第40話
――十数時間前。
窓の外で土砂降りの雨が降っている。クラスメイトの人たちはそれを見て、憂鬱だとか、湿気で髪がとか、そういう普通の話をしていた。
でも私、神野遥はある人のことが心配で仕方なかった。
その人は今、この教室の中にいない。
昨日、明らかに天笠くんの様子は変だった。駅から出てきたあの人を見た瞬間に、まるで別人にでもなったかのように言動が豹変した。
正直、怖かった。
なのに、そんな彼がどこか悲しくも見えて、放っておけなくて。
そして立て続けに今朝の出来事。
私と会った途端、明らかに天笠くんの顔色が変わった。
もしかしたら嫌われてしまったんじゃないかって思ったけど、少し違和感がある。
それよりもむしろ、昨日のこと。駅であの人と会った時に何かあったと考えるほうが自然な気がする。
「遥?」
「は、はいっ!?」
「別にあたしは先生じゃないよ」
ケラケラと私の席の傍でエリが笑う。
「ボーッとしてたね。また天笠のこと?」
「うん……」
「?」
怪訝そうにエリが首を傾げた。
「どうしたの?」
「いや、だって遥、そういうこと聞くといつも顔真っ赤にするじゃん」
「そうかな……」
「そうだよ。……何かあったの?」
エリの声のトーンが一段階下がった。おちゃらけている調子から、スイッチを切り替えたように。
「……昨日ね」
それから駅での出来事と、今朝のことをエリにかいつまんで話した。
普段ならおどけて冗談をかますエリが、途中で何も口を挟まないでくれたのが嬉しかった。
「そっか……。それに合わせて今日もまだ学校来てないから……」
「うん……心配で……」
「天笠、遅刻なんてめったにないし、確かにちょっと変だね」
そう言ってエリは空白の席へと視線を移す。釣られて私もそこを見るも、ついさっきと変わらずやはり天笠くんの姿はない。
「あいつならなんか知ってんじゃない?」
唐突にエリがそう言った。
「あいつって?」
「鷺坂だよ。あいつらホモかってくらい一緒だし」
「ホモって……」
「おーい、鷺坂ー!」
突然大声を上げるエリ。一瞬教室中の視線が一気にこっちに集まる。
エリはその大雑把な性格からか、こういうことをよくする。
教室の隅の方で静かにしていたい私としては、なるべく目立たないでいたいんだけど、一年近く一緒にいて少しは慣れた。
「あ……?」
教室の反対側で眠そうに目を擦りながら鷺坂くんがこっちを向く。
「天笠はー?」
「声デケェな……。孔人がどうかしたのか?」
「まだ来てないから」
言われて初めて気づいたらしく、鷺坂くんが辺りをキョロキョロと見回す。
「来てねぇのか。また風邪でもひいたんじゃねぇの?」
「知らないの? いつも一緒なのに?」
「別にオレはホモじゃないからな?」
「あ、さっきの聞こえてたんだ」
キーンコーンカーンコーン。
二人の会話はスピーカーから流れてくるチャイムの音で途切れた。
教室内に散らばっていた生徒たちが、それぞれ自分の席につき始める。その中には未だに天笠くんの姿はない。
授業が始まる時間になって先生が入ってきても、その席は空白のままだった。
――――
一限目の授業が終わると、教室の後ろの扉がガラリと開いた。反射的にその音のする方へと目を向けると、心臓の鼓動が大きく高鳴る。
そこに、天笠くんはいた。
なぜか、ジャージ姿で。
思いもよらない姿で一瞬固まってしまったけど、すぐにその理由を察した。
この雨の中、きっと天笠くんは傘を持っていなくて制服がびしょ濡れになってしまったのだろう。
でも、だからってこんな大遅刻をする理由がわからない。
むしろ雨が降っていたのなら、すぐにでも学校に来ようとするはず。
考えれば考えるほど、自分の中での天笠くんの人物像が不鮮明になっていった。
いつもの優しい印象とはかけ離れた今の彼は、別人みたいだ。
昨日の天笠くんとも違う、どれが本物の天笠くんなの……?」
「お、孔人。ようやく来たか……って、なんだその格好。なんでジャージなんて着てるんだ」
鷺坂くんが天笠くんの姿を見て思いっきり吹き出した。
「まぁ、いろいろ……」
「……?」
やっぱり、何か変だ。
