第42話
――孔人くん。
俺を呼ぶ声。
その声を覚えている。
初めて俺を好きになってくれた人。
初めて俺が好きになった人。
孔人くん。
ずっと忘れていた彼女が、昔のままの声でそう呼んでいる。
もう二度と聞くことはないその声を、俺は覚えている。
『……私も、天笠くんのこと、好き』
埃っぽい空気と、目を焼くくらい鮮やかな橙の色彩。
いくらかズレた、主のいない席の列。
たったふたつだけ動く、長く伸びた影。
覚えている。
まだ、覚えている。
ピタリと小さく淡い音をたてて地面についた、彼女の涙。
呼吸音すら鋭く耳を裂くように感じられた無音。
覚えている。
覚えている。
――忘れられない。
ああ、忘れられるはずがない。
こんな光景を忘れられるはずがないのだ。
彼女の目がまっすぐに俺を見つめている。
いや、もしかしたら睨んでいるのかもしれない。
そう考えるのが自然なくらい、彼女の目にはどんよりとした悲壮の色が滲んでいる。
虚ろに俺に向けられた瞳と、かつて涙をこぼしたそれが同じものとは思えない。
『なぁ、雫』
醜く歪んだ誰かの声が耳に入ると、背筋がめくれ上がる。
もしそう口にした人物を殺してしまえるのなら、本当にそうしてしまいたかった。
しかし絞めて潰してしまいたい首に指は届かず、ただ空を切る俺の両腕をあざ笑うように声は続く。
『別れよう』
無邪気な声は何の臆面もなくそう告げた。
やめろ……。
叫ぼうとする言葉は、一字たりとも声にならず、ただ乾いた空気を通す音にしかならない。
ダメだ……。そんなことをしたら、彼女は……!
ぶん殴ってでもその言葉を止めようと上体が前のめりになるも、どれだけ足を前に出しても前に進まない。
クソ、どうして、どうしてだよ……!
必死に足を上げて、無理矢理にでも全身を前へ前へと持っていこうとするが無意味で、無重力の空間でひたすらもがいているような錯覚を覚えた。
――――
すると突然、世界から光が消えた。
いや、光だけではない。
今は物音一つしない、完全に無の世界だ。
何も見えず、何も聞こえない。
不思議と恐怖はなかった。
その時になぜか感覚で、ある事実を理解したのだ。
「これは……夢か」
冷水を浴びせられたように、焦燥感はみるみる失われていき、ついには無意味にもがいた徒労感だけが残った。
「孔人くん」
そう俺を呼ぶ声が実像を持つ。薄くボヤケた光が視界に浮かび上がった。
「雫……?」
真っ暗な闇の中で、雫が立っていた。
中学の頃から何一つ変わらない姿で。
「どうして……」
「どうしてって言われても……、一緒に帰ってたのに理由なんて聞かれても」
「はっ? あ、あれ……?」
俺と雫は通学路のアスファルトの上に立っていた。
夕陽が眼前から射し込んでくるのが眩しくて、思わず顔の前を手で覆った。
「一緒に、帰ってたのか……」
「そうだよ、ほら、どうしたの? 立ち止まったりして」
優しい笑顔とともに、雫が手を差し伸べてくれる。
小さく細い指先が、夕焼けの光を反射してキラキラと輝いている。
その手に縋りつきたい衝動が背中から身体中に広がって、今にも足を一歩前に、手を彼女の指に伸ばしてしまいそうだった。
もしも、そうできたなら、俺はどれだけ救われるだろう。
このまま何もかもなかったことにしていけたなら、その幸福とはどれほどのものなんだろう。
「雫……」
自分の声がやけにリアルに聞こえたのと同時に、目の前の雫の姿形が突然輪郭線を失い、闇に溶けていく。
「どうして、孔人くんが生きているの?」
全てが失われ消えてしまう寸前に、一つだけそんな言葉が聞こえた。
――――
見慣れたシミが、俺の真上の天井にぽつりぽつりと浮かんでいる。身体の動かそうとするとズシリと感じる重みが、自分の現実を確かに主張してくる。
「……夢、か」
そうこぼれた声は夢の中で彼女の名前を呼んだ時と、とてもよく似ていた。どうやら俺は自分の声で目覚めてしまったらしい。
ゆっくりと身体を起こし、寝癖でボサボサの頭を軽く手のひらで触れてから、スマホで時間を確認した。
