外の風景に目を移す。


 変わらないくもり空。

 モヤモヤと一面を覆う光景が、なぜだか自分と重なる。

 その理由を考えなかった。考えても同じことだから。

 曇天の理由を考えたって、太陽が拝めない天気であることに変わりないし、それを変えるほどの力も持ち得ない。意味がないことに執心するのは、物好きな輩に任せておけばいいのだ。

 やがてそれが意味を持つこともあるかもしれないけれど、自分はそういう人種じゃない。

 ぼうっと窓の外の世界を見ていた。


 ……。

 …………。


 時間が過ぎていった。

 それは長いようで短くもあり、その逆もまた然り。


 ガララー。

 右斜め後ろから扉の開く音がした。驚きはしたものの、その方を振り向く気力は湧かない。

 どうせこの時間だ。きっと九郎だろう。そう思っていたが、足音は俺の背後まで来ないで途中でぴたりと止まった。

 しかしそこからまた無音となった。

 歩みが不自然に途切れて、それからは椅子を引く音も、荷物を置く気配もない。


 ……誰だ?

 後ろにいるのは一体、誰なんだ?

 状況から察するに、その人物は立ち止まった場所から一歩も動かずにいる。

 恐らく、俺の背中をジッと見つめているのだ。

 神野か? それとも、九郎?

