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第34話

 それからまたいくらか、日々が過ぎた後。


「孔人くん、今日も部活?」


 最後の授業が終わると雫が目の前にいた。手にはどういうわけか文庫本が一冊、抱えられている。


「ああ、そうだよ」


 教室内はこれから掃除に向かう生徒たちがたてる物音であふれ返っていて、雫のか細い声は少し聞き取りづらい。


「じゃあ、いつもと同じでいいかな」

「おう」


 雫が踵を返すのを見て、俺も席から立ち上がろうとする瞬間。

 ――さい。

 微かに、彼女の声が耳にかすめた、ような気がした。

 しかし雫の方を向いても振り返る気配はない。

 俺に向けられた言葉だったら、そうするはずだがそういうわけでもない。


「……気のせいか」


 と自分の机に目を戻すと、既に片付けてまっさらなはずの机の上に、一冊の本が置いてあった。

 ついさっき雫が持っていた本だとすぐにわかる。

 置き忘れてしまったのだろうか。

 そう思って声をかけようとするも、既に教室内に雫の姿はなかった。

 まぁ、いいか。掃除が終わった後にでも渡せば。

 ほとんど手付かずの教科書やノートが入った引き出しに、雫の本をしまって俺は自分の清掃場所である階段へと向かった。


――――


 やる気のない掃除でも、時間をかければそれなりのものがある。

 そんな感じでそれなりの綺麗さを取り戻した校内には、微かに洗剤と埃の臭いが漂っていた。

 まだ少し濡れている廊下を抜けて教室に入ろうとすると、女子たちの笑い声が聞こえた。

 耳に入っても全く気分の良くならない、むしろ不快な部類に入るような、嘲笑。

 一瞬、入り口に足を踏み入れることが躊躇われたが、ここで引き返したとしても意味がないことに気づいて、そのまま歩みを進めた。


「……っ!?」


 そこにあったのは、目を疑いたくなるような光景。

 一つの机がひっくり返されていて、その中身は木目調の床の上に無造作に放り出されている。

 教科書も、ノートも、筆記用具も、何もかもがだ。

 それらを一つひとつ拾い集める一人の女子の姿。

 乱雑に落ちているノートには、持ち主の名前が丁寧な字で書かれている。


 四宮雫。

 そう、書いてある。


「雫……?」


 ハッと屈んでいた女の子が俺の方を振り向き、大きく目を見開いた。


「……!」


 驚き、焦り、絶望感をいっぱいにした表情が、あまりにも見ていて痛々しい。


「なんだよ、これ……」


 いつの間にか笑い声は止んでいたが、誰の声だったかはあまりにも明白だった。

 屈んでいる雫のすぐ傍にいた、三人の女子の顔がさっきまでと打って変わって青ざめていたからだ。

『女子B』に『女子C』、そして俺の登場によって口元を最も歪ませている『女子A』。

 彼女の狼狽から、何が起こっていたのかのほとんどを俺は察することができた。

 いつだったか『女子A』に告白されたことがある。

『女子A』は俺に対して好意を抱いていたようだったが、俺は彼女に対してイエスという返事をすることができなかった。

 その俺は今、雫と付き合っている。

 現状を生み出した原因の構図は、きっとそんなシンプルな代物だろう。


「何なんだよ、これは」

「そ、それは……その……」

「何をしたんだって聞いてんだよ」


 あやふやになる言葉尻が神経に触ってきて、声を自然と荒げてしまう。

 こんなに怒りの感情を露わにしている自分に驚いたが、それも胸の中から沸々と湧き上がるものにかき消される。

 これは雫に対して向けた怒りの感情とは、似て非なるものだ。怒りの他にもいろんなマイナスが含まれている。


「ちょ、ちょっと、そんなに『女子A』を責めなくたっていいじゃん!」

「そうだよ! 天笠くん、言い過ぎ!」

「……は?」


 まるで自分たちの方が被害者であるかのような口ぶり。

 彼女たちの言動に、一瞬怒りも忘れて唖然となる。

 その隙が仇になったのかもしれない。


「いくらなんでもね……」

「うん、酷いね……」


 言葉を失った俺にあちこちからひそひそ声で、非難が漏れてくる。

 辺りを見渡しても、こっちを見ているのは女子ばかりで、その誰もが皆同じ目をしていた。

 男どもはそれとは真逆に全くこっちを見ようとしない。関わること自体を避けているようだった。

 確かに俺だって余計なことには関わりたくないし、小競り合いくらいで口を出したりなんてしない。

 だが、これはそんなレベルじゃない。一体どうして、この状況下で見て見ぬふりをすることができるんだ?

