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第37話

 雫は死んだ。俺と別れた次の日に。

 最終的に頭から落ちたらしく、だから辺りには彼女の脳漿や血が散らばっていて、目も当てられないことになっていたらしい。

 らしい、と言うのは、その惨状を俺は見ていないからだ。

 あの日、俺は机から一歩も動くことができず、ただ周りが騒いでいる中、窓から目を離せなかった。

 担任に強引に机から離された時には、もう雫の遺体は運び出されていた。


 雫が死んだ。

 雫が、


 死んだ。


――――


「……ねぇ、無理しなくてもいいのよ?」


 朝食を食べ終わり立ち上がると、母さんが静かにそう言った。

 俺と雫が付き合っていたことは、もう母さんにまで知れ渡っていた。

 だからこの心配は必然的であり、その言葉に甘えてしまっても良かった。

 確かに本当に今、学校へ行きたいのかと問われれば、イエスと答えるのは嘘になる。

 しかし――、


「ううん、大丈夫だから」


 小さく首を横に振った。

 母さんの心配が払拭できるように、平気そうな表情を顔に貼り付けながら。


「……そう」


 安心したようには見えないが、当の本人である俺の意志をねじ曲げる気もないようだった。

 カバンを背負って玄関まで足を運ぶ。朝練は行かなくなっていたから、時間にはかなり余裕がある。


「無理しなくていいのよ」


 もう一度背中からかけられる声は優しさに満ち溢れていて、思わず踵を靴に入れようとしていた手が止まった。

 このまま何もかも投げ出してしまいたい衝動が、胸の中をいっぱいにする。

 が、それもギリギリで踏みとどまり、靴を完全に履く。


「無理なんかしてないよ」


 それだけをどうにか口にして、ドアノブに手をかけて、開ける。

 湿った空気が顔に触れてきて不快だったが、それでも足を強引に進めて家を出た。


「いってきます」


 そんな日々を重ねて、一週間が過ぎ去った。

 一週間が長いのか短いのかわからなくなった、そんな七日間だった。


――――


 もう夏もすぐそこまで差し迫ってきているようで、ワイシャツの中の温度がどんどん高くなり暑い。

 どこかからセミが鳴く声。まだ時間も時間だから少なく耳障りでもないが、夏の到来を告げるには十分過ぎた。

 いつか、一緒に花火に行こうと言ったことを思い出す。あの時の雫の笑顔が頭に浮かんで、鈍く頭が痛んだ。

 しかし、どれだけの頭痛が押し寄せても、張り裂けそうな程の胸の痛みに襲われても、涙は一滴もこぼれてこない。


 あれから、一度も涙が頬を伝うことはなかった。

 泣いたら、悲しみも後悔も一緒に俺の中から、流れていってしまうような気がしたからだ。

 それが許せない自分がいた。

 俺のせいで、雫は死んだ。

 だからその苦しみを受け続けなければならない。

 今もなお学校へ休まず登校するのも、涙を流さずに今まで通りに過ごそうとするのも、全ては雫への贖罪だ。


 a。

 a。

 I。


 彼女の唇が象った最期の言葉。


「許さない」


 ポツリと漏れ出た声が、雫の声と重なる。

 あの瞬間、確かに彼女の声が聞こえた。

 窓はしまっていたから聞こえるはずがないのに。


『許さない』


 そう俺をまっすぐ見据えながら、そう口にした雫の声が聞こえたのだ。

 雫は屋上から飛び降りてから、いや、俺が公園で別れを告げた瞬間から、死ぬその時まで、俺を憎んでいたのだ。

 俺と付き合ったせいで傷ついて、なのに原因である俺は気づかずにのうのうと生活していて。

 守ることもできなかったくせに、別れるという逃げの選択。

 そんな罪を犯した俺を、どうして憎まずにいられよう。


「……またか」


 五分も歩くと、うっすらと人の形をした幻影が現れるようになった。

 雫が俺のすぐ隣を歩いていて、やわらかな笑みを浮かべながら俺の目を見つめる。


『孔人くん!』


 やめろ……。

 衝動的に声が口を衝いて出そうになる。

 俺の顔はきっとひどく歪んでいることだろう。

 そんな俺とは関係なしに、雫の表情は穏やかだ。

 当たり前だ。全て、俺の記憶に過ぎないのだから。