 いずれかの一方であろうと予想して、ゆっくりと首だけを右斜め後ろに向ける。


「な……っ」


 しかしその予想は完全に外れた。

 そこにいたのは、夢野彩織だった。


「なんで……っ」


 肩にまで届く長い黒髪と、気怠そうでトロンとした目。その表情とは対照的に凛とした立ち姿。

 どこからどう見ても、いつも通りの夢野だ。

 ただ一つ、こんな朝早くに教室にいるということを除けば。


「…………」


 夢野は一度目を伏せて、長い髪をかき分ける仕草を見せた。

 美麗と口にしてしまいそうな彼女の所作。

 だがそれすらも、彼女の視線が俺という一点に集中していることへの不気味さを際立たせる。


「私の言ったこと、覚えてる?」


 挨拶もなしに視線が合って早々、夢野はそんなことを唐突に口にした。言っていることの意味が少しも読み取れない。

 どうしていきなりそんなことを言うのかも、そして彼女が『言ったこと』の内容も理解できず、答えあぐねて口を開いたままになってしまう。


「……忘れているようね」


 俺の様子からノーを読み取ったらしい夢野は、軽く呆れたようにため息をつく。

 両手を前で組み直し、また薄い唇が言葉を紡いだ。


「前、あなたに言ったでしょう? あなたは見なければいけないって」

「……!」


 随分前のことのように思える記憶が、一斉によみがえってくる。

 そうだ。神野とのデートの後の学校の屋上で、夢野に会ったんだ。その時にそんな意味深なセリフを残していったのだった。

 あの時、俺はその意味を理解できなかったし、そもそもちゃんと理解しようという気もなかった。

 だが、記憶が戻った今は、その意味が十分にわかる。


「……そう。そういうこと。そもそも、あの時のあなたは覚えていなかったのね」

「!」


 ドクン。

 心臓を冷たい手で握られたように感じた。

 悪寒が脈動によって次々と神経を辿り、全身に一瞬で回りきる。

 一つの脈から次の脈への合間が途方もない長さに感じ、心臓が停止してしまったのではないかという錯覚さえした。


「……どうして、お前が知ってる」


 驚愕と困惑の洪水に溺れる中で、どうにかその一言をギリギリ絞り出す。

 質問の意味はわかった。

 しかし、俺の方から夢野へ抱いた疑問はそれを大幅に上回った。


「何を?」


 夢野はそう言って小さく首を傾げる。彼女の動きのあまりの白々しさに、思わず声が荒れてしまう。


「とぼけるな! どうして夢野が俺の記憶のことを知っているのか、聞いているんだ!」

「…………」


 そう声を上げると、夢野の眠たげな目が僅かに大きく見開かれた。

 そしてそのまま口を閉ざしてしまい、教室内を沈黙が支配する。

 雫のことも、事件のことも、あの当時それなりにこの辺りでは騒ぎになったから、知っていても不思議ではない。

 だが、俺がそれを忘れていたという事実。

 それをどうして、夢野は知っているのだろう。

 記憶喪失なんて言葉は普通、作り物の物語の中くらいでしか使われないはずだ。


「なぁ、どうしてだよ」

「……あなたは、どうして物が見えるか、説明できるのかしら?」

「は?」


 いきなり何を言っているのだろう、夢野は。


「私がどうしてあなたのことを知っているのかも、それと同じこと」

「何なんだよ、突然……」

「では、あなたは説明できるの? 物を見ることができる理由を」

「そりゃ……、目があるから、じゃないのか」


「……そうね。でも、それは不十分。正確には目という器官が光を感知し、それが神経を経由して脳に届いて、初めて認識する。そこで初めて『物を見る』ことができる」

「だから、なんだって言うんだ……?」

「他の感覚もそう。全ては根本的には見えない。見ていると錯覚している……、いえ、感覚することを見ることと混同しているの。だから、見ているのは目ではなく、正確には脳の電気信号による感覚」

「……?」

「でも、そこには思考というノイズがかかる。目が感知し送った情報を、脳が捻じ曲げることもある」


 話があらぬ方向へ突き進み始めた気がする。もしかしたら夢野は、話を煙に巻こうとしているのかもしれない。


「だから――」


 まだ続けようとする夢野の言葉を遮る。


「いいよ、そんな詭弁は。ちゃんと話をしよう。このことは誰にも話していない。夢野が知っている理由がないんだ」


 親も知らないはずだ。俺自身も思い出した時に初めて気づいたくらいだ。

 あの神野にだって、話したのは事の顛末だけで、知っているはずもない。

 俺しか知らないはずのことを、夢野は知っている。

 もしかして、他人の心が読める、サイコ・リーディングの能力でもあるというのか。

 ……馬鹿馬鹿しい。どこのSF小説だと心の中で毒づく。


「詭弁ではないわ。そういうものなの」

「なんだ、超能力があるって言いたいのか?」

「超能力なんて……、いえ、言い方によれば、そうなのかもしれないわね」


 半ば冗談のつもりで言ったことが否定されず、がっくりと項垂れる。

 こういうの、なんて言うんだっけ。妄想癖? 電波?


「はぁ……。そんなのあるわけ――」

「……い」


 思わず耳を疑った。


「…………えっ?」


 夢野の声は静寂に満ちたこの場所でも、消え入りそうなくらいに小さくか細い。

 だが、その唇の動きにはよく見覚えがあった。


「許さない」


 夢野の声が、違う誰かの声と重なる。


 天地が真逆になったような気分だった。

 天地だけでなく何もかもが逆、いや、そもそもの概念自体が消失した。声を発することさえ、その方法を失ってしまったかのようだった。

 それは雫が俺に遺した最期の言葉。

 今まで何度も夢の中で繰り返され、現実では一度たりとも口に出さなかった。

 声に出してしまったら、それだけで自分の中の何かが崩れ落ちてしまいそうな気がしたからだ。

 しかし一度声に出されてしまった今、頭の中で数え切れないくらい、同じ言葉が繰り返される。


 許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない。


 同じ声で。同じトーンで。何度も、何度も。


 許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない。


 記憶喪失の件は、まだ強引に納得しようと思えば、できなくない。


 俺の言動の明らかな変化を鑑みてみれば、俺に親しい人物には気づかれていたとしても不思議ではない。

 もしそうなら、両親の言動に対して抱いていた違和感は気のせいではなかったということになる。

 そこから夢野が何らかの方法で知ったと考えれば、まだギリギリ納得できる。


 許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない。


 しかし、その言葉だけは何をどう考えても、異常なまでに、異様だった。


「な……、あ……」


 悪夢が現実に流入してきたように感じ、いや、そもそもここは本当に現実なのだろうか。


 許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない。


 俺はずっと悪い夢を見ていて、それに気づけていないだけなんじゃないだろうか。


 ゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさない。


 そう思った瞬間、足をついている地面がひどく不安定なもののように感じ始めた。


 ユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイ。


「……少し、失敗ね。慣れないことはするものじゃないわ」


 そう独り言を呟く夢野。文章の理解はできるのに、そこに込められた意味は皆目検討がつかず、ひたすら頭の中で繰り返される単語をかき消そうと頭を振るが、脳が揺れる痛みが走るだけで声は変わらずループし続ける。


 ユルサナイユルサナイユルさナいユルサナイゆルサないユルサナいゆるサナイユルサなイユルさナイユルサないユルサナいゆルサナイユルサNAIユルSAなイゆるサナイYURUSANAI。


 わからない。

 わからないのだ、この夢野彩織という人物が。


「もう一度だけ、あなたに伝えるわ。これで何も変わらないなら、それまでってことよ」


 何だ……? 夢野は一体何を言っているんだ……?」


「あなたは向かい合わなければいけないの。見ようとしていないものに、もう一度」


 一体何の話をしているんだ……?


