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第36話

 その刹那、蝉の声が消えた。

 完全な静寂が、二人の間を支配した。

 時間が止まってしまったと錯覚してしまうほどに、その一瞬は永遠にも及ぶ長さに感じられた。

 背中をつたう汗の感触とともに、再びひぐらしの声が戻ってくる。


「……!」


 ずっと止まったままだった雫の目が大きく見開く。

 なのに、それでも雫はまだ沈黙を保ったままだった。

 俺も雫も、自分たちが言うべきセリフがわからなくなっていたのかもしれない。

 いつしか、ポツリと雫の声が漏れた。


「どうして……?」


 今にも零れ落ちそうな涙を必死に堪える潤んだ瞳が、胸を強く締め付けた。彼女の唇は微かに震えている。

 そんな彼女の姿が見ていられなくなり、目を逸らす。


「……もう、限界だと思った」


 理由を簡潔に言ってしまえば、それが全てだった。

 俺の気づかぬ間に始まっていた雫へのいじめは、その短い期間で彼女の心を限界まですり減らしていた。

 その変化にだけは、俺は気づいていたのに、その原因にまで考えが及ばなかった自分の責任だとすら思う。


「もうこれ以上、雫が傷つくのを、見たくない」

「……それは、『女子A』さんたちのこと?」


 雫の問いに黙って頷く。

 視界の外で雫がどんな顔をしているのか、わからなかった。


「私は、限界なんて――」


 雫の言葉が途中でぷつりと途切れる。

 驚いて思わず顔を上げると同時に、雫は突然立ち上がった。


「……!」


 大きく見開かれた目に込められた感情が、一ミリたりとも理解できない。連想することすらも。

 何度もまばたきを繰り返し、やがてその表情が苦悶に満ちていく。

 その感情の正体が、悲しみなのか、怒りなのか、それすらもわからない。


「そっか……」


 突拍子のない動きとは対照的にその声は、落ち着き払っていている。

 何か取り返しのつかない、いや元々がそうなのだが、俺の予想していない方向のそれが起こっているような気がした。

 原因不明の焦燥感が頭をよぎる。


「お、おい……」


 しかし、雫の中では最早何かが完結してしまっているようで、俺の言葉が届いている気配が見えない。


「そっか……」


 もう一度、同じ言葉を雫は口にした。

 しかし、そこにある意味合いがさっきまでとどこか違うと、その差異自体が何なのかはわからないが、そう感じた。


「しず――」

「……今まで、ごめんなさい」


 その声が鼓膜を震わせた次の瞬間、視界の中の雫が大きく揺れた。

 次のまばたきから目を開くと、そこに彼女の姿はなかった。

 焦って顔を動かすとすぐに雫の後ろ姿が目に入った。

 が、それもグングンと遠ざかっていく。


「雫っ!」


 呼び止めようと張り叫ぶようにして出した声も、無意味だった。

 彼女の小さくなる背中はその勢いを止めることなく、そのまま黄色の柵を抜けて曲がると見えなくなってしまった。


――――


「はぁ……」


 ドッと力が抜けてベンチにもたれかかる。

 終わった。

 終わってしまった。


「……これで、よかったんだよな」


 もうこれで、俺と付き合っていない雫は、攻撃される理由がなくなった。

 俺から振ったという形だから、余計によかったと言うべきかもしれない。

 胸に痛みはほとんどなかった。

 まだ今に現実感を抱けないからなのかもしれないと思った。

 もたれかかっているベンチの板に首を乗せて、そのまま空を見上げる。

 その時に初めて、もうとっくに夕陽は沈んでいて、辺りが夜の帳に包まれていることを知った。自分が座っているベンチの周りだけが、常夜灯の白い灯りに照らされて明るかった。

 虫の声が耳に入ってくるのを感じながら、夜空の星を数える。


 ぽっかりと何かが抜け落ちてしまった。

 どこから、何がなくなってしまったのか。

 ぼんやりとした頭で考えてみても、答えは見つからなかった。


――――


 次の日の朝も、俺は部活をサボった。

 何もやる気が起きなくなっていた。今こうやって登校できただけでも奇跡のように感じられた。

 昨日と同じようにいつもより早い時間に教室に足を踏み入れ、自分の席につく。

 雫の席の方を見たが、まだそこは空っぽだった。

 それから少し時間が経ち、HRが近付くにつれて、教室内の席が埋まり始めた。

 その中には朝練をこなしてきたであろう運動部の姿もある。


 ダンッ!