いつも鷺坂くんに対しては素っ気ないけど、今日のはどこか違う気がする。
「おいおい、どうしたんだ? なんか元気ないぞ?」
「…………」
「無視かよ……。おーい、どうしたんだよー」
「…………」
天笠くんの周りでふざけている鷺坂くんを、文字通り無視して自分の席に座ってしまう。
そしてカバンを机に置くと、そのまま流れるように教室からまた出ていってしまった。鷺坂くんも背後霊のようにそれについて行く。
「あれ? 天笠来たんだ」
「……みたいだね」
「遥? どうかしたの?」
「ううん……なんでもない」
――――
「クソ……っ」
教室に戻って来るなり、鷺坂くんが舌打ちをする。
鷺坂くんと一緒に戻ってきたわけではないようで、天笠くんの姿はない。
「どうしたの……?」
「ああ……神野さんか。いや、何でも――」
「絶対何かあったでしょ」
「沢上まで……」
鷺坂くんが苦々しく歯を噛み締める。
しかし――、
「……悪い。ちょっと言えねぇ」
「言えないって、どういうこと?」
「ちょっとした喧嘩みたいなもんだ。……たぶん」
「たぶんって、歯切れ悪いね」
「それと、今の孔人にあんま近付かない方がいいかもしれねぇ」
視線を教室の扉の方へ向けながらそう言った。
天笠くんの唯一と言ってもいい友達である鷺坂くんがそんなことを言うなんて、いったいどんなことになっているのだろう。
「どうして……」
「……戻っちまったんだ」
「戻った?」
全く予想だにしていなかった言葉に、思わず反射的に同じことを繰り返してしまう。
「これくらいしかオレには言えない。すまん……」
それだけを言い捨てるようにして、鷺坂くんは私たちに背を向けて自分の席に戻った。そしてまたいつものように、机に突っ伏して眠ってしまう。
しかしその姿は、どこか悲しく寂しげな空気を漂わせていた。
――――
「トイレまでついて来るつもり……?」
「え? ちょ、ちょっと――!」
伸ばした手が空を切る。
天笠くんはそんな私に気づいてか気づかずか、そのまま教室から出て行ってしまった。
「…………」
かすりもしなかった右手はぼんやりと宙に浮いたまま。
あそこまで誰かに拒絶されたことなんてない。
何が悪かったんだろう。話しかける内容には気遣ったつもりだったけど、やっぱり無神経だったのかな。
すごく冷たい目だった。
思い出すだけで背筋がゾワリとして、同時に胸が苦しくなる。
嫌われちゃったのかな……。
そう思うと全身から汗がどっと噴き出るような感覚と、そのショックの板挟みで泣いてしまいそうになった。
「何なの、天笠のやつ……。感じ悪……」
いつの間にか隣まで来ていたエリがそう呟いた。声には強い軽蔑感が滲んでいる。
「もうあんなやつなんかほっとこうよ。相手にするだけ時間の無駄だって」
「……そうかも。だけど、私はここで待つよ」
「ふぅん、どうして?」
「まだわからないから……、わからないままは嫌なの」
自分でも意味不明だと思った。だが、思考をそのままに口にしたような理由でエリには十分だったらしく、一度私の肩を軽く叩いてから踵を返した。
「……本当に遥って、将来ろくでもない男に捕まりそうで恐いよ」
私が返答する間もなく、エリが遠ざかっていく。
ろくでもない男とは、天笠くんのことを言っているのだろう。
確かに、この言動のみを目にしていれば、そう思うのに無理はない。むしろ自然な反応だと思う。
でも、私にはそれらが天笠くんの本性だとは、どうしても思えなかった。
机の上に置き去りにされた、ほとんど手を付けられていない弁当箱。
ゴマ塩がふりかけられた白飯の箱と、もう一つ別の箱にはおかずがギッシリと詰められている。
こんなに食べるんだ……。
思わずそう口にしてしまいそうになる。
男の子の食べる量が自分たちとは比にならないというのは、話には聞いていたが実際にこうやってまじまじと見ると、その壮観さに圧倒された。
天笠くん、まだかな……。
――――
「もう、話しかけないでくれ……」
――――
昼休みの後の授業は、言ってしまえば散々だ。天笠くんの顔が頭から離れてくれない。