 雫と一緒に歩いた道に差し掛かると、その思い出がフラッシュバックしてくる。

 どこを見ても雫がいた時の景色とタブり、もう二度とそんな瞬間は戻ってこないのだと突きつけられる。


「うっ……」


 胃の奥から何かが逆流してくるような気がして、とっさに側溝に身を屈める。

 しかし、何も出てこない。

 なのに、形容しがたいほどの吐き気が今もしている。

 何もかも吐き出してしまいたいのに、それは許されず肉体と精神をひたすら蝕み続ける。


「雫……」


 そう呼んでも、幻の影となった彼女は何も応えてくれない。


――――


「~であるから、よってこのxは――」


 黒板に白いチョークで綴られた数式を、そのままノートに書き写す。

 少しの工夫も凝らさず一字一句変えずにノートを取る自分は、まるでロボットみたいだ。

 先生の話は聞いているようで内容はほとんど頭に入らず、ただ声が耳を通り抜けていくのをぼんやりと感じて、時間が過ぎていく。

 もしも何もなかったら誰かしらが、真面目に授業を受けているように見える俺をおちょくるのだろう。それで俺も適当な軽口を返したのかもしれない。

 しかし、誰も俺に話しかけてはこない。

 あの事件があってからは、一度も。


 視線が自然と斜め前の方へ移る。

 雫がいた席が、まだそこには残されている。

 机の上に置いてある透明な花瓶には、何本かの花が挿されている。

 そこに座っていた人間が、もうこの世にいないことを示す儀式的な置き物から、どうしてか目が離せなかった。

 言葉や書類に書かれた文字よりもずっと、雫が死んだことを思い知らされるようで、すぐにでもそこから目を逸らしてしまいたいのに、それができない。


「…………」


 湧き上がる嫌悪感は徐々に脳髄を締め付ける万力のようなものに変わっていき、指先が震え始めてようやく俺は席から目を離すことができた。

 黒板を一旦通過して、そのまま視線は左へと移っていく。


 青空だ。

 どこまでも透き通るような、青。

 しかし世界は急速に暗闇へと転換する。

 一瞬の暗闇が晴れると再びそこには青空。


 空を背景に黒い人影が現れていた。


『……ない』


 反射的に耳を塞ぐ。

 無意味な行為だ。彼女の声は外部からではなく、俺の内側より発せられているのだから。


『許さない』


 どこにいても同じ言葉が繰り返される。

 いつなっても同じ視線が俺を見ている。

 どこにいても、いつになっても、同じ声、同じ目。


『どうして、私と別れたの?』


 声がした。

 答えようとした。


「……っ」


 だが、声は、出ない。

 喉のすぐ奥のところまで来ているのに、見えない力で強引にせき止められている。


『そもそも孔人くんと付き合わなかったら、こんなことにならなかったのに』


 違うんだ……。


『あんなに苦しい思い、しなくて済んだのに』


 違うんだよ……。

 あんなことになるなんて、思ってもみなかったんだ。


『なのに、私は耐えてたのに、どうして、私と別れようなんて――』


 やめてくれ……っ。

 俺は、俺は、雫が……!


『――そんな、無責任なことを言ったの?』


 胸に杭が打ち込まれる。

 固い物が砕けるような音が、鼓膜の奥で騒がしいくらいに残響する。

 雫の言葉に、何も返せない。


『私のため? それとも、自分のため?』


 俺の胸が真っ赤になるのを意にも介さず、そのまま雫の口上は先へと続く。


『本当に私が苦しんでいたからなの?』


 そうに、決まっているじゃないか。

 じゃなきゃどうして、好きな人と別れようなんてするんだ……。


『違うでしょ?』


 また視界が唐突に変貌する。

 俺は、公園のベンチに腰掛けている。

 日が沈んだ後の公園を照らすのは、上に伸びるポールの先から放たれる外灯の明かりだけ。

 ハッとなって胸に手をやるが、傷跡どころか血すら一滴も付着していない。しかし痛みと感触は、未だ五感にこべり付いたままだ。


「……!」


 視線を感じて見上げると、頭上から強い軽蔑を込めた眼差しが、俺に向けられていた。

 俺の身を貫き、文字通りに蜂の巣にしてしまうんじゃないかと錯覚してしまうほどに、その視線は鋭かった。


 しず……く……?