 背中に痛烈な衝撃。

 振り返るまでもなくそれが誰なのかわかった。


「……何だよ、『男子A』」

「それはこっちのセリフだ。朝練はどうした。顧問が滅茶苦茶キレてたぞ」

「寝坊した」

「お前なぁ……」

「そのイライラは結局オレたちに回ってくるんだからな……」


 そうボヤきながら『男子A』は呆れ顔で頭に手をやった。連帯責任とかきっとそういう言葉を笠に着て、威張り散らす顧問の姿が思い浮かぶ。


「すまん……」

「お、おう……?」


 素直に謝ったことと、それ以外に何も言わないことを不審に思ったらしい『男子A』が首を傾げる。

 そこでふと何かを思い出したように指を鳴らした。


「そういや、昨日は四宮さんとどうしたんだ? 何か彼氏らしいことでも?」


『男子A』は品のない笑みを貼り付けた顔を近づけてくる。

 いつもならただの悪ふざけの一つとして、バカみたいな応対ができたかもしれなかったが、今の俺にはそんな器用なことをするだけの気力がなかった。


「いや、昨日は――」


 ガララー。


「おーい、席つけー」


 普段と変わりない担任の気の抜けた声に、俺の言葉はかき消された。


「ありゃ。んじゃ続きはまたあとでな」


『男子A』は軽く手を上げて自分の席に向かった。

 もう一度、視線をさっきと同じ場所へ移す。

 まだそこに、四宮雫の姿はなかった。


「おや、四宮はまだ来てないのか」


 そう担任が口にすると、いくつかの視線が俺に向かれたのを感じたが、無視して担任の次の句を待った。

 今の口調から察するに、四宮の欠席の連絡はまだ学校に来ていないようだ。


「珍しいな……。休むとは聞いていないが……、戻ったら確認するか」


 手に持っていたファイルを教壇の机で軽く整えると、それからはまたいつものように出席をとり始める。

 天笠孔人という名前が最初に呼ばれてそれに応えると、あとは他のクラスメイトの名前と返事の繰り返し。

 不自然に空いた彼女の席が気になって仕方がない俺は、それらの声も耳に入らなかった。

 

『そっか……』


『……今まで、ごめんなさい』


 昨日の最後の言葉が、今もなお頭から離れない。

 その直前まであんなにも泣きそうだったのに。

 あの瞬間は一滴の涙もこぼれる素振りを見せなかった。


「……大丈夫かな」


 振った本人が言っていいわけがないのはわかっていたが、それでもポツリと漏れてしまった言葉。

 一時間目の準備をしたり、友人と話したりするクラスメイトのたてる物音が、幾重にも重なり合っている。

 その騒々しさと憂鬱な自分のギャップのせいで、心が不安定になる。


 不安定。

 不安定……。

 ……不安定?


「……違う」


 一文字多いことに気づく。これは、不安だ。

 教室の中にいない一人の女の子のことが心配で、だから不安なんだと。

 そんな憂慮から逃れるように、頬杖をついて窓の外をぼんやりと見つめる。


 白い雲がかかる青い空。

 その清々しい景色が余計に自分の心を重く沈めていく。

 朝が過ぎた道路にはほとんど人影がなく、この町から人が誰もいなくなってしまったかのような錯覚を抱いた。

 ふと、教室内の騒々しさに異質さを帯び始めていたことに気づく。

 いつからかはわからないが、誰もの声に焦燥感が含まれているようだ。

 きっと抜き打ちの小テストがあるとか、そんな話だろう。


 どうでもいい。

 俺の目は学校の外の世界を向いたまま動かない。


 ――その時だった。


 目の前を何かが通り抜けた。

 間髪入れずに鳴り響く鈍い音。


「……は?」


 あまりにも唐突な出来事で、何が起こったのか認識できない。


 今のは……?


 突然、誰かが泣き叫ぶ声が突き抜けた。

 それを皮切りに教室内がパニックに陥る。

 静かなのは俺だけだった。

 ただ俺一人だけ、窓から目を逸らせずにいた。


 今のは……


「……雫?」

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