デパートに行った時の穏やかな表情と、ついさっきの世界が終わってしまったような絶望に満ちた表情が、交互に入れ替わるようにちらついてきた。
考えても辛くなるだけなのだから、考えなければいい。投げ捨ててしまえばいい。
自分にとって不快な物事について、わざわざ好き好んであれやこれや考えるほど、自分はメンヘラめいた人間でないはずだ。
そのはず、なのに。
『神野』
その人に自分の名前を呼ばれると、いつも驚いて少しだけ身体をビクつかせてしまう。
その人の姿を見るだけで、なんてことのないはずの一日が幸福に包まれる。
その人の近くにいると、すごくドキドキして、でも胸の辺りがぼんやりあたたかくなる。
いつからか、そんな感情を天笠くんに抱くようになってしまっていた。
席が隣になった頃からなのか。
それともマラソン大会で一生懸命走っている姿を目にしてしまった瞬間からなのか。
私のキーホルダーのために奔走してくれたからなのか。
二人きりで一緒に映画を見に行った時からなのか。
わからない。
いつからなんて、わからない。
でも、私は天笠くんのことを好きになった。
恋に、落ちていた。
だから、このまま放っておくなんて、できるわけがない。
天笠くんが何かに悩み、苦しんでいるのなら、少しでもその力になりたい。悲しんでいる姿なんて、見たくなかった。
あと少しで学校が終わる。そうなれば天笠くんは、きっとすぐに帰宅するのだろう。
だからそれを逃がさないように、多少のハプニングにも負けないように、心の準備をしておかなければ。
ふと、後ろを振り向いて天笠くんの姿を探す。
自分の席にて天笠くんは頬杖をついていて、その顔は前方の黒板には向いていない。窓際の席からすぐ隣にある外の風景をただ眺めている。
さらにその視線を追う。
どんよりと重そうな雲が空一面を覆い、落ちてくる水滴の大群は本来望めるはずの景色に、薄いモザイク模様をかけている。
何を見ているんだろう……?
雨はまだやみそうになく、むしろ朝よりも一層その勢いを増している。これでは放課後になっても、まだ降っているだろう。
雨……そうだ!
――――
「その人を俺は……、殺した」
「もう、俺に近付かないでくれ」
「目障りなんだ」
――――
「……っ」
自分の部屋の扉を開いた瞬間、張り詰めていた緊張が一気に解けて、嗚咽を漏らしてしまう。
カバンが指からすり抜けて、音を立てて床に落下する。そのまま立っていることすらもままならなくなり、カーペットに膝をついた。
「うぅっ、う……っ」
胸が締め付けられるようだった。
ついさっき話された天笠くんの中学生の時の話が、幾度となく頭の中で繰り返される。
四宮雫。
天笠くんの中学生の頃の元カノ。
しかし彼女はクラスの人からいじめられて……。
考えれば考えるほどに、やりきれない思いが心を圧迫する。
話は聞いたことがあった。隣の中学で屋上から飛び降りた生徒がいたという。
完全に他人事だと思っていた。テレビの向こう側で繰り広げられるニュースと変わらない感覚だった。
でも、一体どれだけ天笠くんは苦しんだのだろう。もしも自分が同じ立場になったとして、はたして立ち直ることができるのだろうか。
わからない。
私の身の回りで誰かが死んだなんてことは、今までに一度もない。
「……だからなのかな」
あんなに天笠くんが怒ったのは。似た経験もしていない私の言葉が、余計に癇に障ったのかもしれない。
今になって考えてみても、なんて言えばよかったのか。
私には、何もない。
ごく平凡な人生を送ってきたと自分でも思う。
平凡な幸せと、平凡な不幸を、少しずつ享受して生きてきた普通の人間だ。何の壮絶さも、何の波乱万丈もない。
そんな私が何を言ったところで、天笠くんに届いただろうか。
天笠くんの心を動かせるような言葉を、伝えることができたのだろうか。
きっとその答えは、ノーだ。
なら、私にできることは何もないのだろうか。
私にできることは、何も……。
……。
…………。
答えは、その片鱗すらも私の中に浮かんできてくれない。
無力だ。
私は、無力だ。
好きな人が苦しんでいるのに、何もしてあげられない。
無力だ。
「……でも」