「そして、知らなければいけない」


 そう問いたいが、思考を言語へと昇華させるほどのキャパシティが残っていない。

 ひたすらパニックに陥っている自分に、我を取り戻させることさえままならないのだ。

 膨大な情報と感情が溢れて決壊した意識は、今度は徐々に薄れ始めた。


――――


 a。

 a。

 I。


 彼女の唇は確かにそう象る。

 何もないはずの空中に、たったひとつ人間の身体が浮いている。

 時間がそこで進むことをやめてしまったように、それはピクリとも動かない。

 ただ、それだけ。

 それだけの、光景。


――――


「……はっ!?」


 急速に自分の意識に光が射し込み、額が何か硬いものと衝突して高い音を鳴らした。


「いっつ……」


 顔をあげると、随分と周りは騒がしかった。いつの間にか眠っていたらしい。

 時計を見るともうSHRの五分前で、だいぶ席も埋まっていた。

 しかし隣と後ろの席に座っているはずの人物はおらず、未だ空いたままだ。

 神野に関してはまだしも、九郎がまだ来ていないのは奇妙だった。いつも早朝から来ているはずなのに――あれ?

 何かがおかしいと思った。

 九郎が学校に来ていないということは、俺が学校に来た時にも気づいたはずだ。

 そして、そこから夢野が来て……、待てよ?

 ゾワッと背筋が強張る。考えれば考えるほどに不安が胸に押し寄せてくる。


 どこから、夢だったんだ?

 はたして、夢野と話したあの一連の流れは、現実での出来事だったのだろうか?


「!」


 そこに思い至った瞬間、反射的に俺は後ろを振り向いた。そして視線を夢野の席へと移す。

 そこも、やはりからっぽで主の姿も荷物もない。

 もしも一度でもここに来ていたなら、カバンなどの類は置いてあるはずだ。

 つまり、夢野はまだ学校に来ていない……?

 となると、俺は夢を見ていたということになるのか?


 わからない。

 自分の認識が信用できなくなってきている。

 あの異様なまでのリアル感が、それを夢ではないと告げている。

 しかし今の状況からすると、夢でないとあり得ないのだ。

 俺しか知らないはずの情報を夢野がいくつも口にしたのも、夢だったら納得ができる。

 だとしたら、それこそ夢の始まりがわからない。現実と夢が溶接されたように、その境界が曖昧だ。

 それともこれ自体が、俺が現実と認識している今も、夢の中なのだろうか。

 奥底からどんどん湧いて出てくる恐怖に耐えきれず立ち上がろうとした時、視界が少しだけ薄暗くなった。


「よお」


 目の前に九郎が立っていた。その声には若干の他人行儀な雰囲気が漂っているように感じられた。


「……おう」


 とりあえず形だけの返事をして、椅子に座りなおす。

 思考を阻害されたせいかあれだけ暴れていた混乱が、一気に冷めていくのを感じた。

 それから俺が何も言わないでいると、九郎もまた一言も発さずただ俺の席の横に立ち続けている。俺が座っているせいで、位置的に見下されるような形だった。


「放課後、用がある」

「……は?」


 九郎が唐突にそう言ってきて思わず声が漏れる。


「空けとけよ」


 それだけ言って、九郎は俺の視界から姿を消し、背後で椅子に座る音がした。

 いきなり何なんだ。もう俺と関わらないでくれと、そう言ったのに。

 それからずっと何もなかったのに。

 なぜ、今になって突然そんなことを言い出すんだ?


「く――」


 キーンコーンカーンコーン。

 そう口にしそうになった瞬間、朝の予鈴が鳴り響く。それと同時にドアが開いた。


「おー、んじゃ出席取るぞー」

「す、すいません!」


 神野の声だ。


「お、今日はギリギリだな、珍しい」

「すいません……」

「まぁ、セーフかな。ほら、座れ」

「はい」


 神野が息を切らしながらコートとマフラーを着けたまま椅子に座る。

 頬が赤くなっているのが目に入って、ここまで走ってきたのだろうと思った。

 ふいにこっちを向いた神野と目が合った。

 すると、焦ったように口を小さく開き、それから右に一瞬だけ目を逸らす。

 そしてまた俺の方を見て、口パクで一言。


 おはよう。


 神野はそう、言った。

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