 声は未だに一言も俺の口から出てこない。

 頭の中では言葉が形成されているのに、喉から先に進んでくれない。

 そんな俺を無視して、雫は言葉を続ける。


『好きな人が苦しんでいるのを、自分が見たくなかったから』

『自分が苦しみから解放されたかったから』

『それが、孔人くんの本心でしょ?』

『そういうの、前に本で読んだことがあるの。知ってる?』


 それ以上先を聞きたくなくて、手を伸ばそうとした。

 しかし俺の身体が動くよりも先に、雫の唇は言葉を紡いだ。


『偽善者っていうの』


 そう俺に言い放つ雫の瞳は、まるで暗がりで潰れて死んでいるウジ虫を見るように、冷たい。

 何かを口走ろうとしていた脳が動きを止める。全ての単語が消え失せてしまう。

 さらに雫の糾弾は留まることがない。


『自分勝手に好きになって』

『自分勝手に告白して』

『自分勝手に苦しんで』

『そして、自分勝手に投げ捨てた』


『全部自分のために、孔人くんは、私を殺した』


「うわぁぁぁああああああああああああっっっ!!!!」


――――


 俺の叫び声を後に、教室の中はしんと静まっていた。

 自分の周りを見渡すと、クラス内の誰もから視線を俺に向けられていた。


「はぁ……、はぁ……」


 カラカラに乾いた喉が、久しぶりに出した声の振動のせいで痛い。


「…………!」


 皆鳩が豆鉄砲を食ったように目を丸くしているが、誰も何も言わないのが不気味だった。

 俺が何も言わないままでいると、それらは次々と訝しむようなものに変わっていく。

 その数はどんどん時間の経過に比例するように増えていく。

 何か言って場の雰囲気をどうにかしないといけないと思ったが、言うべき言葉が見つからない。頭が回っていないのだ。

 一挙一動が刺すような視線に監視されていて、ただ一度息を吸うことすらもままならなかった。


「天笠……大丈夫、か……?」


 教師が恐る恐る尋ねる声が、沈黙で満ちた空間を切り裂く。

 押さえつけられていた肺が解放されて、一気に空気を吸い込む。

 吐く息が全身と一緒に震えていて、まるで身体が自分のものじゃないように思えた。


「だ、大丈夫、です……」


 もう一度息を吸って口に出した声はまだガチガチに震えている。


「すいません。ちょっと保健室に」


 教室全員からの視線が耐えきれなくなり、逃げるように駆け出した。

 が、誰かの椅子の脚に引っかかって体勢が前のめりになり、そのまま倒れそうになった。無理やり両手をついて、体勢を立て直して教室から出ていく。


「はぁ……っ、くそ……っ!」


 じめじめと湿った空気で、シャツが肌に張り付く。

 おぼつかない足取りで学校の中をさまよい歩く。

 しかしどこにも逃げ場はない。


『…………』


 記憶の中に雫がいない場所がなかった。

 廊下にも、校庭にも、図書室にも、保健室にも。

 俺と雫の歩いた場所がある。

 どこへ逃げても、その視線から逃れられない。

 現実でも夢の中でも、彼女は同じ言葉を繰り返し俺に告げてくる。


『許さない』


――――


 いつまでも廊下をさまよい歩き続けてもいられず、結局廊下を歩いていた教師に見つかり強制的に教室に戻された。

 黒板をぼんやりと見つめる。今は国語の時間らしい。

 どうでもいい。

 教室の中はあの日の前と、一角を目に入れなければほとんど変わらないように見えた。


 ……いや。

 自分の発想に違和感を抱く。よく見れば、そこ以外にも違うところがある。

 もう一つ、空白の席が目に入っていた。


 ただ、そんなことも今の授業と同じくらいにどうでもよかった。

 その席の主がもう何日も学校に来ていないことも、その人物が中心となって雫を追い込んだことも。

 不登校が始まったのが雫の死からだということも。

 何もかもが俺の関心の外だ。

 そう言えば、名前は何と言っただろうか。


 ……。

 …………。

 ……まぁ、いいや。


 覚えていてもいなくても、同じことだ。

 教室の中にいる誰もが等しく、俺の興味の範疇から外れた。

 ここにいる誰もが加害者で、俺の共犯者だ。

 しかし、最後の引き金を引いたのは自分自身。

 だから誰一人恨む理由がない。

 誰にも興味を抱く必然性がない。


 彼女の名前は何と言っただろうか。

 すぐに思い出す気力も失せて、適当に女子Aとでもしとこうと思った。

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