第4話
当然ながらウチの高校も他と同様に屋上は基本的に立入禁止だ。
唯一認められている天文部だって、夜の間だけで教師の監視つきだ。
しかしながら俺は、そこへ足を踏み入れる方法を知っている。
階段を上る。なるべく目立たないように、自然に、腿を上げて全身を上昇させる。
屋上が立入禁止なのだから、最上階である四階よりも先に上ろうとするのは、頭の沸いた行動でしかない。これが四月あたりであればまた話は別だが。
ところがどっこい、新年はとっくに越えて真冬真っ盛り。
一年生の中にも屋上に足を運ぼうとする輩なんているはずがない。
――まぁ、それが逆にありがたくもあるんだけど。
『立入禁止!』
この辺りは普段使われないこともあって物置になっている、屋上へと向かう階段の途中の踊り場に出ると、赤字でそんなことを書かれた貼り紙が目に入る。
埃が一歩進めるごとにそこらから舞い上がってきて鼻がムズムズする。
屋上という場所はドラマや映画では学生の青春の一ページとしてよく出てくるが、実際にそんな風に使うことはできない。
あの世界の人たちの学校とはどうなっているのだろうか。
さて、扉の前にたどり着いたわけだが、さっきの通り鍵がかかっていて開かない。
ここで普通の人間なら諦めて階段を降りていくことだろう。しかし遡ること半年以上前、四月の俺はそうしなかった。
友達のいない男子高校生の余暇は、読んで字の如く、最高に暇なものだ。当時はまだ九郎ともあまり話さず、本当に一人だった。
物置同然の踊り場と同じく、屋上の扉付近にも物が散乱している。その中に何か方法がありはしないものかと探ってみたら……。
僥倖とはこういうものを言うのだろう。
あったのだ、奇跡的な抜け穴が。
俺はいつもと同じように隅の本棚をどかすと、上履きに微かに差し込んでくる光を確認した。
足元にあるのは、通気用のスライド式の窓。
それ用に設計されたわけではないのだろうが、ギリギリ人が一人分入れる広さだ。
もちろんこれも鍵がかかっているはずで、実際に開く方向にどれだけ力を加えようともビクともしない。
しかしだ。
「おい、しょと」
おっさん臭いかけ声と一緒に低い体勢になって、窓の取っ手に指をかける。
「……あ」
神野におっさん臭いと言われてやめようと思っていた一声が、無意識のうちに出てしまっていたことに気づく。
ちゃんと意識してやめようとしないと、本当におっさんになってしまう。
一度力を窓を『閉める』方向へ入れて、そのままの状態でさらに上に力を込めると――。
ガッチャン。
金具が外れたような一瞬不安になる音。
キキー……。
そして窓は若干の金属の悲鳴を上げながら、ぎごちなく開いた。
その先には屋上の地面があり、顔だけ外に出して上の方を見上げる。
真っ先に見えたのは空だった。
頭上一面を塗り尽くした青。
それ以外のものは存在しないんじゃないかと思ってしまうくらい、屋上の空は広かった。
この辺りは他に高い建物がない。だから視界から空を遮るものがなく、地上から見るよりもずっと広い。
「おぉ……、やっぱさみぃな……」
マフラーくらい持ってくるべきだったな。屋上に来るのは久しぶりだから、冬なのすっかり頭から抜け落ちていた。
屋上は温度こそ低いものの、見える光景が綺麗だ。
どこまでも続く街並み。そして青空。
空と地上の境界線は遥か彼方。形は朧気で、まるで世界が無限に続いているように見える。
だからこの場所が好きだ。
九郎にも屋上への入り方は教えていない。
何百人もの学生の中でもここにいる人間は俺一人だけだ。
やはり一人はいい。
自分以外誰もいないという状況は、人がたくさんいる中での疲れを癒やしてくれる。
「う……ん……」
身体を思いっきり伸ばすと、さっきまでの疲労感が一気に外へと抜け出ていく。
入り口の窓からまっすぐ歩いた先の金網付近が、俺の定位置だ。
そこでフェンスを背に座ると、上方は一面の空、下方は広がる街並みという、これまたなかなか絵になる風景。
「いただきます」
母親への圧倒的な感謝を捧げて弁当に手をつける。
学校の屋上という非日常感が、弁当の味をさらに引き立ててくれるから好きだ。
「次の授業は……」
無意識的に思い浮かび口にした言葉は風に流されて、空気中で分散されて、どこかへと飛んでいく。