午前五時。
道理で外はまだ暗いわけだ。
マラソン大会の練習で、この時期の日の出の時刻を知っている。あと一時間は太陽を見ることは叶わないだろう。
触れた足が冬の冷気でキンと冷やされる。冷たいというより、それは最早痛かった。
布団をはぐとその冷気が体温までも奪っていき、再び毛布の中に戻りたくなる。
しかし例によってもう一度睡眠に戻る気にも到底なれなかった。
最近はずっと夢の中に雫が出てくるのだ。
それはある日は、忘れたい記憶の再生で。
それはある日は、存在するはずのない彼女からの怨嗟で。
それはある日は、彼女の死そのもので。
そのどれもが、俺の心を散り散りに引き裂く。
眠らずにいられるのならそうしたいくらいだが、三大欲求のうちの一つは容赦なく俺を悪夢へと誘い続けた。
だが、眠ってもすぐに目覚めるの繰り返しがあるだけで、実際に睡眠によって休息をとれているのかと問われれば、否と答える他ない。
こんな日々がもう何日続いていることだろうか。もしかしたらもう何週間も経っているのかもしれないし、何ヶ月も経っているのかもしれない。
時間の感覚もとっくになくなっていた。
あるのはただ過ぎる時間だけ。
それを明確に認識することはできない。
学校に行かなければならないから、朝起きて行く。
帰ってきたら寝る。ただそれだけ。
また起きたら学校へ行く。
帰ってきたら寝る。繰り返す。
五回行くと二回行かなくて良くなる。
しかしどちらにしろ教室か自分の部屋の中かという違いがあるだけで、延々と時間が流れていくのを感覚するだけなのは同じだった。外へ出なくて良いのは多少身体的に楽ではあったが、所詮微々たる差に過ぎない。
今日も学校へ行く。
今日も学校へ行く。
――何のために?」
そんな疑問が空に浮かび上がる。
俺はそれを部屋の脇にのけて、ドアを開けた。
――――
記憶が戻ってから、俺の通学路は変わった。
――いや、元に戻ったという方が正しいのだろう。
横目に映る、かつて通っていた中学校。
今いる場所からだと校庭は見えないが、キンと金属バットの音が聞こえて、野球部が朝練しているのだとわかった。
懐かしい、とは思わなかった。ただ、不快感で背筋に汗が滲む。
校舎の方は嫌でも目に入り、無意識のうちにその上方に目が移る。
そこは登ることなんて到底できないくらいに高いフェンスで囲まれていて、かつての事件の存在を声なしで主張していた。
俺は忘れていながら、それでもなお逃げていたんだ。
雫を殺したという事実から。
直接手を下したわけではない。そう言い逃れることはできる。法の下で裁かれることもない。
だが、罪の意識は俺の中に深々と抉りこまれている。
どれだけ目を背けても、別のものへ逃げ込んでも、忘れたとしても、その記憶は一生消えない。
キン、とまた金属音が遠くから鳴り響く。
頭痛に顔をひきつらせながら、重くなった足を引きずってその場を後にした。
――――
コツ、コツ、と床が上履きを弾き返す音が、長い廊下を反射し回りながら進んでいく。
まだ電気も点いておらず薄暗い空気は、灰色がかっているように、俺の瞳には映った。
人気のない空間を一人歩いていると、少しずつ平衡感覚が薄れていく。
上と下の感覚が逆転していく。もしかしたら、これも夢の続きなのかもしれない。
何回も回転した後のように、クラクラと視界が揺れ始める。床はどっちにあるのが正しくて、天井とは何だったろうか。
目が回ったような感覚に包まれながらも、身体自体には歩くという行為が染み着いているようで、思考とは関係なしに正常にまっすぐ歩き続ける。
最早自分に精神なんてものは必要なく、あとはもう勝手に身体が動いてくれるんじゃないか。
そんなことを考えていると、誰もいないはずの世界に、一つ、人影が動いているのが見えた。
「おっ。天笠か。ずいぶんと早いがどうしたんだ?」
いつもと同じように、ワイシャツをダラっと着たタカさんの姿があった。
「別に、早く目が覚めただけです」
質問に答えるのすら面倒に感じるが、それでも無視することはできず、簡潔に短く答える。