 怒りの矛先が次々と増えていき、次第に俺は誰に対して何をすれば良いのかもわからなくなっていった。


「大体さぁ、そもそもは四宮さんが調子乗ってたのが悪いわけじゃん?」

「そうそう。あーあ、『女子A』がかわいそうー」


 俺と雫を包囲する女子の群れが一様に頷く。

 見渡すと『女子A』に追従する者たちは、少なくともクラス内の女子の半数以上にも及んでいるようだった。

 慣れたような彼女たちの言動から、これらの所業が昨日今日から始まったことではないのは明白だった。


「だから、こうなるのは仕方ないんだよ」

「うんうん」


 コイツラハ、ナニヲイッテイルンダ?


「そもそも孔人だって女見る目ないよ。四宮さんなんて」

「そうそう。根暗のくせに調子乗っててウザいし」

「お前ら……!」


 自分だけでは抑えきれなくなりそうな勢いが、腕にかかる引力でせき止められる。

 見ると、制服の袖を雫の白い手が掴んでいた。


「こう……天笠くん、やめて……」


 今にも泣き出しそうな雫の顔がそこにあった。

 彼女の虚勢はすぐに瓦解しそうなほどに弱々しいのに、その手を振り切ることができない。


「私は、大丈夫だから……」


 ……嘘だ。


「ただ私が転んで、机を倒しちゃっただけなの。だから……」


 嘘だ……!