ここなら音量さえ気にすれば、いくら一人言を呟こうとも気にする必要がない。誰もここにいないのだから。
空をぼんやりと見上げる。
ほとんど全てが青い背景の中で、いくつか白くて小さな物体が、おぼろげに点々と位置している。
ずっとそれは動かないように見えたから、きっと今日のあの辺りは風が弱いのだろう、とか思った。
九郎との会話以上にくだらなく、そして無意義な時間。
それが心地よくて仕方がない。
友人が多かった頃には、決してとれなかった時間だ。
――友人が多かった頃。
それはたぶん数年前の話で、俺が中学の頃のことだったと思う。
当時の俺は自分で言うのも何だが、クラスの中心に位置するような人間だった。
今のような性格でもなく、もっと社交的で活発な気質だったのだ。
スクールカーストというものの上位組、つまりは運動部や今で言うリア充が集まるようなグループに属していた。
元々の性格に合わせて、陸上部に所属していたからというのもあるのかもしれない。
もちろん中学生の頃は、そんなことをまるっきり意識なんてしていなかったのだが。
今の地位に落ち着いてようやくそれが見えたのは否めない。
そんなことを考えるような余裕なんてなくて、毎日誰かとグダグダと駄弁ったり、休日もカラオケ行ったり遊園地に行ったり。
友人が多ければ多いほど、自らを縛る枷も比例して増えていく。
しかしそれを煩わしいとも思わなかった。正直なところ。
それなりに充実した毎日を送っていて、楽しかったのだろう。
でも、いつだったかを境にそれに嫌気が差した。
中学三年になり受験モードに本格的に突入する頃には、俺の周りから友人と言える人間はほとんど去っていた。
おかげで勉強に集中できて、高校もそれなりの公立に入ることができたのだが。
「……何があったんだっけ」
改めて鑑みてみると、少し不自然だ。
「思い、出せないな……?」
何かあったような気がする。
今のように、人間関係を増やしすぎることが嫌になったきっかけが。
しかし数年前の記憶は、早朝の霧に包まれたようにひどく曖昧な情景だ。
まるで目覚めた時に思い出す夢の残骸のように。
でも思い出せないということは、それだけのものだったに違いない。
きっと受験勉強の邪魔だと友人を切ったのだろう。今の自分ならそれくらいのことをしかねない。
そしてその末路に行き着いた一人ぼっちの屋上という世界。
これはこれで――。
「……悪くないな」
水筒の中の水を飲む。
いつの間にか乾ききっていた喉を冷たい流体が通りきった後は、広い空という背景と相まって清々しかった。
――――
屋上から屋内に戻り、本棚を元の位置に戻して教室へ帰る。
もう九郎は起きているだろうかと思って扉を開くと、予想の通り一人で弁当を食べている最中だった。
悪いことをしたかな、と一瞬思ったが、いやいやと首を横に振る。九郎だって基本的には一人でいる方を好むタイプだ。
俺がいないことで困るかと言えば、恐らくそうではないだろう。
だから一緒にいて気楽でいい。
「お」
九郎は俺が戻ったことに気づくと唐突に席から立ち上がり、そのままズイズイと俺に近づいてくる。
「な、なんだよ」
「お前どこ行ってたんだよ!?」
「はぁ?」
「寂しかったんだぞぉっ!! 俺はぁっ!!」
前言撤回。
ぜんぜん大丈夫じゃない。
「……って、んなわけねーだろ」
脳天にチョップをかましてやる。
「いたっ」
「で、本音は」
「普通にどこ行ってたんだって話だよ。てか本音も何も、オレは寂しかったんだぞ!」
「別に、外で食ってただけだよ」
嘘はついていない、嘘は。
「この寒空の下でか?」
「この寒空の下でだ」
「頭沸いてるだろ」
「ああ。だから頭が冷えてちょうどいいんだ」
訝しげに俺の目を見つめる九郎。
しかし嘘をついているわけではないから、彼の言及から逃れるのは大した苦労ではない。
「……ま、いいか。そういや今日の放課後空いてるか?」
「空いてるけど、まさか……」
九郎はニヤリと口角を上げる。
こいつから放課後に誘われるとは、用件は片手で数え上げられる程度しか思いつかない。
そして、こんな風に笑みを浮かべるということは――
「ああ、そのまさかだ」