第35話
次の日の授業は散々だった。
先生の話す言葉は耳から通り抜けていき、黒板に書かれた文字もひどく歪んでしまい読めなかった。
痛烈な睡魔と怠さが全身におもりのようにへばりつき、しかし眠ることも許されずに、死人のような時間が無限にも及ぶ長さに引き伸ばされて進んでいく。
誰のことも目に入らず、誰の言葉にも耳を傾ける気が起きなかった。
流石に俺の異変を察して、いろんなやつが俺に話しかけてきたような気がする。
ギリギリ、ある程度の反応は返したような記憶があるが、それすらも曖昧だ。
嘔吐感が絶え間なく俺の身を蝕み続けた。
何度便所に行っても、口からは一滴の唾液すらも出てこなかった。
これがただの睡眠不足の症状なのか、それ以外に原因があるのかも、途中からわからなくなっていく。
それでも、どうにかただ一つだけの事柄だけは、頭の中にしっかりと残っていた。
昨日の決心、今日自分がなすべきこと。
それは、雫に別れを告げること。
タイムリミットは、すぐそこまで差し迫ってきていた。
――――
「なぁ、雫」
「えっ?」
HRが終わると俺はすぐに雫の席へ足を運んだ。辛うじて残った体力で、平静さを取り繕う。
「ぶ、部活は……?」
「具合が悪くて。休むってことも、もう言ってある」
「今日ずっとしんどそうだったけど、大丈夫なの……?」
雫は昨日のことを気にしてか、俺には自分から近づいて来なかった。
だから、これが今日初めての会話だということになる。
「ああ。今日は少し身体を休めようと思って。だから、一緒に帰ろう」
辺りが微かにざわめいた。
まだ教室内に人が残っているのに、雫にこんな提案をするのは少し失策だったかもしれない。
でも、大丈夫だ。
今日で、終わりだから。
「うん、わかった。ちょっとだけ待っててね」
いくらだって待てる。
今までずっと待たせる方だったから。
そう口にしかけたが、結局やめた。
変に察しがつかれたら、これからのことがスムーズに運ばなくなってしまう。
さっきまでの死にそうな体調が嘘のように、頭は正常に作動しているようだった。
急いで荷物をカバンに詰め始める雫。
きっと今日も俺の部活があると思って、帰る準備を後回しにしていたのだろう。
その中のいくつかは不自然に汚れていたり、折れ曲がったりしている。
思わず怒りがこみ上げてきて、まだ教室に残っている『女子A』たちを睨みつける。
すると、ずっとこっちを見ていたらしい彼女たちは、気まずそうにサッと目を逸らして、さも関係ない会話をしていたような素振りを見せた。
お前たちのせいで……。
お前のせいで……、雫は……っ。
いつの間にか強く握り込んでいた拳が、細かく震えていることに気づく。
無意識のうちに怒りを露わにしてしまっていた。感情の抑制が自分だけではもうできなくなっている。
「天笠くん?」
雫の声でハッと我に返る。
振り返ると雫はカバンを前に提げて、目の前に立っていた。
「あ、ああ。じゃあ……」
自分もカバンを肩にかけて教室を出る。雫も俺の後ろを追うようについてくる。
教室の中からまた女子たちの声が歪んで聞こえてきたが、それを無視して俺は下駄箱に向かった。
――――
雫と二人で校門を抜けると、眩い太陽が雲間から姿を現す。
透き通るような青と、それとは対照的に真っ白な雲が点々と位置している空。
そんな空を見上げて、少し不思議な感じがした。
こんなに明るいうちに下校すること自体あまりなく、あったとしても試験前の部活が強制的になくなる時くらいだからだ。
しかし、そういう時は決まって生徒全員が下校するわけで、周りには同じように帰り道を歩く人影がたくさんある。
あまり他の生徒が歩いていない明るい帰り道というのは、中学校に一年以上通っていて、初めてと言っても過言ではないのかもしれなかった。
「どうしたの?」
「えっ?」
校門から数歩と歩かないうちに、雫がそう問いかけてくる。
街路樹にしがみついている蝉の声がやかましかったが、雫の声はその中でもはっきりと俺の耳に届いた。
「今日の孔人くん、ちょっと変だよ……」
「そうかな」
図星を突かれてドキリとする。
口では何でもない風を装ったが、はたして誤魔化せたのかどうかよくわからない。
「ふぅん……」
雫は顎に手をやり探偵のような素振りをしてみせた。
「怪しい……」
そう言って俺の顔を覗き込んでくる。
すぐ目の前にある彼女のきめ細かく白い素肌。
その表面に留まる一雫。
この暑さだから汗をかいていてもおかしくないが、どういうわけかそれは自分の鼓動をさらに早める。
無意識だろうが、俺の顔に彼女の吐息も触れてきて、それがこそばゆい。
「何でもないって」
一歩下がって雫と距離をとる。
