第39話
雨の勢いは収まることを知らず、頭上の屋根を打つ音が喧しい。
辺りは既に日が沈んで暗くなっていた。
あの日と同じように常夜灯の光が、ベンチの付近だけを照らしている。
長い話になるとは思っていたが、まさかこれほどになるとは思ってもみなかった。
「…………」
神野はただ呆然と俺の顔を見つめたまま動かない。
かける言葉を探していると言うより、完全に思考が停止してしまっているようだ。
全身がドロドロの鉛に包まれたように重い。そしてそれ以上に心が疲弊しきっていた。
全ての記憶は昨晩の時点で鮮明に戻ってきていたが、それらを自分の口でもう一度再現するのは、最早拷問に近い。
でもまだ話は終わっていなかった。
神野の目は少し潤んでいるように見える。
しかしそれに気づかないフリをして、さらに話を続ける。
「俺のせいで雫は苦しんで、そして自殺した」
「……っ」
神野の顔が苦虫を噛み潰したようにグニャリと歪む。
「死ぬ間際にさ……、目が合ったんだ」
「えっ……?」
「俺の顔を見ていた。睨んでいたんだ。雫は、俺のことを恨んで、恨んで、恨みながら死んだ」
雫が落ちていくのを、俺はただ眺めていることしかできなかった。
「俺と一緒にいたせいで雫は標的になった。俺が好きになったせいだ。俺が雫に近づいたせいだ。俺が余計なことをしなければ今だって雫は……」
彼女が傷つき苦しんでいくのに、気づいてやることができなかった。
「なのに、俺は気づけなかった。ずっと一緒にいたのに、手遅れになるまで、傷ついていることに勘づくことすらできなかったんだ」
そして最後の最後で裏切り、雫を奈落の底へと突き落としたのは、他でもない自分自身。
心の中の声が崩れた体裁のままあふれ出てくる。止めようにもその方法もわからない。
「俺のせいで雫が死んだ。雫の幸せを、未来を、命を奪ったのは俺なんだ」
「そんな俺が、幸せになって良いわけがないんだ」
「俺が、雫を殺したんだ」
「俺が、殺した」
「俺が雫を殺した」
「俺が殺した。殺した。死んだんだ。もう生きていないんだ」
「もう雫は好きな本を読むことができない」
静かに机に本を置いて読んでいた姿。
「面白い映画を見て笑うこともできない」
何よりも愛しかった彼女の笑顔。
「美しい風景を見て感動することもできない」
泣き虫で、何かあるとすぐにこぼしてしまった涙。
「その機会を、権利を奪ったのは俺だ」
いくつもの雫の映像がまぶたの裏に浮かんでくる。
幸せそうな彼女の姿が、そこにある。
二度と戻らない瞬間が、いくつもいくつも記憶の底から掘り起こされていく。
「俺のせいで死んだ。死んだ。死んだんだ。俺が……殺したんだ……っ」
みるみる膨れ上がる後悔で、胸が張り裂けてしまいそうだった。
むしろ張り裂けて欲しかった。このままバラバラに粉砕してしまいたかった。
「なのに、どうして俺が生きているんだ……?」
のうのうと生きている自分という存在の罪深さが、耐えられなかった。
「生きるべきだった雫が死んで、生きているべきじゃない俺が生きている」
許さない。
耳の奥で最期の言葉がもう一度聞こえる。
「こんなのおかしい。間違っている。どうして俺は生きているんだ?」
「天笠くんっ!!」
それまで聞いたことのないくらいに喉が張り裂けそうな声に、肩を大きく揺さぶられた。
神野の声と手の温度が俺の意識を現実に引き戻した。目元に手を当てると生暖かい液体が俺の人差し指の腹を濡らした。
「そんなに、自分を責めないで……!」
泣きそうになりながらかけてくる言葉は俺には痛いくらいに優しくて、同時に腹立たしくもあった。
「なんでそんなことが言えるんだ……?」
ハッと顔を上げる神野の表情は凍りついていた。理解不能なものへの動揺がびっしりと貼り付いている。
「神野に何がわかるんだ? あの時の俺のことも、雫のことも、何も知らないくせに、どうしてそんな無責任なセリフが口から出てくるんだ?」
「そ、そんなつもりで言ったわけじゃ……」
「ならどんなつもりで言ったんだ?」
「きゃっ!?」
苛立ちが脳天を突っ切り神野の肩を強引に掴むと、細い身体が大きく揺れた。
予想外だったのか神野に抵抗力がなく、二人の上体がそのままゆっくり倒れていく。
「んっ!」
衝撃音と神野の声が重なり、痺れるような手の感覚だけが砂漠に置き去りになったように、不自然に単独で存在している。
雨音すら聞こえない。世界を支配するのは自分の心臓音のみ。
自分の両手の間で、細かく震える吐息を漏らす一人の女子の顔。
改めて自分の状況を鑑みてみると、俺が神野を押し倒すという形だ。
時間も時間でこの天候だ、誰も今の自分たちを見ているものなどいない。
二人きりの公園で男が女を押し倒しているなんて、どこぞの安っぽいラブコメディのワンシーンみたいだ。
なのに、そういった二人とも全くそれとは正反対のことを考えている。
神野は恐怖、俺は痛烈な嫌悪感で頭の中がいっぱいだ。
これは神野の言葉へ抱いたものであり、そして同時に自己嫌悪でもあるのだろう。
だから、この行為だけでも十分だろうが、もう一つダメ押しとばかりに神野へ送る言葉。
「さっきのだけど、答えはノーだ」
できるだけ短く簡潔に。
そして彼女の心を傷つけられる言葉を。
「もう、俺に近付かないでくれ」
二度と、天笠孔人という人間と関わりたくなくなるように。
「目障りなんだ」
――――
靴に侵食してくる泥水が、どん底に落ちた気分をさらに奈落へ突き落としていく。
弱い力で胸を恒久的に締め付けられるようで、下手に強い力で一気に破裂させられるよりもよっぽど酷だ。
行きの時と同じように制服も髪も完全に濡れているが、視界が薄暗いのも相まって、より一層家路を歩む足取りは重い。
「これで、いいんだよな……」
九郎も神野も、近くにいたって鬱陶しいだけだ。いい厄介払いになったものだ。
ようやく周りから誰もいなくなった。
これで――
「いい……はずなのに……」
どうしてだろう。
「なんで……っ」
どうして、
こんなにも、胸が痛いんだ。
――――
「…………」
「天笠くん……」
「あんな辛そうな顔されたら……」
「…………」
「……ごめんね」
「そんなの、聞けるわけないよ」