 そう口にしそうになったし、ほとんど喉まで声は行き着いていた。

 なのに、どうしてもそれを言うことができなかった。


「そうだよ、天笠。四宮さんが悪いんであって、あたしたちのせいにしないでよ」


 そんな『女子A』に同調するように、前から、後ろから、左から、右から、そうだよとコールが飛んでくる。

 四方八方から注がれる同調圧力の視線を、自分ひとりでどうこうできる気が全くしなかった。


「……わかった」


 震えそうになる声を必死で抑えて、雫に答えた。

 俺がここで動いたとしても、雫への女子からのいじめが止むことはないと直感していた。

 逆にその卑劣さを増してしまう可能性だってある。

 もっと陰湿に、もっと巧妙に、もっと見えづらく、もっと精神的に来るように。

 何十にも及ぶ冷たい目の列はそんな予感と、これまで経験したことないほどの戦慄と恐怖を俺に抱かせた。

 せめてもと思って雫の荷物を拾うのを手伝おうと向き直るも、もうほとんどが机にしまい終わっていて、俺の出る幕はどこにもない。


 飽きたのかどうかはわからないが、俺たちを取り囲んでいた女子たちの姿はもうなく、皆それぞれの席に戻り始めていた。

 帰りのHRが始まるまではまだ少し時間があったが、その間にできることもあまりなかったからなのかもしれない。

 そしていつも通りの日常が再開した。

 雫に軽蔑の目を注いでいた女子たちは、ついさっきまでのことなんてまるでなかったかのように、近くの席のクラスメイトと談笑し始める。


「何なんだ……これ……っ」


 そんな平凡で異様な光景に、俺はゾッとして思わず小さな呟きが漏れた。

 誰にも聞き取れないような声だと思ったが、雫にだけは聞こえたようでハッと俺の方を向く。

 ようやく片付けが済んで席についた雫が、何か言いたげに視線をこっちに向けて、しかしまた逸らしてを繰り返す。

 俺も同じようなものだ。

 雫に対してかけるべき言葉が見つからない。


「おーい、席つけー」


 紙束を持った教師が入ってきて、ようやく我に返る。

 ただ無力感に苛まれながら、俺は雫に背を向けた。

 最後まで雫の口は閉ざされたままだった。


――――


 久しぶりにカラカラに乾いた地面を蹴る。本来ならこれ以上ない最高の時間のはずなのに、少しも頭の中の靄は晴れてくれなかった。

 放課後になっても雫とはほとんど口を聞かず、そのまま部活に出てしまっていたからだ。


「はぁ……っ、くっ……」


 一つ呼吸する度に肺に激痛が走る。

 酸欠のせいか全身に力が入らず、いつの間にか俺はコンクリートの地面に座り込んでいた。


「随分飛ばしてたな」


 俺と違ってケロリとしている『男子A』がタオルを投げてくる。それをキャッチして顔の汗を拭うも、全く心の中に溜まった淀みは消えてくれない。


「そりゃ、あんなことあったら――」


 と、言い終わる前に『男子A』が苦虫を噛み潰したような顔になったのがわかった。


「いつから気づいてた?」

「別に気づいてたわけじゃねぇよ。何となく、それっぽいかもしれないって思ってただけで」

「何だよ。気づいてなかったの、俺だけか……」


 無力感どころか恥ずかしさまで催してくる。

 彼氏でありながら、その彼女のいじめに気づかなかったなんて、鈍感にも程がある。


「……それに、四宮はお前には知られないようにしてたと思うんだ」

「俺に? どうして?」

「それは本人に聞いた方がいいと思うが。オレが言って良いことでもなさそうだし」

「お、おい」


 話は終わりだと言わんばかりに『男子A』は踵を返して、他の部員の元へ歩いて行く。

 彼らの動向を見るに、もう休憩は終わりで次の走り込みのようだ。

 走っている間に別のことを考えられるほど器用じゃない俺は、ただただ思い切り走った。

 しかし何かを思考する余裕はないくせに、ある映像が繰り返し思い浮かんできた。

 床に散らかった教科書とノートの束。

 それを懸命に拾う雫と、そんな彼女を見て下品に笑う『女子A』たち。


「はぁっ、はぁっ」


 ペース配分もクソもなかった。完全に自分の走りたいように走っている。これじゃ原始人と何も変わらない。

 最初に追い越した他の長距離の部員たちの足音が、背後から近づいてくるのが聞こえる。

 あたりまえだ。既に最初の半分近くにまで、俺の走るスピードは落ちているはずだ。

 解決策や打開案は何一つ思い浮かばないくせに、暗くドス黒い感覚だけが身体の中を暴れまわる。

 それら全てを振り切るように全力疾走を続けても、ずっと後をつけてきて離れない。自分がまるで迷路に迷い込んで走り続ける動物のように思えた。


 次々と後ろからの足音が俺の横を通り抜けて、また離れていく。俺一人を置いて、走り去っていく。