これ以上、今のを続けられていたらどうにかなってしまいそうだった。
「そっか……うん、孔人くんがそう言うなら、そういうことにしておくね」
どこか納得のいかない表情の雫は、前に向き直ってそう言った。
誤魔化せたかどうかはさておき、どうにか煙に巻くことができたという安堵感と、それから後に小さな罪悪感が胸を刺した。
雫に嘘をついた。
その事実は、どれだけ頭の中で言い訳しても覆ることはない。
「はぁ……」
思わず一つため息をつく。
そう言えば、いつ話を切り出すかまでは考えていなかった。
部活をサボって、雫と一緒に帰る途中、というところまでは考えていたが、具体的にその後どうやってその話にもっていくのか。
そう思った途端に、俺と雫が別れるという話が、急速に現実味を帯び始めた。
もう二度と、こうやって一緒に帰ることはないのだ。
もう二度と。
今日の、この瞬間が最後。
明日になれば、雫はもう俺の彼女ではなくなっていて、俺も雫の彼氏ではなくなっている。
昨日散々考えたことが今さらになって、徐々に脳裏を占拠し始めて恐ろしくなる。
軽く首を回して、右隣を歩く雫の姿を目に入れる。雫もこの時間に帰るのは久しぶりだからか、明るい帰り道の風景に目を奪われているようだった。
俺が見ていることに気づかずに、ただどこか遠くの何かを見つめている。
そんな彼女には、まさに可憐という言葉がピタリと当てはまると思った。
ふいに俺の視線に気づくと、雫はキョトンとした表情を浮かべた。
「孔人くん?」
嫌だ。
そんな叫びが頭の中で鳴り響く。
雫と、別れたくない。
こんなにも好きなのに。
ずっと一緒にいたいと思っているのに。
どうして俺は、雫に別れを告げるための言葉を考えているのだろう。
「大丈夫……?」
「あ、ああ。ちょっと疲れてるのかも。昨日あんまり寝られなくて」
「そう……なんだ」
何か思い当たる節があったらしい雫は、それ以上先を聞いてくることなく、また目線を元に戻した。
ふいに、やわらかな風が吹いて、雫の前髪はそれになびいた。目にかかったまっすぐで黒い髪を、音もなく指先で梳くように横に流して耳にかける。
その一連の動作がやけに印象的だった。たぶん、見惚れていたのだと思う。
ふと、数週間前にも見た花火大会のポスターが目に入った。知らないうちに、あの日、雫とキスをした公園にまで、俺たちは行き着いていたのだ。
自然と足がそっちへ向いていた。そんな俺の行為に違和感を抱くことなく、雫も何も言わずに俺について来た。
入り口の黄色いアーチ状の柵を通り抜けて中に入る。
前に座ったベンチにはあの日と同様に他の人の姿はなかったが、公園の中には散歩する老人の姿や、ペットの散歩をする若い女性の姿が見受けられた。
「静かだね」
「あんまり人が通らないからかな」
「確かに、あんまり小学生とか来るイメージないかも……」
「それにもう少し歩けば、遊べる公園あるしな」
実際小学生の頃はこの公園に来ることなんてほとんどなかった。
中途半端な広さで鬼ごっこや野球とかにも向かなければ、遊具もなくて本当に遊ぶ用途に使えない。
そんな場所に今、好きな女の子と二人きりでいるのが、その不便さに救われているのが、少し可笑しい。
ベンチの上の砂や草のかけらをある程度払いのけて俺が座ると、雫はカバンをそっと置いてからスカートが捲れないように手で押さえながら腰を下ろした。
「孔人くんは、あっちの公園でよく遊んでたよね」
「え、なんで知ってんの?」
「私もこの近所だから、たまにこの辺通るの。それで、よくこの辺を走り回ってる隣の学校の男の子たちを見つけて、その中に孔人くんがいた」
「……つまり、雫は俺のことを前から知ってたのか?」
「うん。何だかストーカーとかみたいで変かなって思って、今まで言わなかったんだけど……」
えへへ、と雫がはにかむ。
自分が小学生の頃を思い返すが、そのどこにも雫の面影を見つけることができない。
その時いた友達と遊ぶことに熱中していて、周りからどう見られていたかなんて考えたこともなかったからだ。
俺が彼女について何も知らなかった時から、俺を知ってくれていた女の子。
そんな秘密を今になって打ち明けられても、四宮雫という女の子を、俺は今から――
「……あ、やっぱり、変……だよね」
俺の沈黙を完全に別の意味と誤解したらしい雫の目が、シュンと沈んでいく。
それこそ誤解だと慌てて弁解する。
「いや、全然変じゃない。むしろこう、俺が全く知らなかったのが申し訳ないっていうか……」
「それは……。だって私は全然目立たなかったし……、学校も違かったし」
「でも……」
もしも、その時から雫に会えていたら……。
と、口にしかけた言葉をすんでのところで飲み込んだ。
今、俺は何と言おうとしていた?