「真面目だなー。学生のうちはもっとテキトーでいいのに。教師なんてやれミーティングだ、会議だなんだで、おまえらよりずっと早く来なぎゃいけないんだぜー?」
「……じゃ」
長い話になりそうな予感がしたから、そう言ってすぐ隣を通り過ぎようとすると、不快な臭いが鼻先をよぎり、思わず声が出てしまう。
「くさ……っ」
「お、おいおい。それはさすがに失礼だろ」
「……タカさん、煙草吸いましたね」
タカさんが喫煙者なのはクラス全員が知っている、一種の常識でもあった。授業前でも平気で吸って教室に入ってきたりする。
正直、吸った後のヤニ臭さは不快以外の何物でもない。
「げっ、バレたか」
「すげぇ臭いですよ」
「はぁー。マジかぁ……」
モジャモジャの頭をかきながら誤魔化すように苦笑いするタカさん。その姿を見ていると、こういう大人にはなりたくないなと思う。この人は、いろんな面で適当過ぎる。
何か委員とかを決めるにしても、基本俺たち生徒に任せっきりだし、連絡事項は忘れることなんてしょっちゅうでその度に割を食うのも俺たちだ。
「ところで天笠」
「はい?」
「なんかあったか?」
「……えっ?」
心臓が口から飛び出しそうになった。九郎や神野がそう言うならわかる。でも、どうしてタカさんがそんなことを……。
「なんかって……」
「様子がいつもとちょっと、いやだいぶかな……。一応これでも担任だぞ?」
そう言ってタカさんはニカッと笑った。
「ま、無理にとは言わないが、相談があるんなら聞くぞ」
「べ、別に何でもないですよ」
「だから無理にとは言わないって。いろいろあるだろうよ、その歳なら特にな」
軽く笑みを浮かべるタカさんの顔を見ていると、自分がこの人の掌の上で転がされているような感覚に陥る。
ああ、この人は何だかんだ言って大人なんだな。そんなことを思う。そして自らの矮小さを、強く実感した。
「……タカさんにも」
「ん?」
「タカさんにも、その、いろいろあったんですか?」
そう問うとタカさんの目が軽く上を向き、それからまたさっきと同じように笑う。
「生きてりゃな、いろいろあるもんさ」
「そう、ですよね」
「でもな」
と、その接続詞を境に、タカさんの声が微かに真剣味を帯びる。
「人間って不思議なもので、追い詰められていろいろ考えなくてはって思ってるときほど、視野が狭くなっちまうもんなんだよ」
胸に鈍い痛みが走る。グサリと刃物で刺されたようでありながら、内部で抉られたような感覚だった。
口調も表情も、普段のタカさんそのものだ。しかし、その言葉はどこかあたたかみがあって、それでいて説得力があった。
「視野が……」
「そう。……ま、つまりは俺くらい適当に生きてりゃ、気が楽って話よ」
一瞬だけだが、どうしてタカさんが他の生徒達から人気があるのかわかったような気がした。
この人は、ちゃんと考えた上でこの生き方を選んでいる。ただチャランポランなんじゃなくて、その中に一本筋が通っているんだ。
だから、何だかんだ俺たちのことを見てくれているし、俺のことにも気づいたのだろう。
「……参考にします」
「おう。……なんか説教みたいになっちまったな。俺も歳をとったのかねぇ」
「いえ……」
「何かあったら話してくれよ。その時は下の自販でコーヒーくらい奢ってやるから」
タカさんは壁にもたれかかって、窓の外をぼんやりと見つめる。
今までの言葉も相まって少しだけ様になっているのが、なんとも腹立たしい。
タカさんの目には、この世界はどんな風に映るのだろう。
この世界は、輝いているのだろうか。
全てを楽観できるくらい、深刻な光景には見えないのだろうか。
「あ、そうだ。これ」
「はい?」
ドサッと重量感のある音。目の前に一人で持ち運ぶのが精一杯なくらいの大きさの、段ボールが置かれていた。
「これは……?」
中身を覗いてみると、膨大な量の書類が詰め込まれている。
「いやー、そういや今日までに渡さなきゃいけないの忘れてて。天笠が来てくれて助かったよ」
やっぱりこの人、ダメな教師だ。