 遠くなるたくさんの背中。その中に後輩の姿もあるのを見つけた瞬間、視界が滲んだ。

 痛む胸が一体何に苦しんでいるのか。

 俺は、今どう思っているのだろう。


――――


 放課後の教室に足を踏み入れると、雫は変わらずそこにいた。

 もしかしたらいないかもしれないという可能性があっただけに、そのことだけで俺は救われるような思いだった。


「よ」

「……!」


 扉を開けると雫の目が大きく見開く。

 が、それが俺だとわかると途端に緊張感に満ちた目がほころんで、いつもの雫に戻る。


「お疲れ様」

「ありがと」

「…………」

「…………」


 いつもと同じようにと心がけてここに来たのに、二人きりになるとすぐに場を沈黙が支配した。

 雫は定席に座ったまま動かずに、机の表面を見つめて歯噛みするばかりで、何も言わない。

 二人とも今日の清掃時のことが頭にあって、会話する方法すら忘れてしまったようだった。


「……なぁ」


 それでも聞かずにはいられなかった。言葉にしなくてはいけなかった。


「うん……」

「あれ……いつから?」

「……結構、前」

「結構って?」

「わからないよ……。気づいたら、もう、始まってたの」


 一つ一つの単語をを何度も区切りながら、雫はどうにか言葉を返していく。慎重に、何度も確かめながら声に出す。


「どうして……」


 かすれかけの声で、雫にさらに問いかける。


「どうして、何も……?」


 ――何も、俺に言ってくれなかったんだ。

 雫は困ったように俯くばかりで、なかなか答えを聞かせてくれない。

 でも、ここで俺が折れてしまう訳にもいかない。俺は知らなければいけない。でなければ、雫とこれ以上付き合うなんてできないと思った。

 だから俺も黙って、雫の言葉の続きを待った。雫から目を離さずに、彼女の所作の全てを見続ける。

 ふと、俺のことを伺うように顔を上げる。

 沈みかけの夕陽の光が反射して、彼女のメガネの表面をなぞるように滑っていき、やがて潤んだ瞳が姿を現した。


 まるで尋問だ。

 そう強く感じた。

 こんなことをしている自分たちが理解できない。なぜこんなことになってしまったのか、その解はどれだけ考えても出て来なかった。

 雫に、こんな表情をして欲しくなんてないのに。

 彼女を苦しめている自分の存在が嫌になって声をかけようとした時、雫の口がゆっくりと開いた。


「孔人くんに、余計な心配、かけたくなかったから……」

「余計……?」

「だって、これは、私の問題……だから」


 雫の返答はある意味で言えば予想の範疇であり、そして最もそうでないでくれと願っていたものだった。


「違うだろ……!」


 これが雫だけに原因があるなんて、そんなことがあるはずない。むしろ俺自身こそが元凶だったはずだ。

『女子A』の気持ちを軽んじて、後先考えずに軽率な行動に出た俺こそが弾劾されるべきなんだ。

 そのしわ寄せが雫に向かっているなんて、そんなこと――。


「違くないよ」


 ――なのに。

 その声はあまりにも静かで、どこか冷めているようですらあった。

 背筋が凍るような声音に雫の顔を見直すと、そこにはうっすらと笑顔がにじんでいた。

 そんな雫の変貌に、俺は言葉一つ返すことができなくなってしまった。


「私は大丈夫。大丈夫だから、孔人くんは何も心配しないで、いいの」


 そう、同じ笑顔を俺に向けながらあっさりと言い切ると、雫はカバンを持って立ち上がった。


「だから、もう帰ろ?」


 彼女の言動にはもう苦痛や困惑の色がもう含まれていなかった。

 その部分がすっぽりと切り取られてしまったかのようで、逆に不気味さを漂わせている。

 呆気にとられる俺を横切って、雫は教室の扉へと歩いていく。

 やわらかな笑みを湛えながらすれ違う彼女から、ほのかに甘い香りがして思わずそのまま安心してしまいそうになる。


「ま、待てよ。まだ話は終わって――」


 彼女の動きを止めようと思って手を伸ばすも、振り返って俺に見せた表情が逆に俺の動きを止めてしまった。


「大丈夫」


 夕陽をバックに輝く雫の姿は悲しいまでに綺麗で、逆光で薄い影が落ちる顔は安らぎにも似た感覚を覚える。


「……っ!」


 それは今日見た中でも一番の笑顔だった。

 一番綺麗で、一番可愛らしくて、一番あたたかみにあふれていた。

 もしも、何も知らない人間が今の彼女に出会ったとしたら、四宮雫という少女は何の悩みも抱えずに、まっすぐ健全に生きているように見えるのだろうか。

 きっと、そうに違いない。

 だが、俺にはそれが悲哀の感情を溜め込んだ上で浮かべられたものにしか見えなくて、それ以上雫を見ていられなくなり目を逸らした。

 もう、雫はどうにもならないところまで来てしまっているのではないだろうか?