伝えなければならない言葉とは、正反対の意図のセリフなのに。
「……その時は全然気づかなかったな。雫がいたなんて」
「あたりまえだよ。むしろ覚えられてたら、引いちゃうかも」
「理不尽じゃないか、それ?」
「孔人くんは、目立つしカッコいいから別」
「そ、そう……」
話の流れとは言え、雫の口から『カッコいい』なんて単語が出てきて、顔が熱くなった。
「……!」
すると、俺の反応から自分の言ったことの意味に気づいたのか雫も赤面し、焦りながら次の句を続ける。
「そ、それに、私以外の子も孔人くんのことは知ってたよ?」
「えっ」
予想外の情報に思わず声が裏返ってしまった。
「俺ってそんなに有名人だったの?」
「本当に自覚ないんだね……」
雫は苦笑いを浮かべて口元に手をあてる。
「な、何なんだよ」
「んー……、教えない」
「なんで?」
「なんとなく?」
「なんとなく」
「うん」
呆気にとられる俺を見て、雫はまた面白そうに笑った。いたずらをする子どものような笑みだった。
本当に、話すようになったときに比べて、随分と表情の幅が広がったと思う。
表情だけじゃない。いろんな雫を、今まで俺は知ってきた。これからだって、一緒にいられれば、もっとたくさんの側面を見つけることができるのだろう。
そんな思いは俺の決意をどんどんと鈍らせていき、他愛のない会話が往生際悪く二人の関係を延命する。
ただ、時間だけが、過ぎていく。
――――
雫と一緒にいる時間は、日常生活での同じ時間と比べてひどく短いものへと変貌する。これまでもそうだったが、今日は特に顕著だ。
日が傾き始めて、一面の青色だった空の端に少しずつ橙色が染み込む。ひぐらしの声が蝉の鳴き声の中にまじり始める。
一日の終わりが刻一刻と近付きつつある。
ベンチのすぐ傍に備え付けられている外灯はまだついていないが、それも時間の問題だろう。
なのにも関わらず、俺は未だに雫に別れを告げられないでいた。
あと少しだけ、もう少しだけ、と先延ばしにしてきたが、それももう許されない。
隣に座る雫は本当に楽しそうにいろんな話をしてくれた。
好きな本の話。
好きな音楽の話。
好きな食べ物の話。
雫は自分のたくさんの好きを、俺に教えてくれた。
俺は基本的に聞いている方に回っていたから、それで雫が本当に楽しめていたのかはわからない。
でも少なくとも、俺にはそうやって自分のことを話している姿は、心から幸せそうに笑っているように見えた。
それを聞いている俺も、幸せだった。
だから、こんなに時間をかけてしまったのだ。
「それでね……。……孔人くん?」
雫の言葉が止まり、少しだけうろたえるような声を上げる。
自然と俺は手を伸ばしていた。具体的にどこへ向かうでもなく、雫の方へと。
触れたくなった。
彼女の指に、彼女の顔に。
何でも良い。
その体温に触れれば、今の自分を解放してくれる。そんな気がした。
「?」
雫は不思議そうに俺の指先を目で追う。
……ダメだ。
強くそう直感する。
もしもこれで触れたら、せっかくの決心が鈍ってしまう。
そうなれば、雫にとってのつらい日々が明日以降もずっと続くことになる。
だから――、」
「なぁ、雫」
そこで一旦区切って、大きく深呼吸をする。
俺の様子の豹変に気づいてか、雫は何も言わなかった。
改まって雫に向き直ると、真剣な眼差しが俺を捉えて離さない。
もう一度息を吸って、その一言を口にする。
「別れよう」