 そんな疑念が、胸の中に浮かび上がったのは、それから雫と一緒に帰って別れた後のことだった。


――――


 それからどうやって家に帰って、夕飯に何を食べて、いつ風呂に入ったのかよく覚えていない。

 身体に染み付いた習慣から、ほとんど無意識の内にこなしてしまっていたようだった。

 気づけば俺はベッドの上で横たわっていた。

 ドッと疲れが押し寄せてきて目をつむる。

 しかし眠気がどれだけ俺に襲い掛かってきても、眠りにつくことはなかった。

 雫のことで頭がいっぱいで、眠ることすら忘れてしまった。


「俺は……どうすれば……」


 このまま何もしなければ、『女子A』たちからの雫へのいじめは続くことだろう。

 きっと俺が変に庇ってしまったせいで、さらにエスカレートしてしまう可能性だって考えられる。

 それだけは避けなければならない。だから何もしないのはなしだ。最悪の手段と言ってもいい。

 でも、だったらどうすれば彼女たちを止めることができる?

 睡魔という毒薬に侵されつつある頭をできる限り精一杯稼働させて、次々と案を浮かべる。

 しかしそのどれもがあまりにも突拍子のないものだったり実現性の低いもので、浮かんで消すを繰り返す。

 その度に自分の無力さを痛感して、腕の皮膚を爪で強く握り込む。痛みで少しだけ目が覚める。


 いじめ。

 自分には縁がないものだと思っていただけに、いざこんな風に自分の前に立ちはばかられると、一切の手段が無意味と化した。

 対人関係で多少こじれることがあっても、それらはあくまで話し合いなりで解決できる代物で。

 だから、こんな時にどうすればいいのか、わからない。

 やり切れない思いから爪が頭皮にめり込んでいく。

 痛みの苦痛よりも、自分の不甲斐なさが悔しくて、恥ずかしくて、さらに雫の感情を想像して、辛かった。


 今にして思えば、予兆はあった。

 いつだったかを境に雫の笑顔に影が含み始めたのも。

 雫以外の女子たちへの形容し難い違和感も。

 雫の読んでいた本がなくなったのも。

 挙げていけばキリがない。

 その度に、どれだけ雫はその心を傷つけてきたのだろう。

 俺は何も気づいてやれなかった。

 そんな俺は、雫の彼氏として……。


「……失格だ」


 ポツリと漏れるように呟いた言葉は、部屋の暗闇の中に溶けていって、すぐに消える。

 ふと、ある方法が頭に浮かんだ。

 これなら雫を救えるかもしれない。

 そんな予感さえした。

 しかしその発想を振り払うように首を何度も横に振る。こんなのが救いになるわけがない。

 いじめは止まるかもしれないが、互いにとってただ辛いだけの選択肢だ。

 そう思って他の代案を考えようにも時間は無為に過ぎていくばかりで、その中でさっきの方法の現実味が増してくる。


「これしか……ないのか……?」


 光のない部屋は何も返さず、ただ静寂をもって自分への応対とした。


「これしか、ないのか」


 自分にこれを実行するだけの勇気があるとは到底思えず、声に力が入らない。

 しかし、ふいに今日の彼女の姿がフラッシュバックする。

 開いた状態で床に落ちてページがひん曲がっている教科書。

 苦悶に耐えるように奥歯を噛み締めながら、それらを拾う雫の姿。

 あんな日々を、これ以上雫に続けさせろって言うのか?

 そんなの、許せるわけが、ない。

 その時に、俺は意を決した。もう、引き返すことはしないと。


「……あれ」


 胸が痛い。

 何かに押し潰されそうな痛みが、胸に襲いかかる。

 思わず右手が心臓のある左側を押さえたがそんな行動に意味は皆無で、鼓動を押しつぶそうとする力がどんどん増していく。

 頬が熱い。

 熱い何かが頬を通っている。

 それが通り過ぎたあとは逆に急速に冷たくなって、すぐに乾いていく。

 次々とあふれる何かは、止まるような気配がなかった。

 いつの間にか頭を乗せていた枕はびっしょりと濡れていて、触れるとひどく冷たかった。

 いつまで経ってもそれらが収まることはなく、ただ夜は更けていく。

 やがて黒が塗りつぶした部屋には、微かに白色が混じり始めていた。

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